第9話 無能の休日

【6月4日 快晴 本日のトピックス:ロックバンド『mizukusai』2ndLive『水を得た2歳バンド』開催】


 あ、やべ、と睦千は呟いた。

「ねー青日、インコない」

 睦千は空になったインスタントコーヒーの瓶を振りながら洗面所にいる青日に声を掛けた。

「今度買ってくるよー。てかさー」

 湿気でふわふわの髪をようやく満足いく程度に落ち着かせた青日は、台所に顔を見せながら睦千に言った。

「睦千だけだよ、きっと。インスタントコーヒー、インコって言うの」

「天加も言っていた」

「なら白川家だけだ」

 睦千はマグカップにお湯を入れる。ふわりとコーヒの香りがキッチンに広がった。

「流行らせよ、インコ。インスタントコーヒーって長いじゃん」

「そもそもインスタントコーヒーをフルネームで言わないよ」

 青日はでも流行るといいねーと雑に返事をしながら青いリュックを手に玄関へ向かう。

「じゃあお昼くらいに広場ね」

「分かった」

 パタパタと軽い足音を立てて青日は部屋を出ていく。睦千はその背中にヒラヒラと手を振りながら見送った。本日、睦千と青日は休みである。暴れる怪とバッタリ会ったとか、とんでもなくやばい災害級の怪が出たとか、それは対応しなくてはいけないが、それ以外は何もしなくていい。大体、事件の調査に区切りがつくと1日、2日くらい休日がもらえる。と言っても、日曜日の青日は何もできないので、2人は日曜日も休日扱いになっているが。ともあれ、本日は平日、青日も元気な休日だ。基本的に家でじっとしていられない睦千は青日を誘って新都市地区に行く事にした。ほら、この間行ってみてさ、たまにはいいな、新都市地区って思ったからさ。

 というわけで、と睦千はコーヒーを飲みながら本日の服装を考える。今日は綺麗めな気分かな、いや、あの黒いショートブーツ履きたいな。ならスカートか? えー、でもスカートの気分じゃない、云々。コーヒーを飲み切るまでじっくり考え、それでも考えは纏まらず、歯を磨きながらさらに考える。うがいをする頃にはだいぶ考えも纏まり、自分のクローゼットと向き合う。暑いかもしれないけど、黒のレザーパンツを手に取る。脚にぴったりと這う生地と形は睦千の自慢の脚のラインを引き立てる。流行りがワイドパンツだとかそんなもんは知らない。それに柔らかい白いブラウスを組み合わせる。前髪を掻き上げて、ついでにアイラインも吊り上げて、仕上げに赤いリップを塗れば完璧だ。

「最高にイケメンだね、ボク」

 自信満々に姿見で確認をして、白いバックを持ち、玄関で靴を履く。このショートブーツ、サイドを太めの紐で編み上げる可愛らしいデザインで最近のお気に入りの一足だ。紐を結び、軽く玄関の床を打ち鳴らしてドアを開ける。少し冷たい海から吹いてくる八龍の風に目を細め、部屋から出る。晴れてんなーと外廊下から街を眺めると、その目の前を紙が飛んでいく。手を伸ばして捕まえると、おっ、と目の前がきらりと光った感覚。

「ラッキー」

 紙はチケットである。『ホワホワ亭』、チケット制の焼肉屋である。街にばら撒かれるチケットを拾わないと行けない神出鬼没の店。チケットを大事に財布にしまい、歩き出した。ルンルンだ、気分はルンルンだ。ルンルン。

 ルンルンで歩き始めた睦千の最初の行き先は決まっている。トラムに揺られ、深文化郷地区のエリック座前で降りる。かつかつとヒールの音を鳴らしながら、石畳の道を進む。漏れ聞こえるトランペットの繰り返されるフレーズや画家や作家だろうか、きゃおおおおおん……! と聞こえる奇声に耳を傾ける。何人か、睦千の顔をチラチラと見てくるが気にせずに歩く。気にしたら負けだ。建物はおしゃれなのにな、と心の中でボヤいていると目的地に着く。『ちちんぷいぷい』、ショーウィンドウにはハイヒール、スニーカー、革靴に子供用の長靴が並んでいる。ご覧の通り、靴屋だ。睦千のお気に入りで、持っている靴の半数はここで買ったものだ。ステンドグラスで彩られたガラス戸を開け、睦千は中に入った。

