番外・季節感の仕事

9月 中秋の名月

 風呂から上がると、足元にひんやりと風が通り、青日は首を傾げた。

「ねー、睦千ー、窓開けているの?」

 んー、と部屋の奥から返事が聞こえた。

「青日、こっち。月が見えるよ」

 部屋の奥、大きな窓の外、網戸の向こう側、ベランダから睦千が顔を出して青日を呼んだ。

「虫入るよ」

「虫除けはしたよ」

 青日は網戸を開け、さっとベランダに出る。サンダルを引っ掛けて、睦千の隣に並ぶ。睦千は先に風呂を済ませていて、見慣れた顔もどことなく気が抜けたような、ゆったりとした表情だ。

「だいぶ涼しくなった」

「風がひんやりだねー」

「でも、『ひや』でいいよね?」

 にやりと笑って、睦千がお猪口を差し出す。白くつるんとした表面に金の縁取りの桜の花びらが描かれた上品なお猪口だ。

「準備いいねぇ」

 お猪口を受け取ると、睦千が徳利の中身を注いだ。そして、睦千は自分のお猪口を手にしたから、青日はそれに軽く手の中のお猪口を当てた。チン、ちゃぷん、と乾杯の音が、夜風に流れる。夜風が流れた先、ポツリポツリと灯りが灯る八龍の町、その真上にまあるい月が浮かんでいた。

「今日って十五夜?」

「確か」

 お猪口に注がれた酒を一口飲んで、青日はおっ? と声を上げた。

「んー? なんかいつもと違うお味……ちょっと甘酸っぱい?」

「この間開けて飲みきれなかったのに、とあるものを混ぜました」

「なんだ……え、何? お茶? 違うな」

「正解はーリンゴジュース」

「はぇー! 意外! 飲みやすい!」

「前、どっかの居酒屋で飲んで、美味しくてさ」

「これ、飲みすぎるやつじゃん」

「これ1本だけね。明日も巡回あるし」

 お猪口と同じく花びらが描かれた徳利を、睦千は笑いながら揺らす。

「なら大切に飲まなくちゃ」

 青日はゆっくりとお猪口を傾けた。ぽっかりと口を開けたような満月は呑気に八龍を見下ろしている。睦千はそれをぼんやりと眺めながらチミチミと酒を舐めていた。当然のようにそれが様になる。月に負けない美しさと自信、青日はそれを眺めながら酒を味わう。あまりにできすぎな夜だ。あまりにできすぎだから、壊したくなるのが青日の性分だ。今すぐに月に雲がかからないかと思ったけど、雲一つ見当たらないすっきりとした空が広がるばかりだ。そして、こういう時に限って何を話したらいいか、何も思いつかない。今日話したい事は全部話しちゃった気がしたんだな、何か話したいけど。

 青日がむんむんと考えている間、睦千は月を眺め飽きたのか、下に広がる町の灯りを見ていた。そして、緩やかに目を瞑る。

「睦千、こんなとこで寝ないでよ?」

「起きているよ」

 睦千はそう答えて、口をつぐむ。何か聞こえるのかと、青日も耳をそばだてる。


……じゅーぅ…………つき…………じゅーう……


「来た」

 パッと睦千が目を開く。月に劣らぬ黄金色の瞳がキラと光る。

「何が来たのさ」

 睦千は青日にお猪口を押し付けて、ウィッピンを片手にベランダから飛び降りた。

「あ、ちょっとぉ……」

 ベランダの柵にウィッピンの先っちょが絡みついている。それもすぐ消えて、睦千のつっかけの足音がパタパタと聞こえてきた。

「つきみぃ〜まんじゅーぅう、かわいぃうさぎのつきみぃまんじゅうぅ」

 足音が離れていくのと入れ替わるように、のんびりとしたおじさんの声が聞こえてきて、青日はそういう事ね、と納得した。そういえば、満月の夜に饅頭を売り歩くおじさんがいると言っていたな。それが食べたかっただけか。

「花より団子、月より饅頭ね」

 呟いていると、ウィッピンがシュルリと戻ってきた。そして、キュルキュルと睦千が登ってくる。柵に足をかけて、紙袋を口に咥えてフゴフゴと間抜けに笑う睦千に、青日は大きな声で笑った。

「うさぎの形だって」

 戻ってきた睦千はいそいそと紙袋を開けて、青日の手に小さなうさぎを乗せた。

「あはー、結構良い夜だね」

 手に乗せられたうさぎを撫でている間に、睦千はうさぎの尻にかぶりついていて、青日はまた笑った。

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