騒動

 もっとも、金持ちどうしの付き合いは九珠たち江湖人には関係のないことだ。侠客の中には忌み嫌っている者もあるほどで、巨額の富を蓄える者は裏でどんな手を引いているか分からず、仁義も正義もないようなことを平気でしているに違いないというのがそうした侠客の言い分だ。


「でも、分かんねえけどな。鄧令伯なんて、何で稼いでるか分からない金持ち連中の筆頭格みたいなもんだ。そんな奴とお近づきになっても百害あって一利なしだろうよ」


 どうやら飛雕もそちらの一派のようで、そこから今までに成敗した金持ち連中の悪行を並べ立て始めた。やれどこそこの何は職人たちを工房に閉じ込めてこき使い、給料もまともに払わずに使い潰していた、別のところの某はお気に入りの小姓や下女に手を出して飽きたら春街に売り飛ばしていた、またある街の商人は商売敵を除くためにごろつきと手を組んで自作自演の強盗劇を演じ、彼にあらぬ罪を着せて一家もろとも追放したばかりか、家財と一人娘をも強奪した――酒の勢いも手伝ってか、飛雕はそんな話を止めどなく喋り続けた。


「親父がいつも言ってんだ、世の中でかい顔でのさばってる奴ほどろくでなしだ、こういう奴らは金があろうとなかろうと謙虚に真っ当に生きてる人を餌食にするんだってな。だから誰かがクソ野郎どもをとっちめなきゃなんねえ、それこそが英雄のやることだって」


 合間合間にしゃっくりをこぼしつつ、飛雕はなおも空いた酒杯を満たしては喋り、喋っては杯を空けている。そんな飛雕の話を酒杯をちびちび舐めながら聞いていた九珠だったが、ふと、「そういえばお前、英雄になりたいのだったな」と口を挟んだ。


「聞いたところお父上は立派な御仁のようだが、やはり憧れているのか?」


 すると、唐突に飛雕の顔色が変わった。


「まさか!」


 広間じゅうの客が振り向くほどの大声で飛雕は叫び、卓をダンと叩く。酒でとろけた両目がきっと吊り上がり、ともすれば一触即発の剣呑さで九珠を睨む。


「俺は歴史に名を残す英雄になるんだ。龍虎比武杯で優勝して、江湖の誰よりも強くて、誰よりも有名な、そんな英雄になるんだ! 親父みたいな地味なのなんかやだね!」


 まさかの剣幕に九珠はすっかり目を丸くしてたじろいだ。耳を聾する大声に周囲の空気がビリビリと震え、その余韻で耳鳴りまでする。しんと静まり返った中、視線という視線が自分たちに向けられているのがひしひしと感じられる。

 九珠は息を吸って吐き、ひとまず飛雕を落ち着かせようと身を乗り出した――そのとき、階下からガタガタと何かが倒れる音が聞こえてきた。


 飛雕に辟易していた二階の客たちはこれ幸いとばかりに階下に目を向けた。九珠も吹き抜けに目を向け、飛雕もぐりんと首を巡らせる。一階からは驚きの声に続いて「どこ見てやがる」「足無しが」と罵声が続き、その合間に平謝りしている声が聞こえてくる。店の小姓が仲裁しようとしているのか「どうかおやめください」という声も聞こえてきたが、次の瞬間には殴打の音と周囲の客が息を飲む声に取って代わられた。


 九珠と飛雕は弾かれたように立ち上がった――吹き抜けの欄干から見下ろすと、まず床に倒れた車椅子とその横で座り込んでいる文弱そうな男、その男を庇うように立ちはだかっている侍従風の男が見えた。彼らが対峙しているのは刀を背負った大柄な男で、上からは付き人を見下ろすぼさぼさの黒髪しか見えない。対する侍従の男も上背はあり、主人を庇う気概も持ち合わせてはいるものの、ひょろりと細い体格のとおり見るからに荒っぽい大男に見下ろされて手も足も出せないといった雰囲気だ。この三人から少し離れたところでは、ぐったりと伸びた小姓が両脇を抱えられ、ずるずる引きずられながら退場しているところだった。


「どうかご容赦を、彼は決して悪気があったわけではないのです」


 床の男が弁明し、叩頭しようと腕だけで体勢を変えようとする。しかし大男はそれを鼻で嘲笑うと、付き人を押し退けて男の胸を思い切り蹴り飛ばした。


「足無しが、ここはお前らが来ていい場所じゃねえ!」


 罵声が響く中、蹴られた男はあえなく卓の脚に激突し、呻きながら床に倒れ込んだ。付き人がもう一度割って入ろうとしたが、大男は彼をやすやすと捕えると襟元を掴んで顔を何度も殴りつけた――


「やめろ、このろくでなし!」


 その途端、九珠と飛雕は同時に欄干を乗り越えていた。どよめきの中、一階の床を踏みしめると同時に飛雕が飛び出して大男の背中に飛びつき、九珠は付き人を引き離して大男の鼻を打つ。よろめく大男の背から飛雕がひらりと飛び降りると、男はそのまま卓の上にドスンと倒れ込んだ。


「大丈夫ですか」


 九珠は付き人とその主人を振り返った。付き人は痣と鼻血で汚れた顔でぽかんとしていたが、主人の方は「ええ」と答えながらわずかに目を細めた。九珠が怪訝に思ったのも束の間、すぐに「大哥!」と飛雕が呼ぶ声がした。ハッとして振り向けば、怒り狂った大男が九珠の脳天をかち割ろうと割れた皿を振りかざしていた。

 九珠は素早く床を転がり、凶器は何もない空間を切り裂くだけに終わった。しかし大男はすぐに狙いを定め直して九珠に襲いかかってくる。九珠は素早く箸を一本掴むと男の穴道めがけて投げつけた。

 至近距離からの攻撃を大男は避けられず、箸の先が肉に埋まる。男は痛みに絶叫し、突然動かなくなった片手から割れた皿を取り落とした。しかしもう片方の腕は封じられておらず、男は余計に怒り狂って腕を振り回している。九珠は大男を被害者の二人から遠ざけるように逃げ回り、その隙に飛雕が左右から攻撃を仕掛ける。ついに店の出入り口まで追い詰めたと見るや、飛雕はどこからか取り出した箸を男の眉間めがけて放った。

 ヒュン、と空を切り、九珠が投げたそれとは比べ物にならない速さで飛雕の箸は飛んでいった――そして男の眉間にぶつかると、箸は軽快に跳ね返り、カチャンと音を立てて床に落ちた。

 男は白目を剥き、口から泡を吹きながらどうっと道に倒れた。

 周囲がぽかんとする中、九珠はまさかと思って男に駆け寄った。この程度の喧嘩で死なせてしまっては大事だ――しかし男は気絶しただけで息も脈もあり、九珠が無理に封じた片腕の穴道に刺さる箸以外目立つ怪我もない。ほっと胸を撫で下ろし、得意げになっているであろう飛雕を振り返ると、飛雕はなぜか青い顔で鳩尾を抱えている。


「大哥、俺――ッ」


 弱々しく言いかけた途端、飛雕は両手で口を押さえ、しかしその甲斐虚しく床に酒と飯の残骸をぶち撒けてしまった。

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