「ごめんくださいよー」

 店内には2人の女がいた。そのうちの1人、赤毛をベリーショートに切りそろえ、耳にジャラジャラと幾つもののピアスをつけて、さらに口にもピアス。いかつい雰囲気だが、目元はとろりとした垂れ目でつんと尖った鼻も、思ったより小柄な背丈も可愛らしい。

「いらっしゃーい、今日はやけにめかしこんでいるわね」

「マミちゃん、わたし以外を口説かないでよ」

 マミちゃんと呼ばれた女の背中に、もう1人の女が寄りかかる。茶色のふわふわの長い髪にくるりとした大きな瞳は可愛らしいが、暗い色を滲ませていて、むんと尖らせた口は不機嫌そうだ。

「ジェシカ、重い」

「重い!?」

「愛が」

「重くていいでしょ」

 ジェシカと呼ばれた女は満足そうに笑う。どうやらジェシカとはあだ名であるらしいが、睦千はジェシカの本名も、ついでにマミの本名も知らない。マミが靴屋で、ジェシカはフラメンコダンサーで、2人は年中イチャイチャしていて、それくらいしか知らないが、一緒にお茶したり喧嘩してジェシカが睦千の部屋に駆け込んできたり、仲は良い方だと思う。

「ねぇ、新しいデザインの、なんかない?」

 そのままキスでもしそうな雰囲気の2人になりたいに気兼ねせず、睦千は話し掛けた。マミはジェシカを押し除けるように、はいはい、とレジの裏から出てきた。ジェシカも睦千を軽く睨みながら続いて出てきた。

「ねぇ、睦千さぁ、邪魔しないでよ、あと1分くらい待ってくれたら、マミちゃんとチューできたのに」

「ボクだってこの後青日と遊びに行くから、のんびりしてられない」

「はいはい、邪魔者睦千が帰ったらキスでもハグでもなんでもするからジェシカはちょっと離れていな」

「本当に? マミちゃん、なんでもするのね!」

「限度はあるからな。それで、どんなのがいいの?」

 ジェシカを離し、棚からスケッチブックを取り出し開いた。

「色は白? それとも派手なカラーにする? ああ、その前にスニーカー? ヒール? それともサンダル?」

 この店の店主であり、靴職人でもあるマミは矢継ぎ早に睦千に尋ねる。

「ヒール……いや、スニーカー……どっちでもいいな、まだ買うって決めたわけじゃないし」

「そんなんで来たの? わたしのマミちゃんタイムを奪ったのに1足も買わないの? 買いなさい! マミちゃんの才能をその馬鹿みたいに完璧な脚使って見せびらかしなさいよ!」

 店員でもあるジェシカはバンバンとカウンターを叩きながら抗議する。とにかく、今日は機嫌が悪いらしい。

「悪いな、昨日、あんまり構ってやらなくてちょっと暴れたんだ」

「ねぇ、マミちゃんわたしの事面倒くさい女みたいに言わないでよ! 昨日はマミちゃんが悪いんだから!」

「……もうボク帰ろうか?」

 痴話喧嘩に辟易した睦千が呟くと、ジェシカが頬を膨らませて一際大きな声で答える。

「帰んないで! マミちゃんに靴を作らせてあげて、睦千はそれを言い値で買っていけばいいの!」

 はいはい、と睦千は店内をぐるりと見て歩く。なんで来たと言われても、新しい靴があってもいいよなぁって思っただけだし、あーでも夏だからな、サンダル……サンダルじゃなくていいけど、涼しい感じの欲しいかな……。

「ね、夏用の靴……」

「あんた、なんでそんな暑苦しい格好してんの」

 ボクの言葉を遮るようにマミが言った。

「……そういう気分だったから」

「メッシュでショートブーツ、フロントジッパー、編み上げでも……ああ、スニーカー風でもいいかもね」

 そう呟くとマミはスケッチブックに鉛筆を走らせた。睦千は近くの椅子を引き寄せ、その手元を覗き込んだ。

「そういや、黄色いスニーカー、壊れそう」

「どれ? 後で持ってきな」

「バッシュっぽいやつ。今度持ってくる」

「あーあれね」

 話しながらもマミのスケッチブックにはショートブーツのデザインが浮かび上がる。足の甲の半ばから始まるフロントジッパー、ファスナーには丸いリングのチャーム、太めのヒール。睦千の中でむくむくと物欲が生まれてくる。

