第14話 濃霧注意報を解除せよ
【6月6日:9時 濃霧注意報発令中】
状況はかなり悪い。進展なしと、武闘派は己の頭を壁に打ち付け、呪方は自分で作り出したオリジナル宗教に則り、互いに壺や石を売り合う始末だ。この世の終わりみたい、と青日は睦千の病室に入って行った。
「おはよー」
「おはよ」
「そして、例のものー」
青日は睦千に着替えを渡す。睦千は、青日は何を選んだのかなーと呑気な雰囲気だ。じゃ、外で待っているよ、と病室を出ようとした青日を睦千は呼び止める。
「後ろ向いててくれればいいよ。とりあえず、情報ちょうだい」
青日は扉と向き合ったまま、えー、と睦千に話し掛ける。
「情報くらい、確認していたでしょ、暇だったんだしさー」
「ボクが知らない情報もあるかもじゃん。あと、青日、あんまり来てくれなかったし」
「全然解決しそうにないからねー」
ガサガサと睦千の着替える音が聞こえる。
「へー、青日はこんなボクがお好み?」
「今日はおれとおそろっぽい感じー」
青日は自分のスニーカーの紐を見つめる。霧のせいで少々寒いから、厚手のハーフジップスウェットとストレッチパンツ、スニーカーもスポーツブランドのちゃんとしたやつ、動きやすさ重視、異常事態だもんね。
「それで、霧の怪の行動範囲くらい絞れたの?」
「全然。何回か姿は見かけているんだけど、逃げられる」
「他に被害出た?」
「出てない。軽傷者はいるけど、睦千は酷い方だよ」
「へへ」
「でも、街の人たちもそろそろ限界かも。切り裂きジャックみたいなのも出てきたから、普通の人も出られなくなったし、食糧とかね、案内方が非常食の配達とかやってくれているけど」
「なら、頑張らないと」
ふわり、とちょっと知らない香りと家の柔軟剤の匂い、青日の肩に重さがのしかかる。
「お待たせ、ダーリン」
ちょっと振り返ると、久々に見たような気がする綺麗なお顔。薄手の白いパーカーの下に黒のタートルネックTシャツ、ストレッチパンツ、靴は睦千が持ってきてと言った黒のミリタリーブーツ、ちょっとアクション映画っぽいな、と青日は自分のセンスに頷いていた。
「リップは?」
「持ってきたよ、これで良い?」
あんまり派手な色じゃなくていいだろうな、と薄いピンクの口紅を持ってきた。睦千はそれを見て、ナイス、と笑いサッと塗る。
「上着、貸して」
「はいよ」
青日は手に持っていた、睦千の白いフライトジャケットを手渡す。フライトジャケット風だから良い感じに薄いんだよ、と夏と冬以外は大体いつも着ているそれを羽織ると、いつもの睦千になる。いつもの睦千が隣にいる、青日は睦千にバレないように詰めていた息を吐き出した。しかし、睦千は気づいたようで、青日の頭を撫でた。
「ごめんね、心配かけて」
「おれ、ポーラのアイスケーキ食べたいなぁ、季節限定のやつ」
「りょーかい、それで良ければね」
「じゃあポンポン堂のクリームソーダもつけて」
「喜んで、マイハニー」
「んじゃ、行こ。もう武闘派の作戦会議始まってんよ」
ガラガラと病室のドアを開け、2人は福薬會本部へ向かう。
「作戦会議必要? 脳筋しかいないのに」
「それ、みんなの前で言っちゃダメだからね」
「言っちゃうかも」
「睦千」
「ごめーん」
会話をしながらサクサクと道場を目指す。本部の廊下に差し入れコーナーがあった。睦千はちゃっかりあんぱんを2つばかし頂く。そして、早速開けて、齧る。
「睦千はさぁ、呑気にしているけど」
「んー……」
「おれたちは結構焦っているって言うか」
「ん……」
「煮詰まっているって言うか……」
「んー」
