第18話 神様を知っていますか?

※内容に一部不愉快な内容(同意のないキスについて)があります。ご注意下さい。


【とある月曜日】

「そういえばさぁ」

 青日は睦千を背負いながら、青日は思い出したように言う。

「さっき、変な人に声掛けられたんだよ」

「珍しくもなくない?」

 睦千はまだ眠そうな声で答える。先ほどの花火で目は覚めなかったようだ。ずるり、ずるり、サンダルのだらしない音まで聞こえてきて、本当に寝そうだ。

「睦千の事、訊いてきたんだよ」

「ボクの事? 顔ファン?」

「そうかもなぁ、でも、違う気もするし、そもそもおれが睦千の相棒だっていうの、知らない感じだったんだよね」

 青日は先ほど話し掛けてきた男を思い出す。

 髪を切り、さっぱりとした心地で、家路を呑気に歩いていると不意に後ろからすいません、と声を掛けられた。振り返ると同じ年頃の青年が立っていた。

「何?」

 訝しみながら青日は青年に答える。

「白川睦千、という人、ご存知ありませんか?」

「うーん……知らないな」

 睦千の顔ファンかなぁめんどくさいなぁ、と知らないふり。これぞ、平和。青日は自分の身の回りが平穏なら平和と言い切れる心の広さを持っていた。ん、狭いって? 君たちが広すぎんじゃない?

「明るい金髪で、顔がすごい整っている人なんですが……」

「うーん、覚えがないなぁ。そんな人、ここにはたくさんいるし」

 そうですか、と青年は礼を言って立ち去って行った。それを見送って、青日は念の為、遠回りをして家へ向かおうとした。その途中、散歩中の睦千と会った、という経緯である。

「睦千の名前は知ってんだ、あやしーって思ったの」

 一通り顛末を話すと、ちょっと頭が起きた睦千は青日から離れて、隣に並び、尋ねた。

「どんな人?」

「普通の男。おれらとおんなじくらい。身長は……おれよりちょっと高いくらい? 明るい感じじゃなくて真面目で実直って言われそうなタイプ。ひっかけた記憶ある?」

「ないよ」

「昔も?」

「ないよ、人聞きの悪い……なんで?」

「その人、今の睦千の事知らないと思うんだよ。多分だけどね? だって、明るい金髪の顔が整った人って言った。今の睦千を説明するなら、性別不明の背の高くて短いブロンドのすんごい美人で大体白い服着ているイケメンっぽい美人、とかになりそうじゃん。おれが相棒だっていうのも知らないだろうし。睦千の名前知っている割に情報が少ない」

