第3話 マジカル・シンドローム・フェアリーテイル【下】

【5月3日 晴れのち雨 本日のトピック:路地裏に注意】

 翌日の昼過ぎ、2人は奈子に呼び出され、再び福薬會本部へ向かっていた。

「魔法少女が高校生だとして」

 道中、暇に任せて睦千は話し出す。本部までは残り5分ほどの距離だった。

「10代後半の子って、世間一般的には万能感に支配される頃だと認識されている」

「万能感?」

 そう、と睦千は気だるげに歩く。本日の睦千の靴はカジュアルな赤いハイカットスニーカーだ。白いTシャツに細身のブラックジーンズといつものジャケットと、今日はやる気がないのかシンプルな服装だ。だが、ただ歩いているだけなのに映画スターみたい人目を惹いている。

「自分は何者にでもなれる、自分の世界があって、プライドが凝り固まっている。まあ、人ぞれぞれだとは思うけど、そういう認識がある」

「うん、それで?」

「そういうお年頃に、自分が考えた作戦が他人に滅茶苦茶にされたとして、例えば」

 睦千はふう、とあくびを零しながら話す。やる気がないというより疲れていて眠いのだろう。

「自分が起こした事件の場所に、他の事件が重ねられている、とかね」

「睦千って、的確に人を煽るよね」

 青日がにやにや笑うと、睦千は、今回は違う、と言った。

「煽る、というより焦燥させた、と思う。多分、魔法少女はそんなに性格悪くない。起こす事件から性格の悪さを感じない。でも、こちらを排除しようとする。ここまで秘匿で物語を作っていたから、誰かに気付かれるのは絶対に避けたい」

「だから魔法少女は俺達に接触してくるって事ね……なんで御大に知らないって言ったのさ」

「確証はないから。魔法少女を誘い出すために焦燥感のプレゼントは考えていたけれども、他は何も分からないし。説明も今回の話もこじつけに近い。うまくいくとも限らないし、もしかすると、茨姫みたいにボク達は眠らされて夢の中で決着がつけられてしまうかもしれない」

「……つまり、自信がないんだ」

「はっきり言わないでよ」

 はあ、と溜息を吐きながら睦千は空を仰ぎ見た。さらりと前髪が顔の横に落ちて、睦千の目が見えた。睦千の目は桃花眼と言うらしい。切れ長で潤んでいてまつげも長くて、うっすらと目元が桃色、それがミステリアスで色気がある雰囲気を作り出して、異性を魅了する。睦千に性別なんて関係ないから男女問わず魅了する。更にその時々で瞳の色が変わる。だから、魔性の目だとか言われる。でも、青日にはそれがよく分からなかった。人間の目だ。少々できがよろしすぎて国宝級に美しい目だけれども、青日にとっては、人を惑わす不思議な目ではない。視力1.0以上ある、よく見える睦千の目だ。

「睦千が自信ないの、珍しいね」

「ボクだってそういう時ある」

「拗ねないでよ。失敗しても大丈夫だよ。おれといれば、多少の事は平気になるでしょ?」

 当然だよ、と青日は胸を張り、笑いかける。睦千は表情を微かに緩めた。

「……絶対大丈夫だよって言わないダーリンの事、だぁいすき」

「おれだって最強じゃないもん、でも、ハニーがいれば大体の事は平気だよ」

 睦千は、青日が何でもないように言う薄っぺらの精神論が好きだ。絶対を約束しないで、でも、2人ならある程度は平気でしょ、と簡単に笑う。足取りを軽くしてくれる最高に可愛い子が隣にいる、これって何より最高じゃない? と世界中に自慢したくなる。

「まあ、なるようになるか」

「そういうコト」

 悪戯っぽく笑った青日が、突然、睦千の視界から消えた。ドサッ、ぐえ、痛い、と変な音が立て続けに聞こえる。

「アレ?」

「ああ! 青い人!」

 青日は地面に転がっていた。背後からタックルを受け、そのまま地面に押し倒された形だ。

「アレ? 青日、どこで恨み買っちゃったの?」

「買ってないよー多分? 睦千じゃないし」

 青日は首を回して背後の礼儀知らずの人間を見た。優男風の顔は青ざめ、今にも泣き出しそうな雰囲気である。

「私、猫様の一奴隷でございます!」

 今、調査方の多くの人員が割かれている迷い猫が飼われていた店の店員らしい。随分と芝居がかった話し方をしている。

「なんでおれに飛びついてきたのさー」

「あなた様にしか我々が救えないからです!」

 睦千は青日と店員覗き込むようにしゃがんだ。

「あなた様はお雪様が興味をひかれた唯一のお方! ええ、以前、店の前をあなた様が通られた際に、お雪様は窓越しにあなた様にじゃれておられたのです! 私、昨晩思い出しまして、こちらの青い人の事を! ですからあなた様にお願い申し上げに参ったのです!」