「ほら、道場だよ、師匠に見つかんないように食べなよ」
分かっているって、と睦千は数度頷く。
道場の中は異常な雰囲気だった。黙ってろ、天才か、いやバカだこのやろ、殴り合うのも時間の問題だ。てか、汗臭いな、と睦千は青日の頭に鼻を埋めた。
「なんで嗅ぐの!?」
「久々にこんな汗臭い空間に来て、お鼻びっくりしちゃった」
「あんぱん嗅いでなよ」
「我が家のシャンプーの香りが好きなのよ」
「睦千ったらホームシック?」
「そうかも。もう帰りたい」
「可愛げがあっていいけど、早く怪捕まえないと帰れないよ、ほら、離れた」
青日に軽く頭を叩かれて睦千は渋々離れて、あんぱんの残りを口に押し込む。そのタイミングでポーン! と鼓のような音が響いた。
「静まれ」
大狸師匠の腹太鼓である。普段は倒れるほどの衝撃が来るが、今はじーんと痺れるような感覚があるだけだ。それでも頭に血が昇った武闘派奇怪病者たちを黙らせるのには十分だ。
「何か気づいた事、現状打破できる事、他、何か提案はないか」
さすが武闘派師匠、考えるは他人任せの理性的な脳筋だ。
「はぁーい」
その中で呑気な様相で一つ、手が挙がった。白いフライトジャケットの腕、無論睦千である。武闘派にしては珍しく、ちょっと機転がきくと有名な睦千だ。
「一つ、提案がありまーす」
モーゼのように筋肉ムキムキの野郎どもが道を開け、その中を睦千は黒くゴツいブーツを鳴らす。あっという間にランウェイ、睦千はフライトジャケットを翻し、あんぱんを片手に長い脚を見せつけるように歩く。
「青日、おいで」
途中で振り返った睦千が青日を呼ぶから、青日は喜んでその後ろを追いかけた。
「青日の奇怪病は霧の怪に有効」
睦千は大狸師匠の前に立って、畏まる事もなく、いつもと同じように話し始めた。
「霧の怪は青日の奇怪病に怯えて縮こまる。そうすると霧を吐き出さなくなる」
「場所が分かれば、青日で無効化できると言うのか」
「そう。だから、一つ提案。青日の奇怪病で巨匠館地区を覆う」
驚いた青日の顔に睦千は微笑む。
「おれの奇怪病で?」
「八龍全部は無理でも、巨匠館地区くらいならできるでしょ」
「いやいや」
青日が首を横にぶんぶん振ると、睦千もやれやれと言いたげに首を数度横に振った。
「忘れているよ、青日。青日の相棒は誰?」
「睦千……あ! そういう事!」
「できるでしょ?」
さっきまで自信満々に言っていたのに、途端に少し不安げに、睦千は器用に上目遣いになって青日に問い掛けた。
「ねえ、睦千」
「ん」
「最高」
さっきまでの不機嫌も心配も全部吹き飛んだ。睦千が頼ってくる、当たり前のように青日と一緒を前提に策を練った、青日はこの瞬間、ここ数日、この相棒に怒っていた全てを水に流した、いや、アイス食べられていたや、昨日の夜気付いたけど、これは水に流さない。でも、一度置いておく。
「作戦考えたので、きいてもらえますか?」
睦千はにっこりと笑った、勝ちを確信したようだ。
【6月6日:13時 作戦開始】
町内放送が響いている。
『こちらは福薬會です。住民の皆様は部屋の中で待機をしてください、外出はしないでください。繰り返します……』
その放送を聞きながら花房は箒に乗って飛んでいた。上空の方は霧が薄くて長居しても影響はないらしいけど、太陽の光を遮って薄暗い。というか、今日の天気って何? 曇りかな、とにかく寒い。
「この作戦の提案って睦千先輩らしいよね」
花房は後ろに乗る知夜に話しかける。花房は、知夜的には不本意だが、睦千と青日に懐いていた。困っている時は助けてくれるし、美味しい屋台も教えてくれる、花房の理論的には先輩と呼ばねばならぬ人々であった。
