第24話 とある小羽留の独り言

 春の午後だったけれども、地下の喫茶店には日差しが入るわけもなく、テーブルや棚、至る所に置かれたガラスランプの色とりどりの光で室内を満たしていた。BGMがない店内はサワサワと人の話し声が混ざり合い、雑踏に似ていた。ふと、初めて会った時のレコードや、普段歩く道の騒めきが恋しくなった。

「おかしいとか、そんなわけないって言われるかも。でもね」

 目の前で俯いて無意味にコーヒーを掻き回す、あいつの友人にゆっくりと話す。

「恋しているだけで充分、満たされる。付き合いたいとか、抱きしめ合いたいとか、結婚して同じ墓に入りたいとか、思わない。いつか、きっと、近い将来、睦千とお別れする日が来る、確信しているわ。だって、あの子は、一人を選択できる子で、わたしは秘密を隠しきれない。でも、わたしはあの子を一人にはしたくない。だから、頑張りたいのです。どうせ、いつか来るんだったら、少しでも長く、今ではないって言いたい。わたしは、自由に生きている睦千が好き。自分の嫌いな事、嫌な事を否定して、振り切って生きている睦千。睦千がわたしを受け入れて変わってしまう事を、許せない。わたしがあの子を変える事を、わたしはきっと許せない」

「……あなたは、本当にそれで良いのか?」

 あいつの友人はようやく顔を上げて、わたしに尋ねる。

「ええ、これがわたしの幸福でもあるのですから……でも、言えてしまうわたしも、きっと、幸福なのでしょう。そして、同じくらい辛くて苦しい。恋ってそう言うものでしょう? あなただって知っているはず」

 わたしがそう問い掛けると、友人はそうだな、と笑った。今度はわたしが無意味にコーヒーを掻き回しながら、ありもしない別の世界の『言ってしまえてたわたし』を思っていた。

 そんな事を思い出しながら、割れたグラスを片付けていた。

「……どうするのかしら、わたしも……あの子も……」






【とある世界の八月二十日】

 見送るのも振り返るのも情けなくて、わたしは日傘を拾うとそのまま来た道を戻る。来た道を戻る、つまり家に帰る。今はたった一人の部屋、これからもたった一人になるかどうかは、自分次第。

 わたしの特別だった年下の恋人と別れたのは先月の事、別れてと言った次の日、訪ねてきたその子を追い返そうとしたけれども、あまりに必死そうな顔をしていたから、強く追い返せなくて、手土産は? なんて可愛くない事を言った。買ってくるよ、と答えたその子に、ここまでか、と覚悟を決めて部屋で待っていた。それなのに、一時間も待っても来なくて苛立ちのまま電話をかけた。そうしたら、どうだ、助けて? ふざけるな。助けて欲しいのはこっちだ、一瞬で湧き上がった怒りは一瞬で消える。おかしい、あの子は助けてなんて言えない子だ。何かあったのだろうか、とどうにか居場所を聞き出して迎えに行くと、どうだ。自分はわたしが知っている白川睦千とは違うなんて言って。

 だから、わたしは少しだけ嘘を吐いた。やり直せるなら、上手くできるなら、そんな醜い欲望で、わたしの知らないあの子を惑わした。でも、違った。わたしが焦がれた恋人とは違う立ち居振る舞いに、やめておけば良かったと後悔して、今日、やっと元通りに戻せた。

 偉そうな事を言ったけれども、わたしはあの子に言葉を限界まで尽くせる気がしない。どれだけ好きと伝えても、どれだけそばにいるだけで良いと縋っても、きっと苦しめるだけだ。好きだった睦千が変わる事を、わたしは許せない。じゃあ、やっぱり、わたしはどこかに行くしかないのだろう。

 どこに行こうかしら、と考えていると、スマートフォンが軽快な音を鳴らした。光る画面には、白川睦千。迷って、でも、心配で、通話のボタンをタップした。

「もしもし…………うん、……そうね……あなた、お菓子買って来るって言って、いなくなっていたのよ、そのあたり、後で教えてあげる、無事ならいいのよ」

 久々に聞く声に、わたしの胸は痛み始めて、ぎゅっと日傘の持ち手を強く握る。

「……ええ、いいわよ……うん……聞くわ、ちゃんと……わたしも、ちゃんと聞く…………そんな、覚悟なんて決めなくていいのよ、わたしとあなた、やっぱり、」

 電話の向こうであの子が怒った。わたしの目から久々に自然と涙が溢れた。

「……ごめんなさい、勝手に決めつけたわ。でも、本当にいいの。わたしなんか捨ててくれたって、わたしに何も教えてくれなくたって、本当にいいの。わたし、何も要らないわ、わたしじゃなくたっていいの、本当に、ただ、あなたがどこかに居てくれるだけでいいの…………」

 あの子がゆっくりと話す。わたしは立ち止まって、その尽くしてくれる言葉を聞いた。

『だからさ』

 ふわりと柔らかい陽だまりのような香りと、細くて長い腕がわたしの目の前に現れた。肩に腕の重さと頭の重さ、プラチナブロンドの髪がわたしの頬をくすぐって、わたしの手から日傘が落ちる。

「やり直そうよ、小羽留……いっぱい待たせるかもしれないけど、ちゃんと乗り越えたいんだ、ボク……」

 わたしはスマートフォンを持ったまま、わたしの睦千の手に触れた。冷え切った手だったけれども、その手に触れた事が生まれてから一番嬉しくて、今この瞬間が夢で、天国なのかもしれないと、それでもいいと、白く光り滲み続ける街並みと風に流される日傘を見ていた。

 

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