暗雲

 夜が明け、淀んだ朝が来た。


 曇天の下、九珠は新しく設けられた闘技場に立っていた――半歩前に立ちはだかるのは簫無唱、二人が対峙するのはぎょろりと目を光らせる律峰戒だ。


 鄧令伯は群衆の先頭で、重々しく三人を見つめている。明日の朝に持ち越しだと宣言したとおり、彼は簫無唱と律峰戒が対戦する場をあつらえてみせたのだ。しかし、いつもは饒舌で場を盛り上げることに熱心な鄧令伯も、この朝ばかりはむっつりと黙り込んでいて口数が少なかった。李玉霞という偶像を前にして出方をうかがっているのか、あるいはその偶像が彼に何の興味も示さないことが気に食わないのか。九珠はそんなことを考えながら、今度は奇妙な興奮に包まれた群衆を一瞥した。かつて覇を競い合った伝説の剣客たちが目の前に集結していると思えば無理からぬ話だが、どうもそれだけではないような興味を感じずにはいられない。


 江湖から姿を消していた者同士とはいえ、その引き際には天と地ほどの差がある――むしろ敗北と凋落の象徴ともいえる律峰戒がどんな無様を晒すのか、皆そんな悪趣味な興味をそそられているのではないかと九珠は思った。群衆の中に知廃生の姿は見えるのに常秋水がいないことが何よりの証拠だろう。


「さて、お二方。何を何で争いますかな」


 重々しい空気の中、鄧令伯が口火を切った。


「無論、九珠の進退を」


「あれを俺のもとに連れ戻す。それ以上でもそれ以下でもない」


 答えた簫無唱と律峰戒は鄧令伯には見向きもせず、じっと互いに注意を向けている。まだ構えてもいないのに、二人の間には早くも生死の分かれ目のような緊張感が漂っている。二人はすでに剣を交えているのだと悟り、九珠は無言で一歩退いた。簫無唱も律峰戒も、今まさに互いの頭の中にある手をぶつけ合い、動かずして戦っているのだ。


 誰もが黙り込み、微動だにしない。千斤はありそうな沈黙を破ったのは律峰戒だった。

 律峰戒がふいに剣指を作ったかと思うと空の右手に閃光がほとばしり、鞘に収まった長剣が現れる。律峰戒はその剣を引き抜くと、なんと鄧令伯に向かって剣を投げつけた。


 次の瞬間、鄧令伯が叫び声をあげて尻もちをついた。両足の間、つい先ほどまで体があった場所に剣が突き刺さり、一瞬のことに皆が凍り付く。


 ややあって、我に返った者たちのざわめきがさざ波のように伝播し始めた。驚愕と非難の視線が一斉に浴びせられる中、律峰戒はしかし、頭を押さえてくつくつと肩を震わせている。くぐもった笑い声はやがて狂気的な哄笑に変わり、律峰戒はぎらつく双眸で九珠を睨みつけた。


「やはり俺ごときが貴様に剣で敵うわけがないわな! であれば、あとはどちらがより人の師たるに相応しいかで競うしかあるまい。九珠と鄧令伯を戦わせる」


「なんだと……!?」


 まさかの宣言に再び場が動揺する。九珠もまた驚きの声を漏らさずにいられなかった。武術の心得がある者同士ならいざ知らず、武術のまったくできない商人と武術を頼みに生きている江湖人とを戦わせるなど、明らかに常軌を逸している。


「どういうことだ? 鄧先生は武術ができないだろうに、私に彼をいたぶれとでも言うのか?」


 九珠が言い返すと、賛同の声が一斉に上がった。しかし律峰戒は群衆の反論をも嘲笑い、「剣を取れ!」と声高に叫んだ。

 鄧令伯が弾かれたように立ち上がり、股の間に刺さっていた剣をもたもたと抜く。声こそ上げないが周囲を見回す顔付きは不安そのもので、本当にどうすればいいか分からないといった様子だ。

 九珠も咄嗟に剣指を作ったが、構えすらおぼつかない鄧令伯を相手に打って出ることなどできるわけがない。いくら鄧令伯の素性が怪しかろうとも、武功のできない相手を一方的に襲うことなどできるわけがない。仕方なく剣指を背中に隠し、いつでも迎撃できるよう気を練って備えることにしたが、なんとも歯痒い時間だった。


「本気ですか? いくら江湖に足を踏み入れれたとはいえ、彼はただの商人です。武功のできない相手を一方的に襲うなど、正気の沙汰ではありませんよ」


 簫無唱も険しい顔で律峰戒に異を唱える。片手は九珠と同じように背中に回されており、いつでも手を出せるよう構えているのは明らかだ。ことと次第によれば鄧令伯を守るつもりなのだと九珠はすぐに悟った——無辜をみだりに襲うことは真っ当な心の持ち主がやることではないというのが江湖の常識だ。どれほど因縁の相手でも、鄧令伯は簫無唱の中では無辜の民に数えられているのだろう。

 しかし、律峰戒はそんなことはお構いなしといった様子だ。そればかりか敵の首を取ったような笑みを浮かべている。


「どうだかな。貴様らは天曜日月教と通じている男の言うことをバカ正直に信じるのか?」


「お前こそ、真偽も分からない噂を真に受けろというのか? 彼が邪教に通じているから武功ができるとでも——」


 九珠が反論したそのとき、唐突に苦しみ呻く声がした。振り返ると、群衆の中から茶色と深緑の小柄な影が弾き出され、闘技場に倒れ込んだ。


「飛雕?」


 咳き込み、立ち上がったのは紛れもなく飛雕だ。九珠が訝しむ間にも、飛雕は切れた口の端を拭って立ち上がり、半分脱いだ上衣の隙間から短剣を抜き放った。


「この卑怯者、俺たち全員を騙してやがったな!」


 低く唸る飛雕を追うように、割れた人垣から悠々と歩いてくる男が一人——それは、無理やり剣を持たされて途方に暮れているはずの鄧令伯だった。

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