「センパイらしい、肝心なところは人任せの作戦ね」
「辛辣〜」
今は福薬會総出で霧の怪を追い立てている。確実に巨匠館地区に閉じ込めるのが作戦の第一段階、巨匠館地区に入ったのが確認されたら、蛇鍵屋が他地区に続く道を閉じる。それからが知夜の出番だ。花房はその付き添いになる、知夜1人だけでやるのは嫌だと駄々を捏ねたお陰だ。
「てか、センパイも思い付いていたらさっさとやれば良かったのに」
「睦千先輩、怪我していたし、これって青日先輩に負担が大きいし、万が一、睦千先輩が万全じゃなくて、青日先輩を止まらなかったら、やばいじゃん?」
「……それも、そっか」
ゆっくりと上空を旋回する。霧の中にふわりと光が浮かんでいる、追い立て役が持っている懐中電灯の光だ。2人の耳に付けたイヤホンからは、霧の怪の進行方向が息継ぎをする間もなく報告され続けている。そんな事もできるのが電電社だ、本日もご協力ありがとうございます。あと、気のせいかもしれないけど、にゃーにゃーなーなーと猫の声も聞こえる気がする、気のせいか。そして、下、白い光がいくつか動いている中、赤い光が一つ動いている。それが霧の怪を見つけ、追いかけている印だ。それが巨匠館地区に入っていった。
「入ったよ!」
「花くん、いくよ」
花房は高度を上げ、知夜は魔法のステッキを手に出し、声高らかに呪文を唱えた。
「今、この街は、眠りの茨に包まれる!」
知夜の声が微かに聞こえ、流れ星のような光が落ちていく。
「魔法、始まったね」
青日は腕につけた赤い福薬會の腕章を弄る手を止めて空を眺めた。
「うん」
睦千はウィッピンを福薬會本部の屋上に叩き付けながら、返事をする。
「これでみんな眠っちゃうんだよね」
「そう。だから、青日は安心して全力だしてね」
「それは睦千次第だな〜」
青日は青色の色眼鏡を外し、睦千に手渡した。フレームは銀色で花や葉の模様が刻まれている。実はこれ、組んだ頃に睦千があげたものだ。まだ綺麗で、いつもかけてくれるから嬉しい。嬉しいなぁと青日の方を見ると、青日と目があった。両目の泣きぼくろと丸い目、でも、瞼が重そうで隈が濃い、寝不足なのかもしれない。人によっては不気味とか言うかもしれないけど、睦千にとっては小動物みたいで可愛いと思う。それに、不気味だと言っている人は、青日の瞳の縁がほんのり青い事を知らないだろう。明け方とか夕方の、太陽が空から消えている時の、空のてっぺんみたいな青色。いつもぴょこぴょことしている青日の、時たま見せる落ち着いた部分。それを知っているのは多分八龍でボクだけだろうと、睦千は密かに自慢に思っている。
青日は睦千の顔を見て、にへら、と笑った。それに笑い返すと、青日は満足そうに振り返って、睦千に背を見せた。
「じゃ、いくよ」
睦千はウィッピンを軽く、しかし、じっと集中して、青日の背中に打ちつけた。ぺち、と可愛らしいが、どこか鋭く透明な音が響いた。
「
そして、青日の足元からどろりと濃い青色が流れ、本部のビル、道へとインクが溢れ広がるように、巨匠館が青く染まる。
睦千の奇怪病は、奇怪病と怪の効果をコントロールする、つまり、一時的に無効化する。そして、青日、睦千が相棒と認めた人物にだけ治癒と奇怪病の効果を高める。巨匠館地区くらいなら、覆い尽くせる。調査員達を眠らせ、巨匠館地区を青日の奇怪病で覆う。ここまで広範囲なら、霧の怪も逃げようがないし、群青や瑠璃、ミッドナイトブルーなんかの深い青色なら、霧の怪もブルブル震えて動けないだろう。
