3月 さんきゅー

 三月といえば卒業のシーズン、とはいえ青日にとっては特に思い入れのない行事の一つだ。小学校の卒業式は長くて眠かったし、中学生の時はしんみりした空気が居心地が悪くて、高校の卒業式はそもそも行っていない。思い入れがない行事ではあるが、青日はこのシーズンが嫌いではなかった。なぜなら、怪の数が一時的に減るのだ。睦千曰く、バランス。初春の仄かなウキウキ感と別れの季節の寂しさ、しかしそれを止められない時の流れに勝手にしんみりと。街に漂う浮き立つ空気と時間に対する諦念、怪が苦手な雰囲気らしい。怪は熱血でガッツがある感情が好きだから、とはやっぱり睦千の言。

 つまり、今は珍しく閑散期。時にギョッとするような怪が発生するが、基本的に静かなもの。ビバ、別れの季節、ビバ三月! どうせ新生活シーズンが始まれば、また忙しくなると分かっているので、青日はこの時期はより気を抜いて生活する事にしている。睦千と共に旬のものを楽しみ、梅は咲いたか桜はまだ咲くな、と替え歌を作って口ずさむ。

 さて、青日は八百屋の店先を眺めていた。今は菜の花を見ていた。ちなみに睦千は今、魚屋で値切りをしている。あそこの魚屋には睦千を小さい頃から見てきたという謎の思い出があるので、乗っかって話しているといい値引きをしてくれる。その間に他の買い物をしているわけだ。

「ねー、おっちゃん、菜の花どれが良さげ?」

「この辺りだな」

「じゃあそれでお願い。あとキャベツひと玉!」

「春キャベツだぞー、柔らかいぞー」

「やった」

 品物と代金を交換して魚屋の方へ向かおうとすると、ちょっと待て、と声をかけられる。

「いつもご贔屓にどうも」

 小さな袋に玉ねぎが一つとふきのとうが二つ。

「おまけ?」

「さんきゅーの日だからな」

「三月九日だから?」

「そうそう。爺さんの時からやっているんだ」

「へー! おれ、ふきのとう食べた事ないや!」

「天ぷらじゃなくて味噌にするといい」

「味噌?」

 そのままおっちゃんから作り方を聞く。

「白米にも合うし、酒のつまみにもなるんだ」

「ありがとう! 作ってみる!」

「美味かったら、うちでふきのとう買ってくれよ」

 さんきゅー! と答えながら、今度こそ魚屋の方へ走る。店先にはキラキラと光る魚、その前に睦千が立っていた。いつものフライトジャケット、白いニットに黒いワイドパンツ、ボルドーのチャンキーヒール、ポカポカの日差しに照らされて、少し眠そうだ。

「睦千ー」

「青日……終わった?」

「うん、睦千は?」

「今、捌いてもらっている」

「値切れた?」

「ばっちし」

 いえーい、と睦千はピースサインだ。

「おれもおまけしてもらったよ。さんきゅーの日だって、ふきのとう!」

 袋を開くと、睦千がのぞいてラッキーじゃん、と言う。そうこうしていると、奥から魚屋のおっちゃんが出てくる。

「ほらよぉ、睦千、捌いてやったからなぁ」

「さんきゅー」

 おっちゃんから魚を受け取った睦千はお茶目に笑いながら言うと、かはは、と魚屋のおっちゃんが笑う。

「青日と仲良く食べろよぉ、お前はすぐ俺の魚もとるんだからよぉ」

「おっちゃんのしか取らないよ、じゃ、またねー」

 手を振って、睦千はご機嫌に歩き始めた。その隣に並んで、袋を覗こうとする。

「何買ったの?」

「鯛」

「まじ!?」

「三月九日だなぁ、睦千も卒業式ん時は寂しそうな顔していたが、この鯛食べたらいつも通りで、いやぁおめでたいなぁ、がはは、だって」

「睦千、そんな思い出あるの?」

「あの魚屋に行くとできるんだよ」

 にひひ、と睦千は笑った。

「今日は鯛のお刺身ね」

 めでたいねぇ、三月、と青日が呟くと、睦千は小さく音の外れた鼻歌を始めた。春の歌だった。







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