「青日、美人って二回言った、ラッキー。でも、昔なら尚更同年代に声は掛けない。ボクがあちこちふらふらしていたのは宿が欲しかったからだし」

「誰なんだろうね」

「さあね……でも、しばらく顔隠そうかな。ろくな事ないだろうし」



【とある火曜日】

 睦千はうんざり、というふうに呟いていたっけなーと青日は現実逃避する。目の前には昨日の男がいる。

「青い人と一緒にききました」

 青日は道路に立って、コーヒーを買いに行った睦千を待っていた。危ない、睦千、戻ってこないでー今戻ってこられたら面倒になる、と念を送る。

「別の青い人じゃないかな」

「目立つからすぐ分かるとも言われました」

「てか、君誰?」

「……睦千さんからは、エイと呼ばれていました」

「じゃあ、エイと呼ぶけど、君はなんで白川って言う人を探しているの?」

 戻って来ないでーと思いながらも情報を集める。ほら、やっぱり情報ないと対策のしようがないし。

「謝りたいんです」

「スマホで謝れば?」

「連絡先知らないんです」

「え、どういう関係?」

「中学の同級生です」

「それなら知らないよねー。でも、そんな昔の事、謝ってどうするのさ」

「……」

「ま、おれが知った事はないんだけどね」

「でも、あなたと一緒にいるって」

「あー怪!」

 虚空に向かって小芝居、それから路地の方に駆け出した。後から追ってくる気配があったから、適当なドアに入って、六花地区に潜る。それから、睦千に電話を掛けた。

「睦千? また出たよ」

『怪?』

「例の男! まだ店?』

『今、注文したところ、もう出るっていうか、あーありがとう、ちょっと待って、コーヒー』

「あー待って、六花! 山爺漢方の前で落ち合おう!」 

 コーヒーを受け取っている睦千の慌ただしい声を聞きながら、通話を切って青日は歩き始めた。

 山爺漢方薬局は八龍一の漢方薬局を謳っている爺の店だ。通路にも漂う奇妙な香りで人通りも少ない。今いる場所から近いし、と指定したけど、と待っていると睦千がコーヒーを両手に現れた。サングラスで顔を隠して、フードも深く被っている。

「とりあえずコーヒー」

 睦千から紙コップを受け取る。アイスコーヒーだ。睦千は渡しながらストローを吸っている。

「それで、例の男はボクをまだ探しているの?」

 サングラスを少し下げて、青日の顔を覗き込む。その顔はやはりうんざり、と言っている。

「どうやらおれと一緒にいるって知ったみたい。色々きいてみたよ。睦千の中学の同級生、エイって言っていた。謝りたいって……睦千?」

 青日がペラペラと喋っていると睦千が口を抑えた。いつもの考える時の姿ではない。ちょっと驚いた時の顔だ。

「どうした?」

 睦千は何か言おうとして、やめて、瞳を揺らして、口を覆って、唇を引っ掻くように爪で触れて、塗っていたチェリーレッドのリップを拭うように、さらに手の甲で擦って、それから、顔を覆って壁に寄りかかるように、座り込んだ。そして、口を開く。迷って迷って、ようやく絞り出したような声だ。

「……ごめん、ボク、しばらく外に出たくない」

「良いけど、あの男、覚えがあった?」

 青日もその隣に座る。睦千の手が小さく震えているのに気付く。その手がコーヒーのカップを地面に置いて、ポケットからリップを取り出して、薄く、色を失った唇に塗る。まるで、タバコを吸うみたいに、悲しみから逃れるために酒を飲むように、自分の感情に蓋をするような儀式的な動きだった。

「あった……最悪……」

 掠れた声で睦千は吐き出す。頬に伸びたチェリーレッドの名残、青日は思わず目を逸らしてしまった。

「……なんか、トラブルでもあった?」

「……ボクは悪くないよ……とにかく顔は合わせたくないな」

「仕事休む?」

「……いいや、やる……でも、ごめん、しばらく、面倒をかける」

「それは全然平気。おれはそいつを見かけてもしらばっくれていれば良いんでしょ」

 睦千はうん、と頷く。あまりにも頼りない声で、青日は逸らしていた目を睦千に戻す。今は金色に見える瞳が、野生動物のように忙しなく動いていた。

「大丈夫だよ、おれは平気だし……絶対見つからないようにするし、全力で逃げるからさ」

「うん……ごめん、青日」

「…………いいんだよ、だいじょーぶ」

 青日は言葉に迷う。睦千がボクは悪くないという事は多々ある。でも、その顔は悪びれていて、洒落っ気がある。しかし、今日はどうだ。狼狽えて、しょげている。明らかに、何かあった。睦千の心のやらかいところ、おれでも勝手に触れちゃいけないところ。でも、睦千が落ち込んでいるのは、調子が狂う。

「睦千、おれ、相棒だよ。睦千の相棒」

 しょげている睦千の隣でコーヒーを飲む。コーヒーの苦い味がいつも以上に舌に残る。感情に引っ張られた、と言うよりも、

「……お砂糖、入っていない」

「……ごめん、飲んでから気づいたんだけど、逆だった」

 青日はポンコツー、と笑った。とびきり可愛く見える笑顔だ。おれまでしょげちゃダメだ、睦千にとっておれは相棒で、おれがいるから平気って思ってくれないと困る。



【とある金曜日】

 例の男が接触してきてから、まず青日は服装を見直した。一見、全身青色に見えないような服にした。薄い水色とか濃紺とか、そういう色にしてなるべく景色に紛れるようにした。