青日は青色に包まれ楽しそうだ。ここしばらく霧につられて天気も悪く、ちょっとご機嫌斜めだったから、ノリノリで街を青くしていく。ちょこちょこ、くるくる回り、踊る青日を見ていたいが、そうもいかない。睦千は下を見ながら、ウィッピンを足元に適当に打ちつけていた、気を抜くと飛び降りかけちゃうもの。アハハ、青日は笑いながら青色を散らしていたが、突然、はぁ、と溜め息を吐きしゃがんだ。
「……消えたい……」
睦千は、密かに舌打ちをした。だから、やりたくなかった。これは青日の負担が大きい。青日を苦しめるような真似をしたくない。今すぐやめて、青日の頭を撫でて一緒にいてよって言いたい。しかし、これしか手が思いつかなかった。入院した夜に思い付いたけど、やりたくなかったから黙っていた。でも、八龍を守らなくちゃ、青日と一緒にはいられない。青日が「最高」って言ってくれたから、ボクは逃げてはいけない、青日が任せてくれたから、ボクは責任を果たさないといけない。
「……消えよっかな……」
青日が立ち上がらないか、気にしながら、霧が消えるのを待つ。だいぶ薄くなってきた、あと少し。あと少し、と下を見ていると、青日の足音がした。立った、青日が立っちゃった。ふらり、青日が柵に近づく。もういいかしら、もう霧はないかしら、ない、完全に消えた。
「青日」
柵に手をかけて上半身を乗り出した青日の腕を右手で掴んで、左手を振り向いた虚な瞳の前に突き出し、瞬きほどの小さな白い光で額を軽く打つ。
「睦千」
青日が睦千を見ていた。青色だけじゃない世界を背景に、睦千は青日を見ていた。空にパンッと火花が散る。それに驚いた青日は転がるように屋上に座り込んだ。それに引き摺られるように睦千もよろけながら、しゃがみこむ。
「……あ、知夜の合図か」
「うん、そう。これでボクらの役割は終わり。お疲れ、青日」
「そっか……霧、晴れた?」
「うん。あとはみんながやってくれる」
「ちゃんと仕留めてくれないと困るな、次やったら、おれ、死んじゃうよ」
「死なせない」
睦千は青日の腕を強く掴んで言い放つ。
「青日は死なない」
「睦千がいればね」
青日は屋上に寝転がり、満足そうに伸びをした。
「晴れたね」
そう言われて、睦千はようやく周りが明るくなっている事に気づいた。空を見上げると、確かに雲に切間ができて太陽の光と、水色の空が見えていた。
「もう大丈夫だよ、霧は晴れたし」
青日が下から睦千を見上げて、自慢げに笑う。
「おれらに、敵うに能うもの無し、だね」
「……なんか、かっこいい事言ってんね」
「今言わなくていつ言うの? 結構すごい事したんだしさー」
えへへ、と青日が笑う。睦千はその頬をつついて体温を確かめる。
「そうだね、すごい事した……そうだ、忘れていたんだけど、ホワホワ亭のチケット、拾ったんだ」
え、何それ、すごい! と屋上に2人の話し声が響いた。事件はまだ、解決していない。
【6月6日:13時10分】
李矢が眠りから覚め目を開けると、目の前にびくびくと怯える四つ足の獣がいた。白く長い毛、犬と狐の間みたいなもの、聞いていた霧の怪の特徴と同じだ。どうやら、自分の担当していた道に入ってきたようだ。
「覚悟」
拳を構え、ゆっくり近づくと、怪は飛び跳ねるように逃げ出した。李矢が拳を宙へ突き出すと、怪の行き先を遮るように小さなパンダが道を転がる。再び驚いた怪は方向を変えるが、そちらにもパンダが転がる。2度、3度と繰り返し、怪はようやく路地へとまろびでた。しかし、進もうとしてもパンダ。犬も歩けば棒に当たる、怪も逃げればパンダに邪魔される、きゅうと鳴いた怪は扉が一つ開いている事に気付く。あそこに隠れれば、とその青地に蓮の花が描かれた豪奢な扉へ駆け込んだ。
