虚実

「飛雕お前……この方の血縁だったのか⁉︎」


 驚く九珠の前で、飛雕は身をよじって江玲の腕から逃げようとしている。江玲はそんな飛雕の背中をバシンと叩くと、「汪鳴鶴おうめいかく!」と怒鳴った。


「お前って子は、いきなりいなくなったと思ったら! こんなところで何してるのよ⁉︎」


「放せよ! 俺が大哥と問剣会に行って悪いかよ⁉︎」


「そういうことは言っていないわ。私はお前がお義父様にも私にも黙って勝手に出て行ったことを怒っているの!」


「言っても行かせてくれないじゃんかよ! 親父も母さんも天志観てんしかんから出してくれねえし、爺さんたちは親父の跡を継げってうるさいし。俺は全部嫌だってずっと言ってんだろ!」


 飛雕と江玲は互いに声を張り上げて怒鳴り合う。道ゆく人たちが思わず振り返るほどの剣幕に、九珠は慌てて二人の間に割って入った。


「やめましょう江前輩、それに飛雕も、皆見ていますよ」


「見たい奴は見させとけ。大哥、こんな婆さん放っといて行こうぜ……」


 飛雕が口汚く答えた途端、パン! と鋭い音が響いた。「痛っ!」と飛雕が叫び、それをさらに上回る江玲の怒鳴り声が九珠の耳を聾する。


「生みの親に向かってなんて口の利き方ですか! 慎みなさい汪鳴鶴!」


「だったらそっちこそ、自分が産んだ子どもを打つなよ!」


「飛雕やめろ。事情は知らないが、今のはたしかにお前が悪い」


 九珠が低い声でたしなめると、飛雕は不服そうに唸ったもののすぐに大人しくなった。が、口の中で「そっちが何も言わなきゃ俺だって」などとぼやいている。このまま二人を争わせても埒があかない、そう思った九珠は一旦江玲と別れることにした。


「江前輩、こいつのことはひとまず私に任せてもらえませんか。今日のところはお暇して、また問剣会でお会いしましょう」


 向こうがどう答えるか分からないままの提案だったが、果たして江玲はため息をついて「いいわ」と言った。


「その方が良いでしょうね……でもこの子にきちんと言ってくださるかしら。飛雕なんて名乗らなくても、この子には私たちが世界一誇らしいと思ってつけた立派な名前があって、私たちにとってはそれだけこの子が大切なのだと」



***



 江湖の構成員は正道邪道の各門派や、鏢局、丐幇かいほう、邪教といった組織だけではない。緑林りょくりん、すなわち山林を根城とする盗賊たちもまた、江湖という無頼の徒の集団の一角を担っている――中でも名の知れた集団が傲世会ごうせいかい、高い武功を持った神出鬼没の義賊の一団だ。どこからともなく現れ、商人や官吏が不当に稼いだ金をそっくり盗んでは、現場に「一世笑傲いっせいしょうごう」の四文字だけを残して消える、それが彼らのやり口だった。

 ようやく辿り着いた月圓閣の食堂で、いつもの勢いをすっかり失った飛雕が観念したように語ったのは、自身がその傲世会の頭目の息子で、すでに次期頭目として見られているということだった。しかし、彼自身は人目につかないことが取り柄の傲世会のやり方がどうしても気に食わなかった――正しいことをするのに、なぜこそこそと隠れて動く必要があるのか。自らの行いに自信があるなら白昼堂々正義を為して、英雄として名を残す方がずっといい。だから根城の天志観を飛び出して、自ら考えた偽名を使って江湖に出ることにした。それが彼の言い分だった。そして江玲が呼んだ「汪鳴鶴」という名こそが、彼の本当の名前だったのだ。


「……だけど俺は、歴史に名を残す英雄になりたいんだ。龍虎比武杯で優勝して、江湖の誰よりも強くて、誰よりも有名な英雄になる。だってそうだろ? 自分のやることに迷いがないなら、天下の全ての人たちに見られたっていいはずだ。むしろそれを誇れてこそ、本当の英雄ってやつじゃないのか」


 諦めたような口調の底にも、揺るぎない信念が静かに燃えている。それは青くもあり、脆くもあったが、若い心を突き動かすには十分だった。


「お前の言うことはよく分かる。だが、龍虎比武杯の全ての優勝者が正道の義侠ではないし、天曜日月教のような邪道の連中は己の行いに自信があるから白昼堂々と悪事を為す。重ねた悪事によって誰よりも名を上げた者も少なくない。それは分かっているか?」


 九珠が穴を突くように尋ねても、飛雕は力強く首を縦に振る。


「分かってるさ。親父が言ってたんだ、正義とか信条ってのは誰かにとっては正しくても、他の誰かにとっては害になるから、間に立って害を防ぐ人が必要だ。それをするのが傲世会なんだって」


 飛雕は一言一句よどみなく、はっきりと語ってみせる。九珠には、その様子がただ反抗心から家出した少年のそれには見えなかった。

 一世笑傲については知られていないことが多い。二つ名と弓矢を武器にしていること、傲世会の頭目という地位以外にたしかな情報がないのだ。息子がいるということも知られていないだろう――九珠には彼ら親子の仲までは分からなかったが、それでも飛雕が一世笑傲の言葉をよく理解していることは分かった。彼は全てを理解した上で不満を抱き、己の信念を貫くために離別を選んだのだ。


「……なあ、大哥」


 九珠が黙っていると、飛雕がおずおずと尋ねてきた。


「頼みがある。大哥だけは、俺を傲世会の汪鳴鶴としてじゃなくて、駆け出し英雄の飛雕として見てほしいんだ。そりゃ、まだ大したことはしてないし、俺の理想にだって届いてない。でもやり遂げたいんだ。この道を、命が尽きる日まで、ずっと進んでいきたい」


 飛雕の目は至って真剣だった。まぶしいほどの信念と覚悟、強い意志を彼は持っている。


「分かった」


 九珠は静かに頷いた。飛雕の思いは決して否定されるべきものではないし、こうして宣言できる彼がむしろ羨ましくもある。気を抜いたら口走ってしまいそうな思いを無理やり飲み下すと、九珠は二階に行こうと飛雕を促した。



 階段を上がり、目の前の客室の戸を叩く。二人に応じたのは如竹だった。


「すまない。遅くなった」


 九珠は手短に告げると、飛雕とともに敷居を跨いだ。だだっ広い部屋の中央で車椅子の男が、隅の寝台に寝転ぶ男が、揃って二人に注意を向ける。


「久しぶりだね。問題は解決したかい?」


「はい。待たせてしまい申し訳ありません」


 車椅子の男、知廃生は九珠の謝罪に微笑で答えると、二人に卓に着くよう促した。知廃生は自らも如竹を呼んで車椅子を卓に近付けさせ、一方で寝台に寝転ぶ常秋水に起きろと呼びかける。


「全員揃ったところで、問剣会の作戦会議と行こうじゃないか。各々、月圓閣までの道中で見聞きしたことを教えてくれたまえ」

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