「うわ、お雪様って、猫様一番の迷い猫だっけ? おれ、好かれていないよー、偶々だよー」

 呆れたような顔で睦千は店員を見て、それから青日にどうする? と尋ねた。

「……おれ、猫探そうかな」

「マジで?」

「だって、この人の腕から逃がすかという強い意志を感じる」

「ええ……ボク手伝わないよ。猫相手に奇怪病使わないでしょ、青日」

「まあ、多分? でもおれ1人だけとか、ちょー不安」

「だって、ボク、虎と豹の方、確認しに行かなくちゃいけないし」

「はー、睦千ってば本当ドライ」

「青日が甘ちゃんなだけ」

「えーでも本当に手伝ってくれないの?」

 きゅる、と睦千を上目使いで見つめる。青日は知っている、睦千はおれが上目遣いでお願いすると、よほどの事じゃなければ、いいよって言う。そして睦千は、青日の確信通りに、溜息を混ぜた声でいいよ、と言った。

「そんな可愛い顔されても困るけど、そこまで言うなら、いいよ。でも、ボクは魔法少女の調査を優先するから」

「十分! ありがとう、睦千! これでいい? 重いし暑いからもうどいてほしいんだけど?」

 青日は背後の店員に言うと感極まった店員は青日の身体をぎゅっと抱きしめた。

「ああ! 我々の救世主!」

 ぐえっと青日の喉から蛙のような声が聞こえる。

「どいてって言ったよ! おれ!」

 睦千はじたばたとする青日を置いて、睦千はスタスタと福薬會本部へ向かった。

「あら、おひとりですか?」

 調査方事務室に顔を出すと、奈子が驚いたように声を掛けた。

「青日は猫探し」

「あらら余裕ですね……ところで、本題なんですが」

 しれっと睦千の心の痛いところを刺した奈子は机から白い布に包まれた何かを差し出す。

「今朝、見つけました。踊るおじさん人形のところです」

 睦千は包みを広げて、その中の割られた白い虎と青い豹を見る。首も足も胴も、叩き壊されて跡形もない。自信作だったのに、と睦千は白と青が混ざり合ったかけらを指で突いた。

「春田さんのお家って、おじさん人形の近くだったよね?」

「はい。昨日は壊れていなかったと思います。でも、暗くてちゃんと見ていなかったので、何とも……本当に申し訳ないです。こちらを見つけたのは今朝の8時半過ぎです。他のところはまだ確認できていないですが、富山さんに依頼されていると言う事でしたので、すでに監視カメラの確認をしてもらっています。ですが……」

「映っていないんだ」

「はい」

「……こっちの意図に気付いたのかな」

 いいねえ、と睦千は不敵に笑った。




 一方、青日は目撃情報に従い、深文化郷行のトラムに乗っていた。ガタンゴトンと揺られながら、睦千の事を考えていた。調査は良し悪しはともあれ、進展を見せた。睦千にも余裕が出てきたかと思ったが、まだちょっと煮詰まっているようだ。いや、でも、普段の睦千ならすぐに、探そう、と言い出しそうなものだ。人の心はあるのかと度々なじられているけれども、基本的に睦千はいい事をしたいし楽しそうな頼み事は二つ返事で引き受ける。魔法少女は日中現れないし虎と豹の確認も猫探しながらできるだろうから、あんなに拒否する事もないだろう。

「……睦千、もしかして猫嫌い?」

 動物ならキリンが好きと言っていたけど、嫌いな動物は知らないなー、それなら悪い事しちゃったなー、と青日は帰り道にケーキを買って帰ろうと決意する。悪い事は良い事で上書きできるタイプなのだ、睦千は。あと、普通におれがケーキ食べたい。