話は少々逸れるが、青日が蓮華殿に入門したのは、自由な理念が性分に合っていたというのもあるが、何よりも大きな理由がある。青日にとっては重大な理由だ。
「だって扉が青かったから!」
巨匠館40号館一階、蓮華が描かれた青い扉が目印、自勝拳法道場蓮華殿、強者というより癖者が多い道場、そして、その一番弟子と腐れ縁は2人揃うと敵なしである。
「誘導ごくろーさん」
道場の真ん中、ゴロゴロと寝そべっていた丈は、怪を手にした竹で薙ぎ払うと、よいせ、と起き上がった。
「丈、ヘマをするなよ」
「わぁーってるって。ちゃんと、準備はしてんよ」
四隅に生やした竹を見て、李矢は一つ頷くと、再び拳を構えた。霧の怪は落ち着きを取り戻したようで、ふう、ふう、と霧を吐き出そうとする。部屋の中に霧が入り込んでいないから室内は安心と思っているニンゲンはきっと怯えるだろう。暗い欲望から産まれし我ら怪、それくらいの悪さはちょちょいのちょいで思いつく。己が生き残るためなら、部屋の中だろうが海の中だろうが霧を吐き出す、それが怪なのだ。
ふう、ふう
ふう、ふうふう、
ふう、ふう、ふう、ふうふう、ふう、
「無駄だぜ、ここではお前は何もできない」
けけけ、と霧もなく明瞭な視界の中、丈が笑う。
「
丈が手に持った竹を揺らすと、四隅の竹も共鳴するように揺れた。
「ここは、そんな場所だぜ。お前の邪気を少しずつ祓っているんだ。つまり、お前な力は弱くなる。俺は完全には浄化はできねーし、お前らの気配もあんましわかんねーけど、こーいう場所は作れるって事だ。黙っていてもお前は捕まるが、それじゃあつまんねーよな?」
きゅう、と霧の怪は鳴いた。
「李矢、行くぜ」
「ああ」
突如態度を変え、一直線に怪は丈へ向かう。丈は手に持った竹でそれを薙ぎ払う。怪が飛び上がり竹をかわし、着地した場所へパンダが転がり、体勢が崩れる。そこに李矢が腹に一撃、蹴り上げた。宙に浮かぶ怪、落ちた先には丈が竹を構えている。
「あらよっと」
丈はそれを竹で打ち上げた。放物線を描いて落ちる怪、落下地点にパンダが転がり込みレシーブ、李矢が飛び上がりレシーブ、叩き付けられるかと怪。
「パンダ!」
竹を滑り込ませ、床に着く前に丈がまたもや高く打ち上げる。ぽでぽでと助走、飛び上がりパンダアタック。
「くっ」
滑り込んでなんとか打ち上げる李矢。そこではたと気づく。
「なあ、なんでバレーなんだ」
李矢が打ち上げた怪を丈が構えた竹で打ち返す、ホームラン。
「じゃあ今度は野球な」
パンダが怪を掴み、李矢に投げる。咄嗟に脇に立てかけていた木刀を手に、それを打った。
「いや、そういう話じゃない」
怪は丈の手元まで飛ばされ、グダリと項垂れていた。場に浄化されたというより、ボールにされて満身創痍だ。
「だってこいつ、
丈が怪をぶらぶら揺らすと、その足元まで転がったパンダが寄越せとばかりに腕を伸ばす。
「もういいだろう。回収するぞ」
「お前もノリノリだったくせによぉー、真面目ぶりやがって、なぁ、パンダ」
丈はパンダの頭に怪を落とす。ハッと我に返り、逃げようとした怪はパンダがぎゅっと抱きしめ、頭を噛んだ。
「こら、パン太郎、そんなもの食べちゃダメだ。丈から竹を貰ってこい」
パンダ、名はパン太郎、パン太郎は怪を李矢に渡し転がると、丈の脚にしがみついた。
「パンダ、お前のご主人はつまんねーやつだよなぁ」
丈はぶつぶつと言いながら、手に持っていた竹をパン太郎に差し出す。この男、意外に動物が好きなのだ。パン太郎は竹をくわえ、またどこかへ転がっていった。