 あれから、睦千は落ち込んでいる。怯えたように背を丸めて歩いて、暑いのにフードを深く被っている。足音は覇気がなくて、偶然すれ違ったラブに言わせれば、昔に戻ったみたいらしい。昔、昔、とな。昔の睦千は覇気もなく、顔を隠し歩いていたのか。ちょい待て、おいこら、待ちやがれ。大胆不敵、自信過剰、己の長所はと訊かれノータイムで顔、短所はと訊かれて顔が良すぎる事かな? とのたまい、ついでにふふ、と微笑んでみせる睦千を返せ。最低限、睦千が生きていればいいやと思っていたが、そんな事はなかった、やっぱりいつだって睦千には、ボクは白川睦千だけど? と歩いていてほしい、青日はそう自覚した。つまるところ、睦千らしくない睦千が途轍もなく嫌だった。だからと言ってエイを探し出し、追い出そうとはしない。睦千が明らかに怯えていたから、睦千に繋がる情報をわざわざ示す事もない。結局は八方塞がり、時間の解決待ちだ、やってらんない。

「青日さん」

 本部で報告書を書く睦千と巡回当番をこなす青日とで別れて行動していた時だ。巡回ついでにおやつ買っていこう、なにがいいかな、なんて大事な事を考えていたから、考えなしに振り向いて、しまった、と思った。例のエイと名乗った男だ。無駄な足掻きと思いながら青日はそのまま元通り前を向いて歩こうとしたが、腕を掴まれる。

「ちょっと、何!」

 青日は腕を振り払おうと大きく揺らす。その拍子に手帳が落ちた。顔写真と名前が見えた。ちょっと、おれってば持っているね、クソッタレ。

「やっぱり、青日さんだ。睦千の相棒だとお聞きしました」

「誰に訊いたの?」

「色んな人です」

 睦千ってば人気者、と青日はエイを正面から睨む。

「それで、睦千に何の用? あいつは会いたくないってさ。引き籠っちゃっているよ、部屋の中でじっとしているの性に合わないのに。それに、ボクの顔面って最強じゃない? って自信満々だったのに、顔を隠すようになったんだよ。あなたに見つからないようにね」

「……」

 黙ったエイの腕を青日は引っ張り人通りの少ない路地に引き込む。

「睦千はあなたに会いたくないんだって。だから、もう探さないで。そんで、今後一切ここには来ないで」

「……君も、睦千に囚われているんだな」

 エイが低い声で呟いた。

「はあ?」

 青日の中で何かが外れた音がした。多分、なんかのストッパー、ストッパーって言うくらいだから外れちゃいけないやつ、でも外れちゃった、ストッパーって外れるものだし。普通外れないか? ま、どっちでもいいや。おれのストッパーは今外れったってだけ。

「睦千には本当に酷い事をした。俺に会いたくないっていうのも分かる。でも、俺はそれでも会って謝りたいんだ。いや、謝らなくてもいい、遠くからでもいい、姿を見たいんだ。今の睦千を見て安心したいんだ、俺はそこから謝るだけでも救われるし、ああ、でもちゃんと顔を合わせて話したい、君は睦千がどこにいるか知っているんだろう? 教えてくれよ」

 エイがぐだぐだ支離滅裂に何か言っているが、青日はほとんど聞いていなかった、だって自己中心的に睦千に会いたいって鳴いているだけでしょ、キャンキャン言われても青日には関係ない。

「睦千は顔を合わせたくないって言っているんだよ。睦千に何したか知らないけど、睦千はとにかく会いたくないって本気で言っていた。だから、お前はお前で勝手に懺悔して許された事にしておけば」

「俺は、睦千のせいで死にかけた、でも、睦千のおかげで生きてもこれた。だから、ケジメを付けたいんだ。俺にとって睦千は神様なんだ」

「何を言っているのか、分からないけど、金輪際、おれたちに関わらないで」

「……やっぱり、君も睦千に囚われている。あの、魔性に、今でも神様みたいなんだろ?」

「馬鹿言うなよ。睦千をそう言うやつとは関わらないって決めているし、睦千はそう思われるのが嫌いだよ。やっぱり君と睦千は会わない方がいい」

「睦千は、まだ性別を隠しているのかい?」

「それ関係なくない?」

「俺は睦千の全てを知っているさ、」

 青日は全てを聞き終える前に右手をキュッと握り締めて顔の横でコンマ一秒構えてコンマ一秒で前に突き出し、振り下ろした。へギュ、と打撃音だか悲鳴だか分からない音を立てて、エイは地面に伏せる。エイが地面に倒れ込むのと同時に、どろりと怨嗟の籠った青色が細道を支配した。