「色は……いっそ、マスタードイエローとかレモンイエロー、ビビットピンクでもいいわ。派手な色にしましょ。デザインは割とシンプルだし、色くらい遊びたいでしょ」

「あー、いい」

 睦千が呟くと、ジェシカがでしょお、と笑い掛けた。

「ジェシカ、ヒールの3番の棚見てくれ」

「はーい……あるよー」

「と、いう訳だ。本日、お渡し可能だ」

 靴屋『ちちんぷいぷい』のマミ、彼女もまた奇怪病者である。『ガラスの靴症候群』、シンデレラの魔女よろしく、材料さえあれば、ちちんぷいぷいとその場でピッタリな靴を作る。睦千が7センチヒールでバタバタと走り回れるのは、このマミの靴のおかげである。

「どうする?」

 睦千はにんまりと笑うマミに、むにぃ、と口を尖らせた。



 青日は不定期に道場に通っている。八龍で誕生して20年の『自勝拳法じしょうけんぽう』、己がルールの拳法道場『蓮華殿』である。強ければ良いというシンプルな信条と何事も己が決めるというお気楽さで入門した。とにかく身体も心も強くなりたい自由人が集まる道場であり、八龍で生まれた割に門下生が少ない道場でもあった。

「失礼しまーす!」

 挨拶くらいはしようか、というのが今の一番弟子の言葉である。いやはや、この言葉からも分かる通り、非常に真面目な人物だ。しかし、真面目すぎるが故にこんな道場に流れ着いた面白人間でもある。

「おはよう、青日」

 中に居たのはその真面目な一番弟子、片平李矢かたひらりやである。真っ直ぐに伸びた背筋と涼やかな目元、程よく筋肉質でそれなりに長身で、短いのに僅かにくりんと、うなっているお茶目な髪など、中々の好青年である。そんな男の足元をころころと白と黒の毛玉が転がっていった。パンダである。人一倍真面目な彼の奇怪病は『パンダ転がし病』と名付けられたものである。彼が構えれば、どこからともなくパンダが転がって来て、ポコスカと敵を殴り蹴り、そしてまた転がり去っていく、奇怪病の名に相応しい奇怪病である。

「リャンリャン兄! おはよう! 丈の馬鹿いる?」

 お茶目な髪とパンダにあやかって、青日は李矢を『リャンリャンにい』と呼んでいた。そして、もう1人の兄弟子の方は馬鹿と呼んでいた。

「後ろだね」

 李矢が呟くと、ポカっと衝撃が青日の頭を襲った。

「いっ……たぁ!」

「兄弟子をバカ呼ばわりのアホの頭はいくら叩いても良いって、俺の辞書には書いたんだよ、青日くんやーい?」

 若竹色に染めた髪と、虎のような目と牙のように尖った歯が見える口、李矢より僅かに低く、細いように見えて固い筋肉で覆われた身体の男が、手にしていた竹で青日の頭を叩いていた。カコンと硬質な音に竹の葉のサララと音が重なる。

「じゃあこの間3千円返してよ」

「なんだっけなぁ〜?」

「リャンリャン兄ぃ!」

「丈、また青日から借りたのか」

「おめーが貸してくれなかったからなぁ」

「青日もなんで貸したんだ」

「貸したんじゃないー、騙されたの! 手持ちがなくて家賃払えないって言うから! でも、その後春田さんから、丈さんすごいですねー大物取りましたよー、でも前借りされたんですよねー、なんて聞いたからさ!」

「なんで春田のお嬢さんはペラペラ喋ってんだ!」

「おれがお金貸した話したからね!」

「俺のせいか!」

 ひゃーひゃっひゃっと、丈は笑い出す。一応、これでも福薬會の怪調査方である。手から竹を生やし、その竹をブンブン振り回して戦う『竹林病』の持ち主であり、李矢の腐れ縁であり、この蓮華殿で李矢の次に強い男である。

「じゃあ俺から一本取ったら、今すぐ返してやる」

「何もしなくても返してよ」

「おいおい、ここは『俺様がルール』だぜ? なぁ李矢」

「そうだな。『自分がルール』だ」

「リャンリャン兄の堅物!」

 ルールに忠実、妥協ができない堅物、だからどの道場でも煙たがられ、その飛び抜けて突拍子もない奇怪病も相まって、どの師父も『いやぁ、ここじゃないね。君は、ここじゃない方が強くなれる』と宣うものだから、この堅物は八龍中の道場を渡り歩き、最終的にここの偉大なる師父・壱丸いちまるに『なぁに他人のルールに縛られやがって。お前はお前がルールなのだ、どれ、この蓮華殿で鍛えてしんぜよう』と拾われたのだ。つまり、彼は忠実に、自分がルールに則っているだけなのだ。