「これで任務終了だ」
李矢は受け取った怪に札を貼り付けた。
【6月6日:13時5分 深文化郷地区】
人影を見つけたラブは静かに、しかし足早にそれを追いかけた。今、この辺りには人がいないはずだ、福薬會のメンバーは腕章を付けているし、大体が巨匠館地区で、住民は家の中にいるように指示されている。ならば今歩いていた腕章がない人影は切り裂きジャックの可能性が高い。見失わないようにと急いで人影が向かった曲がり角曲がるが、誰もいない。しかし、ラブの目の前に猫がいた。にゃあん、と白猫が鳴く。妙に引っ掛かるその猫を無視して、辺りを見渡す。また、猫がにゃあんと鳴く。なんだ、と見ると、招き猫のように猫が座り、腕をちょいちょいと上下に振っていた。
「……なんだ?」
にゃあん、と白猫は立ち上がり歩き始める。振り返って、ラブがまだ立っているのを見て、前脚でまたちょいちょいと呼んだ。ラブは白猫の後をついて行くことにする。何かある、八龍の住民の勘だ。
白猫の後ろを歩いて1分、角を曲がった先で男とぶつかりそうになる。
「うおっ」
男に腕章はない、男はラブの腕章を見て、まっすぐにナイフを突き出してきた。のけぞってそれを避けると、腕を掴もうと手を伸ばすがかわされる、なかなかの反射神経、びっくりだぜ、とラブは逃げる男を追いかけた。
男が逃げた先には店が1つ、白猫がにゃあんと鳴いて店のドアが開く。そこに男は真っ直ぐに走る。人質か、とラブは叫んだ。
「マミちゃん! 逃げて! 切り裂きジャックだ!」
『ちちんぷいぷい』から出てきたマミは男を見て足を止める。そのマミの首を掴むように男の腕が巻きつき、盾のように抱え込んでナイフを首に突きつけた。
「動くな!」
ラブは止まって、手を頭の高さに上げた。マミはじっと男の腕の中にいたが、ゆっくりと口を開いた。
「お前がジェシカを刺したの?」
「ジェシカ?」
「女の子、刺したでしょ」
「刺した」
そう、とマミは答えた。ラブは自分のこめかみと、手のひらと、あと脇と、なんか足の裏も、膝の裏も、背中も、つまり全身、全身に汗が滲むのを感じた。マミが冷静なわけがない。もしかすると、このまま男からナイフを奪い取ってぶっ刺すくらいはやるかもしれない、やばい、それは阻止しないと、師匠に怒られるし、ジェシカに恨まれる。
「ちちんぷいぷい」
マミはなんでもないように呟いた。マミの服のポケットから赤いリボンが蛇のように這い出る。しゅるしゅる、と軽い音を立てて、男の靴に巻き付いた。男の脚がガタガタと震え始め、マミはひょいと腕を持ち上げ、男から離れた。
「本家の白雪姫のラストシーンはご存知?」
男の足が不器用なステップを踏み始める。出鱈目なステップに足がぐにゃぐにゃと曲がり、男の顔は恐怖で歪む。
「継母はね、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて、死ぬまで踊り続けるんだ」
ぎゃあ! と男の悲鳴が響き渡る。熱い、痛い、止めてくれ、と男はマミに手を伸ばす。マミはその手を叩き落とした。
「大丈夫だ、殺しはしない」
あっはは、とマミは笑う。マミの奇怪病は靴を作る。ぴったりの靴だ。歩きやすいように、速く走れるように魔法をかける、ぴったりな魔法を、だ。ラブは、こわ、と呟き空を見上げた。久々に青空と、太陽を見た。今日は晴れか、めでたしめでたし、と男の悲鳴とマミの高笑いを聞き流していた。
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