「おれに、睦千との約束を破らせようって言うの?」

 一人でいる時は奇怪病を使わない、一人での巡回の時に怪を見つけたり、奇怪病を使わないといけなかったり、そんな時はすぐに電話してと睦千と約束した。睦千が安心できるように、少しでも休めるように、巡回だけだからって無理やり押し通したのに、睦千の信頼を裏切ってしまうけど、もうこいつが死んだ方がハッピーエンドだ。

「青日!」

 パン、と一閃、憂鬱を切り裂くような軽快で涼やかな白い光。じめじめとしけった路地を一掃するような、どこから吹いてきたのか分からないけど涼しくて気持ちいい風みたいな声。そんなはずない。その声はとんと曇って部屋の中で沈んでいるはずだ。

「それ以上はダメだ。まだ、ボクの相棒じゃないと困るよ」

 被っていたフードを背中に落とし、昭和の親父のようなサングラスを外して、緑色の目で青日を嗜める。そのサングラス、なんで似合うの、と毎度お馴染みのツッコミを脳内で入れると少し心が落ち着いてきた。

「なんでここにいるの?」

 睦千はお気に入りの白いヒールを鳴らして青日の方へ近寄り、その顔を覗き込みながら答える。

「そこの屋台のドーナツが無性に食べたくなって、気晴らしにと思って出たら、青日がそいつを引っ張って行くのが見えて、着いてきた」

「あ……そう……おれの分も買ってよ、カスタードのやつとレモンクリームのやつがいいな。晩御飯、おれ奢るし、どこがいい?」

「デザートの分だけでいいよ、それでちょうどくらいじゃない? 青日は? 何食べたい?」

 睦千はポケットからリップを取り出して塗りながら尋ねる。今日は目を引く真紅だ、いつもより丁寧に塗っているのか、ちゃんと手鏡を見ながら整えている。

「海底人とかでもいい? 今、おさかなソーダやってるよ! クリームソーダにおさかなの飴細工が乗っているんだって!」

 良いよ、と言う睦千の心地いい声を掻き消したのは、路地に膝をついたままのエイの睦千! と言う叫びだ。ぶっちゃけ言って、さっきから呼んでいたのを無視していた、ほら、だって、ドーナツ何がいいかなとか夜ご飯どうしようって結構大切な問題だし。

「睦千! ああ、あの頃よりも」

「エイ」

 睦千は静かに名前を呼んで、ポケットにリップと手鏡をしまいながら男に近寄る。青日は何かあってもいいように、男を青く染める用意だけしておいた。

「……エイ、ボクは君がした事をなかった事にしているよ。そのほうが君のためだ」

「どうして?」

「……あの時の君の精神状態がまともじゃなかった事は察したよ、でも、だからと言って簡単に許せるものじゃない。ボクはね、家族とか学校に泣きついて君を追い詰める事もできた。でも、しなかった。あれ以上君を追い詰めたくなかったし、誰も信じてくれるとは思えなかったし、とにかくなかった事にしたかったから。綺麗事を言うとね、君の人生に汚点を残したくなかった、悔しいけど、君はボクの初めての友だちだったから。泣き寝入りでもいいやって思ったんだよ。でも、同時に友達じゃないって思った。だって、君はボクを裏切った」

 喜びと悲しみが混ざり合った顔で男は睦千を見つめる。まさに神に懺悔する哀れな人間の姿だった、睦千は懺悔の顔に一切の興味を向けずに、男と目線を合わせようとしゃがみ込み、静かに対峙していた。