 ぽつぽつと考えていると、目的地に着く。青日はトラムを降りると、目撃があった図書館の方へ歩き出した。深文化郷地区は芸術系奇怪病者達が集まっている。劇場やライブハウス、図書館に映画館、画廊とアトリエが連なる街並みは、ヨーロッパの街にあるような石造りの小洒落た雰囲気だ。しかし、その中では狂気に飲まれ、深淵からの声を聴き、奇跡の如くの閃きと、自身への確信と満たされない向上心に嘆く悲鳴が渦を巻いている。建物から漏れ聞こえる音は賑やかであるのに、ゴーストタウンに似た静寂の気配がある奇妙な場所だった。

「いないなあ……」

 図書館の前でぐるりと辺りを見渡す。人も歩いていなし、ましてや猫も歩いていない。さらに目撃情報がないかとスマートフォンを見るが何もない。青日は覚悟を決めて、一歩を踏み出した。

 青日はなんとなくこの深文化郷地区を嫌っていた。ここでは感情が自分の力を倍増させ、努力が実となると信じ、好きだから頑張れるを実践している眩しい人ばかりだ。気持ち次第でどうにかなるのなら、世界は平和でハッピーワールドで、今日の青日はいなかった。青日は少々前向きアレルギーだ。頑張れば、とか、信じれば、とか、そういう言葉が好きではない。それはどうにもならない事を目の前に流されるまま生きてきた自分を否定する。なんで頑張らないの、なんで自分の力を信じなかったの、そんな人生、不幸だよ、立ち向かわないと駄目だと。

 でも、まあ、ちょっと待とうよ、いつ、おれがこの状況が不幸です、と言ったのさ。

 おれは今の生活が大好きだ。毎日ヘンテコな事があって、突拍子のない事が目の前を通り過ぎていくし、自分が好きな事を大きな声で宣言できて、好きな格好で歩ける。そして、隣にいつになってもよく分からない最高に都合がいい相棒がいる。運命と周囲に流され辿り着いた場所だけれども、そのみちみちに根が張った地面から湧き出て、物理法則のまま川となって流れて、最後は青い海に流れ出た。偶然にもおれは幸運だった。誰がなんと言おうと、おれは今の生活と今の自分が気に入っている。いい子で流れたご褒美だ、好きなように生きているんだから、知らん人がとやかくオエラク述べられても、俺は夕飯のメニューを考える。今日は冷蔵庫の奥深くで死にそうなアスパラ食べなくちゃ、あと魚の竜田揚げあんかけ付、味噌汁もあったほうがいいかな、いやめんどくさいや。

 青日は建物の隙間や屋根の上を見て歩く。時折不審な目で見られるたびに、白猫について尋ねるが見つからない。途方に暮れていると、スマートフォンが着信を知らせた。睦千だ。

「はーい、青日」

『今どこ?』

「えーとね、エリック座の辺り? 睦千もこっち来てよー」

『分かった、ちょっとそこで待っていて』

「分かった!」

 青日はエリック座の前のベンチに座り睦千を待つ。エリック座は深文化郷中心にある劇場である。格式高いバロック様式の建物で、様々な演劇やコンサートが行われている。その入り口辺りに人だかりができている。青日はそれを遠目で眺めていた。眺めていると、睦千が歩いてきた。思った通り、なんとまあ、颯爽としている。