「俺は、借りた物は返さないといけないと思っている」

 李矢が腰を落とし、構えを見せた。丈は、げ、と小さく声を漏らす。

「俺が勝ったら、青日に金を返せ」

「リャンリン兄〜!」

「待て待て、俺は青日から借りたんだ、李矢、お前じゃない。だから、お前が相手になるのは違うだろう」

「……それもそうだな」

 李矢が構えを解き、丈が竹を振り回した。青日はそんな気がしていたので、ひょいと避けた。

「っは〜! 避けた!」

「だってそんな気がしたんだもん!」

 それから青日は竹に殴られ、「青日、身体が鈍っているな。俺も相手しよう」なんて言う妖怪真面目パンダ転がしに乱入され、転がり飛び上がり続けたが、結局貸した金は返ってこなかった。

「青日、良いとこだったのによぉ、もう行っちまうのか?」

「約束してんの。今度会ったらお金返してよ」

「じゃあ、今度こそ勝たないといけねえなあ。青日」

 ムーと口を尖らせる青日をけたけた笑っていた丈の足元に、背後からパンダが転がってくる。

「おい、まだ決着はついていない。もっとやろうじゃないか」

 目を見開いた李矢に、丈はげえ、と声だけは不満そうにしながら、じゃあなと青日に背を向け、パンダとその後ろで構えている李矢に向き合った。丈は口では何と言っても、李矢と手合わせをするのが好きなのだ、ツンデレってやつ、誰が嬉しいんだ。

「げ、時間」

 青日が激しく打ち合いを始めた蓮華殿をバタバタと飛び出し、急いで部屋に戻ってシャワーと着替えと気合を入れた身支度をする。この間買ったサマーニットとシャツにしよ、絶対睦千は気づいて褒めてくれる、最高かよ。急ぎながらも丁寧に準備して、これまたバタバタとトラムに乗って、新都市地区の広場へ向かう。噴水に随分と個性的な曲線と色合いをした、オリジナリティ溢れるベンチの一つに睦千は座っていた。長い腕を背もたれにかけて、長い脚を組んで、雑誌の表紙みたいに座っていた。

「お待たせー」

 青日が駆け寄ると、ひらりと片手を上げた。

「遅い」

「リャンリャン兄と丈の馬鹿が帰してくれなかったの」

 待ちくたびれた様子を隠さず、睦千は気怠げに立ち上がる。

「てか、そのサマーニット、かわいいね。この間買ったやつ?」

「そうそう!」

 いいでしょーと見せびらかすと、睦千は気怠げな様子から一転、似合うよ、と人誑しの顔になった。その足元に見慣れない黄色があるのに気付いて、ねえ、と青日は尋ねる。

「その靴、買った?」

「マミのとこで、デザイン見せてもらっていたら、ちょっと欲しくなって」

 睦千は嬉しそうに靴を鳴らした。レモンイエロー色のメッシュ生地に、フロントジッパーの金具が眩しい。

「似合うね」

「当たり前でしょ。じゃ、ご飯行こ」

 昼食は『ハングリーバーガー』でハンバーガーにかぶりつき、それから服やら靴やら化粧品やら雑貨を見て回る。一通り、見終わり午前3時、休憩がてらカフェに入る。テラス席に通されて、ケーキセットを頼んでだらだらと話す。

「やっぱり、あそこの柄シャツ買おうかなー」

「どれ?」

「青に水色の花柄のかわゆ〜いの」

「ほーら、あの時買っておけば良かったじゃん」

「今度こそ買うから戻ってもいいよね?」

「いいよー」

「やった。シャツ買ったらもう戻る?」

「どうする? 天気良いって言ってたけど、なんかじめっとしてきたし、ぶっちゃけボクは帰りたい。買ったばかりの靴を早々に濡らすなんでボクは許せない」

 睦千が空を睨むので青日も空を睨んでみた。確かに空気がじめっとして、皿が霞みがかっているような気がする。

「確かに。天気予報外れたかな」

「帰り、マミのところに靴迎えに行かないといけないし、これ食べてシャツ買ったら巨匠館まで戻ろ」

 青日が賛成と呑気にケーキをつっついていると、おや、と睦千が表情を変えた。

「ラブじゃん」

「え、どこ?」

「あそこ」

 睦千が行儀悪くフォークで指し示した方を見ると、睦千と似たようなベクトルで目立つ男が1人。染めているのか、長い金髪をポニーテールに、正統派王子系アイドルみたいな甘い顔立ちに、爽やかな笑みを乗っけて、雑踏から頭一つ分飛び出ている男、彼は睦千と青日の視線に気付き、近付いてきた。