「だから、君もボクの事は忘れなよ、友だちじゃない人間の事なんてさ。ボクはご覧の通り元気だし、楽しく生活している。君はどう?」

「……大学に入ったんだ。高校は休みがちだったけど、人生をやり直したくて、知らない土地の学校に行った。初めて、彼女ができたんだ。愛おしいって思える人だ、そうしたら、睦千の事を思い出して、どうしていいのか分からなくなった。その時だよ、展示会のポスター、あれを偶然ネットで見かけて……プラチナブロンド時代、君だって……」

「うわ……あれのせいか……」

 睦千がやらかしたなぁって顔で青日を見た。青日は小声で自業自得? と問い掛けると、睦千も小声で審議中と返した。

「八龍に行けば、君に会えると思った。君に会わなければ、俺は進めないと悟ったんだ」

「どうして? 君は君で、君の人生を生きればいい」

「……忘れられないよ、睦千」

 男の手が膝の上におざなりに乗せられた睦千の手を撫ぜた。その瞬間、睦千はその手を振り払い立ち上がった。

「やめろ! また無理やり……!」

 睦千はハッと目を見開いて、言葉を飲み込んで青日を見た。青日は自分の耳を咄嗟に塞いで、首を横に振った。よく分からないけど知らなくていい、言わなくていい、伝わった睦千は、少し表情を緩めた。その睦千の足にエイが縋り付く。

「違う、違うんだ……!」

 睦千は白いヒールでその手を踏みつけ、蹴り上げ、怒鳴った。

「ならボクに触るな関わるな! お前とはもうどうにもなれない! だから勝手に不幸になるなり幸せになるなり、もう勝手にどうぞ! ボクに関わらないならそれでいいよ! 縁切るのに必要なら、あの時のだって許してやる! いいよ、お前が望むような『ステキなオモイデ』にしてやるッ! お前が望むエンディングに! だからもうここから出て行け! 青日!」

「……え、何?」

「財布貸して」

 青日は睦千の気迫に押されるまま、首から下げていた財布を手渡した。睦千は荒々しく財布を開けると、中に入っていた一万円札を掴み、男に投げつけた。

「あ」

 普段、睦千は財布を持ち歩かない。昼代と間食代とトラムの定期券、奥の手は電子決済かツケか青日の財布か、と非常に身軽だ。だから今日も小銭しか持っていなかったのだろう。そして、タイミングがこれまた良いのか、普段落とすのが怖いからと少額しか入っていない青日の財布には珍しく大金が入っていた。丈にあれこれ貸していた総額三万円、それが昨日戻ってきて、そのまま財布の中に入っていた。その三万円がひらりと道に落ちる。

「この金で今すぐ帰って。それで帰ったらすぐ彼女に会って、愛を確認すればいいよ、こんな人の顔に万札投げつけるような人間じゃなくて、優しくて可愛い彼女の方が幸せになれるって確信するから! その方がお前は幸せだよ!」

 睦千が荒く息をしながら、小さい声で、ぽつりと言った。

「君が、生きていてくれて、良かったよ……でも、だからと言って君を許す事は一生ないし、君を理解する事はない。ボクは君の理想にななりえないし、次に会ったら、ボクは容赦しない。ボクは、君を殺してもいいと思っているんだ。殺してやりたいと思っているんだ、だから、ボクの理性だとかなけなしの倫理観が壊れる前に、帰れ」

 青日、と睦千が堂々とヒールの音を立てて、青日の元へ歩いてくる。いつもの歩き方だ、きっとそのうち表情も戻ってくる。青日は何も言わず、細道を睦千と並んで大通りへと抜ける。