「おつー」

「うん」

「置物、どうだった?」

 隣に座りながら睦千は確認した事を青日に伝える。

「全部壊されていた。初太郎に確認してもらったけど、やっぱり何も映っていない。瞬きの間に壊されている。多分、今日明日の夜が勝負。それで、猫の方は?」

「見つからなーい。睦千は見かけなかった?」

「いいや」

「なら、また目撃情報待ちかな」

 スマートフォンで目撃情報を確認しながら青日は雑談を始める。

「そういえばさーあの人だかりって何だろうねー」

「誰か役者でもいるんじゃない?」

「今って何やってんだっけ?」

「あーアレ、ロミオとジュリエット。ロミオがいつものあの人、久遠寺公貴くおんじきみたか

「じゃあ、出待ちかなー」

「お暇そうですね、お札、見ません?」

 ぬっと、二人の背後から声が掛かる。青日はそれにうわっと元気よく驚いて、振り向いた。

「店長! 驚かさないでよ!」

 ゆったりと笑う蛇鍵屋の長宝は手にした封じ込めの札やら通せんぼの札やらを突き付けた。それを見ながら睦千は平然と尋ねる。

「長宝、何してんの?」

「お札が必要な人がいないか探しているのですよ、ええ、怪はどこにでも現れますからね、ええ、必要な時にすぐにご用意できるように。どうです、お二人とも」

「昨日も要らないって言ったよ! どうせなら、猫見つかる札とかないの?」

「そんな札はありませんが、ああ、見ましたよ、今日も」

「どこ?」

 睦千が食ってかかるように詰め寄る。

「巨匠館7号館の辺りですねえ。加羅枝御大が遊んでいましたよ」

「いつ?」

「15分前くらいですかね。御大、結構夢中になっていましたし、まだいるかもしれないですねえ」

「それ早く言って」

「店長捕まえてよ!」

「業務外ですから。昨日、お札を買ってくだされば、お知らせしたかもしれませんが……」

「そんな事言うとお札買わないよ! もう!」

「それは困りますねえ、お二人が」

「それもそうか、あはは」

 2人は顔だけは笑いながら立ち上がった。空元気である。




 巨匠館地区まで戻り、長宝が言った7号館に向かうと、茎乃が路地に立っていた。昨晩見た時より幼く見える。長い髪をお下げにしているだけでなく、いつもより若返って過ごしているのだろう。

「茎乃さん! 猫まだいる?」

「ええ。早く連れて行って、成維が猫に構って動かないのよ。あいつ、いつまで息抜きするつもりなのかしら」

 ほら、あそこ、と茎乃の小さい指が指差す先、白い塊が落ちていた。白い塊はしゃがんだ成維の手に撫でられ、ゴロゴロと転がっている。青日があちこち歩いている間にこの猫とおっさんは気ままに遊んでいたというわけだ、人生ってそういうもの、くっそたれ、失礼、お口が悪かった。

「御大」

 青日が小さく声を掛けると、成維は猫を撫でながら、ゆっくりと息を吐き出した。

「来るのが早いな」

 悔しそうに呟く成維に、睦千がやれやれと言いたげな雰囲気で言う。

「成維、猫撫でていないで、仕事しなよ。それか、その猫、『猫様一番』に届けてくれれば良かったのに。知っていたでしょ、今、調査方が白猫探ししているのをさ」

「白川の癖に真っ当な事を言うな」

「ボクだってたまには真面目になる」

「俺への嫌がらせだろう。俺だってたまには動物に触ってみたい、結構いいな、猫」

「茎乃さんに、部屋の植物茂らせちゃってって言おうかな。猫に浮気しているんだったらさ、ね、青日」

「そうだね、睦千」

「それはそれ、これはこれだろう。悪魔め。ほら、持っていけ」

 そう言うと、成維は渋々立ち上がる。そして、青日がそろりそろりと手を伸ばすと、ふと目を開けた猫はその手を見て、僅かに瞳と口を開けてそれからピッと飛び跳ねていった。ほんの一瞬、数秒のできごとである。

「青日のまぬけ!」

「心外!」

 成維と茎乃が背後で笑い始める。

「さすがだな! 無能組!」

「頑張りなさいなー! あはははは!」

 猫は路地を駆け抜け、姿を消す。睦千の脳内で地図が広がる。

「あの先は88号館の方、ここから突っ切って行くのが早い」

「流石睦千! 追い駆けられる事に定評がある!」

「……まあ、確かにいろんな人から追い駆けられてきたけど」

 階段から地下通路を通りまた階段を上る。どこかの巨匠館の中を通り抜け、睦千は窓から外に出ようとする。

「良かった、開いている」

「睦千、ドアって知っている?」

「ドアの方行くと遠回り。この窓は鍵がいつも開いていて、路地に出入りができる」

「睦千が開けたままにしてるとかじゃないよね?」

「ボクじゃない。下のスナックのママさんが前の旦那から逃げる時を想定して開けているのを知っているだけ」

 睦千はとうとうひょいと窓枠を乗り越えた、手慣れている。

「それにこの路地は89号館と90号館の間、88号館と目と鼻の先」

「それはしようがないかー」

 青日も軽く窓枠を乗り越えた、睦千の相棒なので手慣れてはいる。

「いるかにゃー?」

 頭の上の通路が入り組み、湿った空気で満たされた暗い地面に降り立って右左を確認、白猫はいない。あっちか、と数歩駆ける。その目の前の道を白い塊がゆったりと通り過ぎて行った。

