九珠と飛雕は顔を見合わせた。うわさの飛び交う江湖の末席を汚す身としては、鄧令伯絡みのことならどんなことでも聞いておきたいのが二人の心情だ——そしてこの講談師は、二人が鄧令伯と聞くと黙っていられないという確証を得てしまった。


「たしかに我々は鄧令伯殿を訪ねて蘇口に来ました。問剣会という名は初耳ですが、武術の催しがあるらしいと聞きつけて来たのはたしかです」


 九珠は飛雕を下がらせながら答えた。


「ははあ、成る程。たしかに蘇口の我々も集まりの名を聞いたのは最近ですからな」


 講談師は相槌に合わせて扇子で手のひらをぽんと打つ。


「なんでも予想外の人気ぶりに鄧爺自身が驚いて、慌てて箔の付く名を後付けしたとか。まあそうでしょう、軽い気持ちで開いた同好の集まりにわんさか人が詰めかけたばかりか、かの三尺掃塵さんじゃくそうじんまで現れたとなれば、誰しも冷静ではおれますまい」


 飄々と、しかし相手の腹を探るような口調で講談師は続ける。九珠は何も答えず、ただ講談師をじっと睨み返した。


「さて、そろそろ話を本筋に戻さねばならんところですが……その前にもうひとつ昔話をいたしましょう。いやなに、前座はこれで最後ですよ」


 講談師は気分を変えるようにぐるりと場を見回した。聴衆の野次にものらりくらりと笑いながら、手中の扇子をくるりと操り、講談師は再び語り始める。


「実は鄷都関の一件も、此度の噂と関係しておりまして。賊どもを破った英雄の一人が、かつて江湖剣界に君臨した女帝ではないかと言われているのです。かの九天一指きゅうてんいっし李玉霞りぎょくかに」

「九天一指? あの人にそんな二つ名があったのか?」

 飛雕が低い声で疑問を呈する。この聞こえるか聞こえないかの問いは講談師によって巧みに拾われ、軽い笑い声とともに返された。


「龍虎比武杯で優勝したときについた二つ名だそうですよ。もっとも、そう経たないうちに彼女が公天に嫁いだ上、二つ名や名声に執着しないタチだったことからあまり知られてはいませんが、ね。まあ有名な話ですから軽くいきましょう。

 その昔——今から三十年ほど前のことになりますが、北岳ほくがく恒山こうざんにて開かれた龍虎比武杯で、一人の女傑が江湖一の栄誉を手に入れました。姓は李、名を玉霞という彼女は、剣客でありながら剣を持たず、己の手指だけで九州を制するという並外れた実力の持ち主でございました。さて、そんな彼女に惚れ込んだ男が一人、婚姻を何度も申し込んでいましたが、その度に追い返されておりました。この男の名は公孫然こうそんぜん——剣をそれなりに嗜んではいましたが、実戦より評論に長けた趣味人です。それが名家の次男坊だったおかげでついに兄の公孫逸こうそんいつが立ち上がり、彼女に三招の勝負を挑みました……そう、二人はあの公天鏢局の公孫です。そしてこのときの勝負は三招以内に彼女が勝てば彼らは永遠に結婚を諦め、負ければ問答無用で嫁ぐという、まさに運命の一戦でした」


「……おいおい、公天鏢局って言やあ一族郎党が全滅したとこじゃねえか」


「じゃあ李玉霞も死んだのか?」


「どっちにしろ変な女だよ。結婚もせずに剣だけ振り回して生きていようなんて、俺の女房がそんなだったら即刻離縁してるね」


 話の合間を縫うように、聴衆が好き勝手話す声が聞こえてきた。九珠はじっとこらえて聞き流していたが、妙に気が立って仕方がない。


「だが李玉霞は公天に嫁いだんだろう? その勝負ってのは公孫逸の勝ちじゃねえか」


 誰かが声を上げ、講談師は大きく頷いて応えた。


「ご明察。事実、この公孫逸というのが隠れた達人で、李玉霞は一手ともたず敗れたそうです」


「はっ、言わんこっちゃない」


 また別の声が嘲笑する。それを聞いた途端、九珠はぶわりと全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


「まあ、かくして李玉霞は公天の第二夫人になった次第です。そうして江湖にはめっきり姿を見せなくなり、かの悲劇を境に消息も掴めなくなりました。ただあまりに天才的な剣客だったために、その存在感だけは消えることがありませんでしたが、ね」


「やっぱりそんなもんじゃねえか。女なんて、一度家に入れちまえば皆同じだ」


「はは、間違いない」


 近くの席の二人組が声を立てて笑う。九珠は動きかけた手をぐっと握り締めた。が、いくら必死に平静を装っても、頭の中を渦巻く炎のせいで講談師の話もろくに入ってこない。


「大哥?」


 ふと、飛雕が小声で尋ねてきた。おかげで炎が少しだけ退き、九珠はその間に小さく息を吐く。

 その間に、講談師の話は公天鏢局の滅亡と李玉霞の失踪にまで至っていた。講談師はひと呼吸入れると意味ありげに扇子を回し、「さて、」と声を落として言った。


「ここで鄷都関の英雄でございます。彼もまた剣を使わず、手指だけを武器とする剣客で、太刀筋も李玉霞のものとまったく同じ。おまけに問剣会の噂を聞きつけてこの蘇口に来ていると言うのです。生き延びた女帝が隠居に飽きたのか、それとも幽鬼が現れたか、はたまた虎の威を借りてでも目立ちたい輩の悪戯か——」


 九珠はついにたまらなくなり、講談師に向かってぐんと一歩踏み出した。飛雕が服を掴んで止めようとしたが、それを振り切って台に近付く。余裕綽々だった講談師の顔が引き攣ると同時に、九珠は拳に力を込めた——


「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」


 ふと、凛とした女の声が割って入った。九珠が即座に声の主を睨むと、中年がらみの女の旅人と目が合った。

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