「……ごめん、三万は後で返す」

「うん、それは返してほしいな。ようやく丈兄から回収できたんだもん」

「あいつにそんなに貸していたの?」

「なんやかんやとね。リャンリャン兄と共同戦線を張って、ようやく」

「ならちゃんと返さないと」

 それから、睦千は一呼吸置いて、あのさ、と話し出す。

「さっきの」

「おれ、睦千の性別とか過去とか興味ないよ」

 それを遮るように、青日が矢継ぎ早に話そうとするが、睦千はそれを不機嫌そうに制した。

「いや、黙って聞いて」

「あ、はい」

「キス、されたんだ。無理矢理ね……それだけだよ、多分、あいつはキスのその先もしようとしていたんだろうけど、しなかったから、だから、ボクは何も言わない事にした」

 青日は小さく、うん、と相槌を打つ。睦千は言葉を選びながら言葉を紡ぐ。

「誰かに言ってもさ、お前が誘ったんだろうって言われるんだろうなって、なんか思って。昔から、そういう、なんか嫌な視線ってあったし、少しだけ、言われた事あったんだ、同級生に。白川さんってなんかエロいよね、みたいなさ……だから、みんながそう思っているわけじゃないけど、でも、言えなかった……そう思われたくなくて……嫌だった、そういう、性的な視線」

「……うん」

「エイがそういう風に見ているのかもなって思っていたけど、気のせいだと思いたかったんだ。友だちだと思っていたし……でも、組み敷けば、問題ないんだってさ。ボクが女なら勿論、たとえ男でも、自分が抱いてしまえば関係ないって。ほら、中学生くらいのボクって、小動物ばりの可愛さだったし……」

 睦千のジョークも今日は空元気だ、でも、青日はただ、うん、と相槌を打つしかなかった。

「うん」

「だから、押し倒された。冗談じゃないって、頬引っ叩いて、怯んだ時に逃げ出せた」

「うん」

 でも、と言いながら、睦千はパーカーを脱いだ。ノースリーブシャツから伸びる白く真っ直ぐな腕、でも、その腕が力強く、肩の辺りには薄く引き締まった固い筋肉をつけた事、青日は知っている。

「でも、今なら簡単に逃げれるし、そもそもそんなヘマしないなって思った」

 睦千はあっけらかんとした顔で言いのける。いつも通りに見える、が、青日には肩肘張った強がりのように思えた。気のせいかもしれない。睦千を悲劇の主人公として見てしまったバイアスのせいかも、でも、白川睦千大本営発表は以上の通り、あっけらかんとした顔なんだ。睦千の中で乗り越えた事なんだ、だから、おれはおれらしく、睦千の日常であればいい。きっと、それが正しい。

「今の睦千なら平気だよ。おれのパンチでも吹っ飛んだし! 睦千は強いからさ!」

「……あーでも、一発、殴っておけば良かった」

「おれが代わりに殴ったからさ、だから、睦千がいないところで奇怪病使ったのは不問に処してほしーなー」

「良いよ、代わりに殴ってくれたもんね」

 あはは、うふふ、と笑い合いながら、甘いバターの香りの方へと歩いていく。とりあえずは、ドーナツだ。

「ね、この後一緒に回るよ」

「オッケー」

「あと財布忘れた」

「バカじゃん」

「いやー今日のボク、ツイているなー」

「いいけどさ……いいけどさぁあ!」

 おれたちはいつもみたいに話した。睦千は強いよ、優しいよ、頑張ったね、我慢しないでよって、言葉にできない分、伝わればいいなと願いながら、おれはいつも通りに話したんだ。



【とある土曜日】

 翌日、無能組の二人は休暇であった。睦千は珍しくソファーでうたた寝をしている。昨日はあのまま巡回と報告書をこなして、海鮮レストラン『海底人』に行って夕食を食べた。睦千はたくさん食べて、お酒も飲んで楽しそうだった。はしゃいだ分とここしばらくのストレスが堪えたのだろう、でも睦千が起きたら出掛けようと思う。どこ行こうかな、と洗濯物を干している青日のポケットで、携帯が鳴った。