「睦千! 捕まえて!」

「え、いけるかな」

 ウィッピンを取り出した睦千が猫へ向かって投げたが、猫は軽く避けて走り去っていく。

「うっそ! 外した!」

 青日が走り出し、睦千も追い駆ける。

「外すよ、ボクだって」

「めずらし!」

 猫は今度は90号館の辺りをうろうろと歩いていた。2人は目を合わせ、じっくりと猫ににじり寄る。猫は青日の方へ興味を示した。よし、依頼完了と青日が心の中で腕を振り上げたタイミングで、猫が驚いたように逃げ出した。

「ちょっと!」

 2人は走り始め、


「ぎゃ、おおおおおおおう!」

「がおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 奇妙な泣き声が2つ聞こえ、驚きで足を止めた。

「なんの鳴き声! 猫逃げたじゃん!」

「とにかく猫!」

 猫が逃げた方へ2人走り出し、そのまま路地を抜ける。奇妙な鳴き声くらい、八龍では珍しい事でもない、多分、うるさい怪が出たとか奇怪病者がパッションを溢れさせただけだろう、日常茶飯事。

 路地を抜けると、目の前に広い空間が現れる。学び舎町の入口の坂である。

「あれれ、睦千ってば天才じゃない?」

 青日は睦千の腕を引いて、睦千は目の前に飛び込んできた光景を見て、ありゃ、と間抜けな声を上げた。

「え、マジで?」

「ダーリン天才! 思った通りだ!」

 2人は目の前ににょっきり生えている、見覚えがある白い虎と青い豹を目掛けて走り出した。猫は1度放置、できたら自力でお家へ帰るか、犬のおまわりさんに保護されてくれると助かる。

「魔法少女が出た、第三高校の方、必要なら警報鳴らして」

 睦千は走りながら初太郎に電話を掛け、手短に指示を伝えた。

「魔法少女とご対面だ!」

 2人はタカタカと校門をくぐり抜け巨大な虎と豹と対面した。睦千と青日が作った粘土の置物だ。大きさは校舎半分ほど、2匹並んで校庭に居心地が悪そうに座っている。

「ハァイ、魔法少女さん」

 睦千が朗々と呼びかけると、校舎の影から人影が現れた。短く切られたミルクティー色の髪には菫色の大きなリボンがふわふわと揺れている。同じようなリボンが、藤色が基調のワンピースの胸元に飾られている。パフスリーブの袖や、裾が丸く膨らんだスカートには水色のフリルがあしらわれている。靴にもフリルやリボンがこれでもかと乗せられ、身体全体で『可愛い』を表現している魔法少女が立っていた。その肩には猫のような兎のような、不思議な紺色のぬいぐるみが乗っている。背後に従えているのは巨大な猛獣であるが、どうにも『ラブリー』とか表現される見た目である。彼女は睦千の呼びかけに答えず手を前に突き出した。その手が光に包まれ、すうっと棒状に伸びた。光が消えると先に星がついたステッキが現れた。

「マジで魔法のステッキだ!」

 睦千は何も言わずにウィッピンを手の中に出す。

「あ! おれ達、福薬會の者でーす。調査に参りました!」

 その隣で青日が手帳を魔法少女に向ける。彼女はハッとしたように目を開くと、小声で肩のぬいぐるみに何やら話し掛けた。

「すまないけれど、まあ、じっとしていてもらおう」

 睦千はぐっと右肩を後ろに引き、遠心力に任せるまま、右腕と手首を使ってウィッピンを2匹へ向かって振り切った。ウィッピンはしゅるりと音を鳴らし虎の額と豹の鼻っ面を打った。自由自在に伸び縮みするウィッピンは怪と奇怪病の症状を無効化するが、虎は不機嫌そうに唸り、豹は鼻をちょいちょいと掻き、じっと睦千の手元のウィッピンを見ていた。

「アレ?」

 呆気に取られた睦千の目の前に青日が手をかざし、アレ? と再び呼びかける。

「嘘、アレ?」

 動揺したままの睦千が、また鼻先を狙う。次は豹が口を大きく開き、ウィッピンを咥えた。

「はあ?」

 咄嗟にウィッピンを手放し、一度消す。手を放すと消えて、手を振れば出てくる、出し入れ簡単で良かった、この世は効率化が流行、と大きく息を吐き出す。ウィッピンは怪や奇怪病の効果を無効化したりコントロールしたりするが、怪や奇怪病の美学が、睦千の美学より堅牢な意志で存在している場合、ウィッピンで打ち払えない事もある。

