滅門血案

「それからしばらくは何もない日が続きました。ですが、ある日ついに全てが崩れ去りました。誓いも、公天も、全てが」


 皆が息を詰める中、清義だけが無言で頷いた。平静を装ってはいるが、心優しい双眸が傷付いているのが一目で分かる。それは痛ましい過去を共有する者特有の眼差しだった——九珠ははたと思い出した。岐泉鎮の人々は簫無唱のことを断片的にしか知らないが、清義だけは彼女の過去を全て知っているのではなかったか。


「夜半、蔵に火が放たれたと報告がありました。続いて鏢師たちの宿舎房からも火の手が上がり、公天はあっという間に混沌のただ中に陥りました。然様は当主の立場上出ていかなければなりませんでしたが、私にこう言いました……十二弟を連れて先に屋敷を出ろと。十里先にある岐泉鎮という田舎町に宿を取っているから寧弟はそこに、私は念安寺という尼寺に行くようにと。そこから別々に旅をして、王都平京で落ち合うのが然様の計画でした。私たちは互いの無事を誓い合って別れました。私はいよいよこの時が来たのだと悟りました——寧弟は若くて血気盛んで、兄妹の誰よりも剣の才能に溢れていました。彼を選んだのは若さもありますが、私たちを一番慕っていて、絶対に裏切らない保証があったからです。……そして彼は、九天剣訣の一人目の継承者でもありました。私自らが信頼できると認めた弟子でしたから、然様が彼を選んだのは当然ではありました」


 九珠はゆっくりと目を瞬いた。俄かに身につけたものの重さが現実味を帯びたように感じたのだ。


「ですが、私たちが建屋を出たときには既に手遅れでした。燃え広がった炎に互いに殺し合う鏢師たち、あちこちに転がって動かない人影——私たちもすぐに標的になりました。襲いかかる白刃を避けるために手段を問うている暇はありませんでした。私はあの夜、大勢の鏢師を手にかけました。然様との約束を守るため、我が身と義弟を守るために、なり振り構わず彼らを殺しました。誰一人として敵う者はありませんでしたし、負った傷もかすり傷程度でした」 


 簫無唱がさらりと告げた一言に、常秋水が当然だと言わんばかりに息を吐き、飛雕が呆気にとられたように目を瞬いた。最強の剣客を、それも生死がかかった場で相手にするというのはこういうことなのだ——余程の隙が生まれない限り、自身が生き残る可能性は限りなく低い。戦場と腕試しの試合は全くの別物なのだ。


「ところが、門が近付いてきたところで寧弟が深手を負いました。乱闘の中で両脚を落とされたのです。……そこからのことは、正直よく覚えていません。動けなくなった彼を背負って門を吹き飛ばし、夜道を必死で走りました。俺を置いていけ、殺してくれと、彼はずっと耳元で言っていましたが、それに構っている余裕がありませんでした。止血もろくにできないまま、私は念安寺まで走り続け、夢中で門を叩きました。尼寺ということもすっかり忘れていて、寧弟を背負ったままでしたが、清義師太が黙って私たちを匿ってくれました」


 簫無唱はそこで清義に目を向けた。清義の落ち込んだ眼差しと簫無唱の乾いた視線が混ざり合う。ここに来て、九珠は簫無唱の最大の傷跡を見たのだと悟った。傷があまりに深すぎて、感情という感情が失せているのだ——その当時感じていた苦しさや痛み、衝撃や悲しみ、さらには思い出すことが辛いという感覚にまで蓋をして、あとに残った虚空に身を委ねている。それが極限の孤独だという感覚すら簫無唱にはないのだろう。あるいは、死んだ彼らと同じ静寂に浸ることが一番の慰めなのかもしれない。


「ようやく手当てしたときには寧弟は虫の息でした。それから二日生きましたが、三日目の日が昇る頃に息を引き取りました。ところが、弔いの準備を進める師太を見ているうちに、私はふと思い出したのです。然様はどうしているのだろうと……気付いたときには、私は公天への道を辿っていました。地面にわずかに残った寧弟の血痕を追いかけて十里の道を歩いていくと、突如として広大な焼け跡が現れました。公天の屋敷跡だと分かったときには、私は駆け出していました。丸一日、血と腐肉と死臭に溢れた中を走り回り、折り重なった死体をかき分けて、私はようやく然様を見つけました」


 江玲が口に手を当てて啜り泣いた。誰もが重々しく沈黙する中で、鼻をすする音がやけに大きく響く。


「然様は、武芸は苦手でしたが、審美眼は天下一と言っていいほどありました。汗臭い修行よりも風雅を好む人で、書物や芸事にも通じていて、玉でできた簫を常に携帯していました。私が見つけたときも、然様は帯に玉簫を差していました。きっと肉が全て腐って落ちて、骨だけになっても分かるようにしてくれたのです。然様は腐り始めていて、鼻や指先が落ちていましたが、私はあの方を抱えて、十里の道を戻りました」


「……うそだろ」


 すっかり呆気に取られた飛雕がぽつりとこぼす。すると簫無唱は場違いなほどに透き通った笑みを飛雕に向け、「当然のことでしょう?」と言った。


「私はあの方が私に惚れた以上に、残りの人生をあの方に捧げようと心に決めていたのです。あの方に足りないものは私が補い、あの方が防ぎきれない火の粉は全て私が払い、あの方が守りたいものを私も共に守ろうと。それが公天に嫁いだときに立てた誓いでしたし、あの方がそれに値するということもこの目で確かめていました。私は残る人生も彼らと共にあるのです……だからこそ、当時打ち捨てられていた寂寧庵を師太からもらい受けたのです。ここで三人で静かに暮らそうと私は決めました。李玉霞はもう、死んだ女なのです」

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