仇
九珠はたまらず簫無唱と江玲と顔を見合わせた――今や誰もが鄧令伯の本性を知り、その狂気的なまでの信心に戸惑いを隠せずにいる。簫無唱は怒りを秘めた顔でため息をついただけだったが、江玲の方は怒りや恨みを通り越して呆れと嫌悪を浮かべている。
「なんて男なの」
江玲がぽつりと呟いた言葉には、九珠も共感せずにいられなかった。鄧令伯が「孤高の李玉霞」という偶像を崇めるあまり仁義も道理も投げ出した手合いであることは身をもって知っていたが、それを堂々と開示してしまうほどだとは思いもよらなかった。
「あんたは李玉霞のことを何も知らない。我が公天鏢局のことも何も! 我ら公天の鏢師たちは皆『侠』の字のもとに集まり、侠を解さない者とは徹底して交わりを絶ってきた。逸大哥が李玉霞を下したのも、武の頂きを極めるのみでは不十分だと彼女自身が認めたからよ! それに姉さんは義の剣客、己の義に反して他人に求められたままを生きるなんてそれこそ李玉霞のやることじゃないわ! 姉さんは――」
声を荒げる江玲の肩に簫無唱が手を置いた。思わず黙り込んだ江玲に、簫無唱は黙ってかぶりを振って見せる。
「いいのです。あなたは鳴鶴についておやりなさい」
「でも……!」
「いいのです」
簫無唱はぴしゃりと告げた。たった一言だというのに、途端に場の空気が凍り付く。
「鄧令伯が義や侠の心を解さないことはよく分かりました。そして我らが最も厭う私欲のもとに公天を害した、不俱戴天の仇であることも」
九珠は思わず半歩下がった。簫無唱がただならぬ気迫を放ち、鬼神のごとき眼差しで鄧令伯を睨んでいる。
「その原因が私だと言うなら、良いでしょう。公天の第二夫人として、我らに仇なす怨敵を討ち取ろうではありませんか!」
言い終えるやいなや、簫無唱の手の中で鋭い光が迸った。空を裂いて現れたのは、出発前に竹林の墓所で見た公孫寧の剣だ。持ち主の殺気と剣気を十全に受けた剣は凶暴な光を放ち、剣そのものが殺戮の予感に打ち震えているようにすら見える。九珠は江玲に目配せし、そっと後ろに退いた――ここまで怒りと敵意を露わにした剣客は見たことがない。そして九珠の剣客としての勘が、自分たちでは簫無唱は止められないと告げていた。
彼女を止められるものは、どちらか一方の死のみだ。
簫無唱は剣を構えると同時に鄧令伯に向かって飛び出した。が、あまりの素早さに、九珠に見えたのは彼女が地を蹴る一瞬だけだった。気が付いたときには剣戟の音が鳴り響き、常人ではあり得ない速さで剣を振るう簫無唱に鄧令伯が目を白黒させていた。たった一人しかいないというのに、簫無唱は素早さでもって鄧令伯を包囲し、四方八方から攻撃を浴びせている。いつか江玲と飛雕が見せた公天鏢局の剣だと九珠はすぐに分かった。二人以上が歯車のようにかみ合うことで威力を発する、集団で動く鏢局らしい剣法だが、それを相方もなしにやってのける技量は目を見張るどころの騒ぎではない。
やがて、鄧令伯がわずかながら反撃に打って出た。もちろん鄧令伯が使うのは飛雕から奪った公天の剣だが、簫無唱はおろか、飛雕と比べても明らかに見劣りするほど鄧令伯の剣はたどたどしかった。簫無唱はわざと攻めさせるように間合いを取り、切っ先のみでいなしていく。鄧令伯は威厳も体裁もかなぐり捨て、簫無唱を捉えようと必死の形相で剣を振るっていた――が、未熟な技と付け焼刃の剣では簫無唱に敵うはずもなく、怒りがありありと浮かぶ顔にはすでに幾筋もの傷がついている。本来ならば、他人から奪った武功をもってしても鄧令伯が簫無唱に敵うはずがない。むしろ最初の一撃で命を絶たれているべきだったが、そうなっていないのは簫無唱が公天鏢局の名を胸に仇討ちに挑んでいるからだった。簫無唱が使う騙しの手が九天剣訣であることが何よりの証拠だ――九天剣訣で誘いをかけ、公天の剣で仕留めにかかる。公孫家の一員としての自負と誇りがそうさせているのだと九珠には分かった。
誇るべきもの、捧げると決めた心、うろのような簫無唱の中に眠る李玉霞の心が覚醒したのだ。同時に、簫無唱の動きはどんな手を使っても埋めることのできない力の差を見せつけているようでもある。まるで私欲のためなら他人から武功を奪うことも厭わない下卑た精神は公天の足元にも及ばない、公天の剣を使うに値しないと知らしめているようだった――それは武の頂点を誇る王者の風格でありながら、恩と義に最大の敬意を払う侠の姿だった。成る程江玲が彼女を「義の剣客」と称したことも頷ける。
二人はすでに百手近く交わしているが、簫無唱は勢いが衰えないばかりか攻勢を増しているようにさえ見える。一方の鄧令伯は誰の目から見ても明らかに疲弊していた。本気の簫無唱を相手にここまで耐えたこと自体が奇跡に等しいが、手を加えられての結果であることもまた事実だ。誰もが鄧令伯の限界を予見し、いつ斃れるかを見極める中、いよいよ追い詰められた鄧令伯が無理な斬撃を放った。
簫無唱は眉一つ動かさず、剣を軽くひねって斬撃を受けた。閃光が迸り、紅が散る。
野太い絶叫が響いたのはその直後だった。肩を押さえ、苦悶の表情でよろめく鄧令伯に簫無唱の剣が迫る。
その剣が決して薄くない胸板を貫いたとき、皆が一斉に息を飲んだ。
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