「睦千ぃ!」

 そして、ゲラゲラと青日が笑い出す。他人事みたいに笑ってんじゃねえ相棒だろう? と膝裏に軽く蹴りを入れる。

「いったあ。いいじゃん、ウィッピンが使えなくて驚いている睦千可愛かったからさー」

「じゃあ、ダーリンは対処できるの?」

「ハニーが分からない事、おれが分かるわけないじゃん!」

 青日の言葉は獣の咆哮にかき消される。

「青日隣にいても全然平気じゃない!」

 睦千は涙目で笑う青日を引っ張りながら、獣から距離をとる。

「ねえ! 虎と豹って青色認識するかな?」

 豹は眠そうに姿勢を低くする、昼寝の時間か、そのままねんねしてほしい。虎の方は顔が痒いのか毛繕いを始めていた、お待たせしております、そのままお帰りになってもいいけれど。

「知らない! 調べてないし!」

「じゃあ、ダメ元だあ!」

 校舎や地面がザっとさざめくように青色へ変化する。2匹は特に変わった様子もなく、2人の動きを観察するように見ている、いつからここは密林になり、いつから人類は野性を忘れた、獣とやりあった事はないな、獣みたいに走ってきたおっさんは昔、投げ飛ばしたっけ? と睦千はウィッピンを握り締める。

「やばいね、おれ達ここまでかな?」

「現代日本で虎と豹に殺されるなんて、贅沢かもよ」

「うわあ、理想の死に方にほど遠い」

「青日の理想は?」

「んー考え中。あとで教えるね」

「そうね、100年後に教えて」

 睦千は獣を睨んだまま、魔法少女へ向かってウィッピンを伸ばした。不意を突かれた彼女のステッキにウィッピンがきちりと絡みつく。

「ねえ、世界平和を守っているんだったら、ちょっとお話聞かせてくれるか、この状況どうにかしてほしいな。ボク達死ぬ気がないの、分かったでしょ」

 ウィッピンをぐっと引いて、ステッキを手元まで手繰り寄せる。

「睦千ってば、悪趣味だよね」

 青日が青色を収めて、頭の後ろで腕を組んで苦笑した。

「悪趣味じゃない、確認だよ」

 得意そうに睦千は青日にステッキを渡した。

「返して!」

 可愛らしい声が聞こえた、が、2人は顔を見合わせ、それからまた声の主の方を見た。

「少年だ!」

 青日がステッキを放り投げるように喜んだ。

「あ! やばっ、喋っちゃった!」

 彼女、否、『彼』は口を手で押さえた。心なしか、肩に乗っていたぬいぐるみがぐたりと脱力した気すらする。

「じゃあ、魔法少女、改め、魔法少年。この虎さんと豹さん、どうにかしてほしいな」

 彼はぶんぶんと顔を振って、パンっと頬を叩いて表情を引き締めると、凛とした声で語りかけてくる。

「……あなた達は、何が目的なんですか? なんで、不幸を作りだしているんですか!」

 青日の手の中でステッキが意思を持つように、くねくねりと震え始め、ぴょんと手からすり抜け、魔法少年の方へ飛んでいく。

「うわあ! 魔法だ! ザ・魔法だ! これぞマジカルってやつだよ、睦千!」

「本当だ、なんか、そういうアニメみたい」

「素敵なステッキってやつじゃない?」

「青日、ちょっとつまらない」

「うそ、この場面以外にどこで言うのさ!」

「ねえ! ちょっと! なんで緩い会話が始まっているの!」

 ステッキを手にした魔法少年が地団駄を踏み、2人に向かって叫んだ。

「どうしてって言われても……」

「俺達の会話に理由を探す方が難しいよ」

 もう! という怒りの声は、呆れたような獣達の鳴き声に紛れる。

「本当に、ハッピーじゃない!」

 魔法少年はステッキを構え、虎と豹に向かった。そして、彼の肩のぬいぐるみの手が持ち上がり、くるりと宙に円を描き、そして、口を開いた。

「白うさぎの穴へようこそ、何でもない日をお祝いしましょう!」

「喋った! おれ、初めて見た! 睦千は!」

「ああいう怪は見た事ある」

「じゃあ、そういうものかあ」

 話している間に2人の足元が変化していく。土が敷き詰められた校庭がクッキーへ、宙にティーカップが浮き、同じように宙に浮かんだティーポットから紅茶が注がれた。ケーキに足が生え行進をし、2匹の獣は縮んで、虎は宙に浮かぶ長椅子に寝そべり、豹はプスプスと寝息を立て始める。空の色も青から桃色へと変わり、雲は綿菓子のようにパステルカラーに染められ、空気が甘く香り出す。