「はーい、青日でーす」

『青日さん、春田です。今、睦千さんと一緒ですか?』

「うん、睦千寝てるけど」

『ならよかったです。あのー、さっき、睦千さん宛に男性の方が訪ねてきまして』

 ん? と青日は警戒する。

『勿論、睦千さんの事は何も言ってません。こうやって本部まで訪ねて来る睦千さんファンはやばいので』

「あーなら良かった」

『なので、睦千さんにはお継ぎできませんってお断りしたんですけど、なら青日さんに言付けを頼まれました』

「おれに?」

『はい。先日の三万の件でお話があるそうで、十四時までに招福門に来てほしいと……言えば分かるはずって言われているんですけど』

 奈子は不思議そうに告げるが、青日は得心した。

「あー、分かった。おれ行くよ」

『良いんですか? 危なくないですか? 来るかはお約束できないですよとお伝えしていますし、その方も来ないならそれで構わないって仰っていたので』

「平気平気、招福門ね」

 電話を切ると不意に後ろに気配を感じる。振り返ると起きてきた睦千がなんだって、と訊いてくる。

「蓮華殿から呼び出し! おれ、ちょっと行ってくるね」

「あっそ……」

 寝癖頭のまま不貞腐れる睦千を置いて準備をして、急足で招福門へ向かう。広場のベンチにエイは座り、青日に気づくと頭を下げた。

「昨日は……」

「用件は? わざわざおれを指名したのは何?」

 落ち込んだ顔のエイに構う事なく、青日は問い詰める。

「……こちらをお返ししたくて」

 小さくドス黒い青痣が居座る手で封筒を差し出されるが、青日はボトムスのポケットに手を入れたまま要らない、と言った。

「三万は睦千から返してもらうから。それはあいつがお前にあげたものだよ」

「いや、でも、ご迷惑をかけたのに」

「じゃあ、あいつの事忘れなよ。それだけで十分って言ってんの」

「……青日さんは、睦千を独占しているんですか」

「何言ってんの?」

 青日はポケットの中で拳を握り締めた。

「あいつはペットでも物でもない。一人の人間だ。当たり前の事言わせないで」

「……あれは、魔性だ。どうしようもなく惹かれる、自分だけの神様にしたくなるだろう?」

「そんな話したいだけなら、おれ帰るよ。それに、睦千の事、神様だとか魔性だとか言っているなら、尚更会うべきじゃなかったね。神様は見えないから神様で、信仰だ。でも睦千は人間だよ、怪我すれば血が出るし痕も残るし、食べれば出すし、汗もかくし、そのうち老けて、もしかしたら禿げるかも」

「睦千は俺にとっての神様だ、あの人のおかげで生きてこれたんだ、だからこの先も導いてほしい、俺だけを見て、俺だけのものに……」

 エイは青日の声なんぞ聞こえていないように語る。睦千のファンの中でもだいぶおかしい部類で、許し難い存在だ。どうしようか、と青日は空を見る、晴れ、雲は一つ二つ、あ、卵買わなくちゃ、今日安かったはず。

「俺は一生あいつに囚われるんだ、それが、どれだけ辛く幸福か、お前には分からないのか!」

「だって、おれ、睦千に大してそんなふうに思った事ないもん」

 不意に問いかけられた青日は当然のように否定、ようやくおれのターンか。

「美しいとは思わなかったのか!」

 青日はあくびを噛み殺しながら、別に、と言う。

「綺麗だとは思うけど、それだけだよ」

「それだけだと……なら、睦千を返してくれ! 俺に睦千をくれ!」

「それ違くない? 睦千は睦千の意志でここにいておれと一緒にいるんだけど」

 埒が明かないな、と青日は更に口を開いた。

「お前さ、宝石に欲情するの? 綺麗な景色とか雄大な自然を前にして、勃起するの?」

「は?」

「おれにとって睦千の綺麗さってそういう類。おはよ、今日も最強の顔面だねって感じ。海が綺麗だなーとかキラッキラの宝石と一緒。ただ綺麗なだけで、睦千の個性で才能だよ」

 それにさ、と言う。

「三万だよ」

「何が」

「三万、睦千が自分と関わるなってお前に渡したのは三万。三万で自分と交換できるって思っているって事。付け加えるとね、基本的におれが財布に金を入れていない事を睦千は知っているんだよ。だから、お前に渡されていたのは千円かもしれない。あいつはね、自分の価値を千円だと思っているわけ。ねえ、お前のせいだよ。お前があいつの尊厳を傷つけたから、睦千は自分を安売りするんだ。ねえ、お前、あいつが本当に三万分の価値しかないと思う?」