「2人して呑気にしてんなぁ」

「休みだもん。ね、青日」

「そうそう。おれらは休みー」

「ちぇっ。羨ましいぜ」

 ちょっと待ってろよーと男は立ち去り、数分もしないうちにコーヒーを片手に、2人が座るテーブルにやってきた。

「久しぶり。連敗記録更新している?」

「久しぶりかぁ? この間会った気がすっけどな。連敗記録更新しているぜ、喜んでも良いぜ」

「やっば。有名じゃん、ラブ。てか、こっちまで調査しに来るって珍しいじゃん」

 そーなのよ、と男は言う。彼は笈川愛丞おいかわまなすけ、通称『ラブ』、本人考案。福薬會怪調査方・調査員であり、睦千の最初の相棒である。

「追いかけているのが、こっち来たっぽいんだよ。お前ら、見てないか?」

「見てないよー。ねー睦千」

「見てない、見てても見てない事にしようと思っている」

「んで、実際は」

「今日マジで見てない」

「そっかー」

 ラブはだらりと椅子に寄り掛かる。睦千はチーズスフレをつつきながら尋ねる。

「どんなの調査中なの?」

「斬りつけ怪。聞いた事は?」

「あーあれ。サッと服とか斬るやつ」

「おー相変わらずさすがだな、睦千」

「睦千だもん、当たり前じゃん」

「なんで青日が得意げなんだよ」

「青日だからだよ」

「そう! おれだから」

 ラブは慣れたように、はいはい、と頷きながらコーヒーを啜る。

「てか、あれ怪なの?」

「さあな。気配も微妙らしいけど、大事になる前に確認しとけって」

「地味だけどめんどくさいのだ」

 青日がフルーツタルトをどこから崩すか、考えながらポツリと言う。

「そーなのよ。無能のお二人さん、代わってくんね?」

 睦千と青日はそれぞれケーキに集中しながら、やだー、と声を揃えて言った、今日も以心伝心、ナイス・フィーリング。




 休憩しに来たはずが、幾分しょぼくれたラブの愚痴に付き合い、ようやく解放されて、青日の買い物を済ませる。時刻は夕方5時前。普段なら明るいはずの時間だが、空には雲がかかり始めていた。

「……雲っていうか、霧?」

 睦千が周囲を見渡しながら呟いた。気のせいか、ブラウスが湿気っている気がしていた。

「だよねー。なんか視界悪いっていうか……珍しくない? こんな時期とか、時間とか……」

「ね。ま、そんな日もあるでしょ」

 人とすれ違うのにも神経を使うほどに白い霧は、ますますたちこめる。店の明かりも点き始めた異様な雰囲気に、青日はつい睦千を呼び止めてしまうり

「ねぇ、睦千。なんかおかしくない?」

 睦千はそれに肯定したように思えた。青日が確信できなかったのは、睦千の声が聞こえなかったからだ。突然、鐘が鳴ったのだ。高く鳴り響くその音は不安を呼び起こす色を帯びた、その鐘の名前は『警鐘』。睦千は咄嗟にウィッピンを出した。

『こちらは福薬會です、住民の皆様は近くの屋内へ避難をお願いします。こちらは福薬會です、案内方の皆さんはお客様を港まで送り届けてください、繰り返します……』

 福薬會本部に設置された鐘は緊急時にしか鳴らなさない。この鐘が鳴るという事は八龍内で『何か』危険が迫っているという事だ。しかし、青日は先ほどと打って変わって恐れを抱いていなかった、睦千がウィッピンを出したからだ。ウィッピンと睦千がいれば、大丈夫だという安心が青日にはあった。だから、青日は青日にできる事をする。福薬會から何か連絡があるはずだと携帯を確認する。その間にも、街には恐れが広がり始めている。

 睦千は視界が悪い事に舌打ちをして、ウィッピンを短く持ち、霧を割くように振り払う。振動も地響きも聞こえない、新都市地区にも避難命令が出ているという事は、怪は八龍全域に被害を及ぼす可能性がある。ならば、

「やばいのは霧?」

「うん、詳細はまだだけど、霧をなるべく吸わないようにって。あと、召集命令が出ているよ」

「急ごう。トラムはダメだろうし……上を通る」

 2人は近くのビルに入り、屋上まで上がる。まだ霧は上の方まで来ていないようだ。

「青日、鞄よろしく。あと、落ちないで」

 睦千は青日に鞄を押し付けると、青日を背負い、隣のビルへウィッピンを伸ばした。

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