再訪

 一日が過ぎ、寂寧庵に朝が来た。


 大勢の客を受け入れて一時的に賑わいを見せた寂寧庵だったが、今朝は一転して静まり返っている。九珠はがらんどうの居間に残された毛布を一枚ずつ畳んでいた。


 常秋水は夕暮れの頃に蘇口に戻り、飛雕と江玲も夜明けとともに鄧令伯の屋敷に向けて発った。九珠は清義に部屋を貸して飛雕たちと共に客間で眠り、親子が去る気配を見送りながら夢うつつで過ごしていたのだ。


 その実、九珠はどうにも寝た気がしなかった。簫無唱も九珠を起こすことはなく、寝坊したといえるほどには眠ったはずなのに、目を閉じれば律家のことが思い出されるのだ。結局九珠は生々しく痛々しい夢に苛まれ、眠ったり起きたりを繰り返して夜を明かしたのだった。ここまで夢見が悪いのも久しぶりだ。

 九珠は居間を元どおりに片付けると、清義に貸している自室の戸を叩いた——まだいるものだとばかり思っていたが返事はなく、戸を開ければもぬけの殻だ。庵じゅうを探したが清義の姿はなく、簫無唱もどこにもいない。九珠は少し考えて、竹林の奥に行ってみることにした。



 竹の隙間から漏れた日の光が爽やかな陰影を作り出す中、ひっそりと佇む墓地に二人はいた。小声で話す声は、互いに言葉を交わしているのか、土の下に眠る二人に話しかけているのか。九珠は立ち止まって遠巻きに二人を見ていたが、やがて深呼吸をして足を踏み出した。


「師父」


 思いの外通った声に、簫無唱と清義が同時に振り向く。簫無唱の手には一振りの剣が握られていた——一目で逸品だと見て取れるそれはしかし、色濃くついた赤茶の染みで元の精巧さが損なわれており、簫無唱が使うにはやや不釣り合いにも見える。九珠の目線に気付いたのか、簫無唱は「これですか」と剣を持ち上げた。


「寧弟が生前使っていたものです。最期まで彼は剣を手放しませんでした。公天の誇りです」


 簫無唱はそう言うと、公孫寧たちの墓に向き直った。いつも一抹の空虚さをまとっている簫無唱だが、家族の墓を前に穏やかに笑う顔はなぜか満たされているように見える。


「そういえば、紹介がまだでしたね。私の弟子の簫九珠です。とても才能溢れる剣客ですわ。この若さで常秋水とまともに渡り合うのですよ。あなた達もきっと気に入るかと」


 簫無唱は言いながら九珠を手招きした。九珠は簫無唱の隣に膝をついて座ると、二基の墓をまっすぐ見上げた。


「晩輩簫九珠、公天の二當家と十二爺にお目通りいたします」


 言葉を切り、丁寧に三回叩頭する。師の家族は自身にとっても家族同然だが、それ以上に、簫無唱が一生を捧げると誓った人々に己も連なっているのだという思いが溢れんばかりに湧いていた。


「どうです? あなた好みの逸材でしょう?」


 簫無唱が公孫然の墓に語りかける。九珠は少し照れ臭いような心地がしたが、立ち上がって簫無唱に向き直った。


「師父。私たちの出立はいつでしょうか」


 九珠が問うと、幸せそうに緩んでいた簫無唱の頬がすっと引き締まった。そこにはもう、いつもの冷静で凛とした簫無唱が立っている。


「あなたが出られるならいつでも発ちましょう。私も、あの男には積もる話があります」


 言いながら、簫無唱は手に持った剣をスラリと引き抜いた。現れた剣身は清流のように澄んでいて、いつでも実戦に臨めるようくまなく手入れされている。


「清丈に見張らせていますが、岐泉鎮の周辺に鄧令伯の手先らしき者はいません。戻るなら今のうちに発たないと、時間がかかればかかるほど他の参加者に気取られてしまいます。鄧令伯にとっても、簫施主にとっても良くないことかと」


 清義がつらつらと言った。いつもの穏やかな口調を保ってはいるが、その目の鋭さはとても田舎の尼寺の住職とは思えない。


「寂寧庵は私にお任せくださいな。今は蘇口に行って、然るべき相手に引導をくれてやるときです」


「そうですね」


 普段の清義の様子からは想像もつかないない発言に、簫無唱は当然とばかりに頷く。九珠は二人を見回すと、意を決して口を開いた。


「では、私たちも参りましょう」



***



 鄧令伯の屋敷にようやくたどり着いたのは、夜もとっぷり更けた頃だった。正門はすでに閉ざされ、強めに叩いても反応がない。


「家僕も起きていないようです」


 九珠は苦い思いを噛み締めながら簫無唱を見やった。一番の速馬を休みなく駆り、軽功をも駆使して来たというのに、出鼻を挫かれた気分だ。

 しかし簫無唱は至って落ち着いた面持ちで、一言「困りましたね」と言っただけだった。


「たしかに来訪には不躾な時間ですが……」


 簫無唱は明日の朝餉をどうするか、というような軽さで呟き、踵を返して歩き出した。


「師父、何を」


 驚く九珠の前で簫無唱は足を止め、振り返って剣訣を作った手を見せる。


「無論、門を開けさせるのですよ。家の修理ごときを渋る男でもありませんし」


「ですが、それはさすがに——!」


 九珠が慌てて止めようとしたが時すでに遅し。簫無唱は鋭く息を吐き、低い気合いの声とともに十全に練り上げた気を門めがけて放っていた。


 盛大な破壊音とともに木造の門が木っ端微塵に砕け、土煙を巻き上げる。唖然と立ち尽くす九珠の前には、つい先ほどまでは立派な門だった木片が見るも哀れに積み上がっていた。


「私たちが被った迷惑に比べれば、こんなもの返礼にもなりませんわ」


 簫無唱があっけらかんと言い放つ。

 そのころには、何事かと駆けつけた者たちの掲げる提灯の明かりが二人のところまで届いていた。

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