 男は黙った。

「睦千の価値は分からないよ。おれは睦千が、なんかの人質になったとして一億円用意しろって言われても用意しない。睦千が金で買えると思っている奴らに一銭も渡したくない。あいつは芸術作品でも希少な宝石でもないからね。人間だもの、自力で帰って来いって感じ。それに、簡単に捕まる睦千なんて解釈違いだし、睦千が大人しく捕まっているわけがない。大人しく捕まっている時点で何か企んでいるから乗っかりに行くけどね。助けはしないよ、一緒に暴れに行くだけ。睦千は、お前が知っている、お前が手にできる、か弱いうさぎちゃんじゃないんだ。睦千は変わったんだ、きっと。見た目も中身も変えちゃったんだ。お前はもう、あいつを押し倒せないし、触れられない。あいつは、でかい大型肉食猫だよ」

 青日はシャアっと男を威嚇した。男の顔が驚愕に染まる。青日はそうだよねえ、と満足する。元気に生きているのが今の睦千で、睦千が好きな睦千自身で、青日の相棒の睦千だ。

「……睦千は」

 男が唖然としたまま言葉を紡ぐ。

「もういないんだな」

「そうだよ、あんたが知っている睦千はいないよ。今いるのは元気がいい睦千だけ。元気でいてもらわないと困るしね、三万返してほしいし」

「…………そうか、睦千は……」

 青日は来る時にもらったフライヤーを取り出して、男に差し出した。

「会うのはやめた方がいいよ、やっぱり。睦千は変わっていくんだからさ」

 エイはフライヤーを受け取った。今よりも幼い睦千の横顔だ、きっとエイの中の信仰の形のままの。それをじっと見て、ようやく男は肩から力を抜いた。

「色々、すまなかった。もうここには、来ない。睦千に、いや、いい」

 男はゆっくりと立ち上がった。

「そうだね、おれ、伝言しないよ」

「……あんな事をしておいて、言う資格はないと思うが、これまで睦千に会いたくて生きていたんだ」

「実際に会った感想は?」

「見違えたよ、あんなに堂々と生きているんだな」

「普段はもっとふてぶてしいよ」

「……申し訳ない」

「申し訳なく思うなら、何か良い事をしなよ。睦千は基本的に良い人になりたいんだ。その手伝いをすればいい。回り回って巡り巡って、睦千のためになるかもしれないし。まずは、彼女に優しくしたら? その三万使ってさ」

 じゃあね、と青日は振り返ってチラチラと辺りを見渡した。さっき、めちゃくちゃ見慣れたシルバーのベルトのヒールにプラチナブランドのマネキンみたいな人影がいたもので。でも、逃げ足に定評のあるその人物の姿はもう見えなくなっていて、青日は思わず道の真ん中でナハッハと笑った、やっぱりあいつ、ヒールの方が足が早い気がする。それから、ゆっくりと歩きながら睦千に電話をかける。どうせだからどこか行こう、それが良い休みの日。

「もしもし睦千?」

『んー?』

 睦千の後ろからガヤガヤと話し声とガタンゴトンと聞こえた、トラムに乗っているらしい。

「いまさー、新都市の方にいるんだけど、ちょっとぶらっと遊ばない」

『奇遇だね、ボクもいるよ』

「奇遇だ!」

『そうね。青日、どこ行きたい?』

「どこでもいいけどー、んー、あ! 夏の庭行こう! 綺麗な羊羹とか水饅頭があるって聞いた!」

『ああ、あそこね。いいよ、その後、夏の庭で遊んで、夜は風鈴屋敷の海鮮ちらし食べようよ』

「まじ? 贅沢ぅ!」

『久々にそんな気分』

「じゃ、停留場で待ち合わせでいい? 物物大街の」

 うん、と睦千が小さく頷いた声で答えて、それから、もっと小さい声で、ありがと青日、と言った。そこそこ性能のいい二人の携帯は、その声を拾って届けたけども、青日は何も言わないで、じゃあとで! と通話を終わらせた。それから、また空を見た。先ほどと同じ空の色のはずなのに、さっきよりも好きな青色に見えていた。

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