「不思議の国のアリス……なら、魔法少年は、アリスかな」

 睦千が答え合わせだと、八重歯を見せつけるように笑う。

「それは、どうかしら」

 少女らしい声が聞こえた。怪か奇怪病か、どちらかと2人は僅かに身構える。ぬいぐるみはゆったりと魔法少年の肩の上で、睦千に反論を始める。

「アリスに不思議な力があるとお思いかしら?」

「さあね? あれはアリス・リデルに聞かせた話が基になっているから。ルイス・キャロルの中では彼女は特別な女の子だったから意外と使えるかもね」

 足元からキノコが生え始める。青日がふとそのキノコを蹴るとボヨンと身体が宙に浮いた。うわ、と青日はバタバタと手足で宙をかく。

「青日、どっか行かないで」

 睦千はウィッピンを取り出し、青日に巻き付けて地面に下した。

「キノコを蹴ったら浮いた。不思議の国になっているよ、ここ」

「もしくは夢の中か」

 睦千は自分の掌を軽くつねる、ちゃんと痛い。

「……現実」

「そうだよ、ここは現実。現実に作り出された不思議の国。そして、君達は倒されなくちゃいけない怪物だ」

 魔法少年が勇ましくステッキを構えた。

「おれさー思うんだけど、これ、雲を食べたいって言う幼少期の夢叶うんじゃないかな。あの雲、食べれるやつだよ、絶対」

「奇遇だね、ボクも思っていた」

「呑気に会話しないでよ! 出でよ! トランプ兵!」

 魔法少年が頬を膨らませる、申し訳ない、緊張感がないのが売りなもんで。彼は、赤い頬のままステッキを振り上げた。星がきらりと光り、そこからトランプカードがバラバサバラバサと音を立てて現れた。ファンタジー! と2人は心の中で叫んだ、ファンタジー!

「夢からの脱出」

 睦千がにやりと笑う。

「脱出?」

「アリスのラストシーン。彼女はトランプ兵に追い駆けられて、夢から覚める」

 ウィッピンでトランプを叩き落としながら睦千は言い放つ。

「つまりおれ達も今追い出されようとしているって事?」

「さあね。トランプに飲まれて、改心して目が覚めるのかも」

「これで眠らされたら、おれ達はアリスみたいに夢から追い出されたって錯覚する?」

「多分ね」

「それって駄目だよ! おれ達、これが現実って認識しないでやっぱり夢の中でしか現れないとか、決めちゃうかもしれないって事でしょ」

「それで、この子達はそれを利用して逃げている。ボク達はこれが現実だという認識を持ってここから帰らないといけない。さて、魔法少年達。ボクは君達と話したいだけ。だから、ちょっと落ち着いてほしい」

 睦千はニイと笑うと、思い切りウィッピンを振りかぶり、くつろいでいた白い虎と眠っていた青い豹を打った。豹がゆっくりと目を開ける。虎の方は不機嫌そうにウィッピンの先を睨んでいる。豹がティーカップの中で顔を上げ、ガウと小さく吠える。睦千はおまけね、とまた豹を打ち、虎にもついでに一発。虎はグルルルと唸り、豹は苛立ったように周囲を見渡して、睦千達へ視線を向ける。

「うわあ、睦千ってば、やっぱりジャングルで死にたかった人?」

「ありえない死に方したいけどね。でも、ちょっとしたギャンブル」

「おれは手伝わないよ、死にたくないし」

「青日、ここぞって時に最大出力」

 睦千はこそりと呟くと、バッと逃げ出した。青日も睦千とは反対方向へ駆け出す。その瞬間、2匹の獣が地面へと降り立った。睦千は2匹の獣から逃げながら、時折ウィッピンで注意を引き、逃げる隙を作り出し続けていた。

「君達に訊きたい! 悪者を一方的に排除して消す事が本当に幸せだと考える?」

 僅かに魔法少年の眉が寄せられた。しかし、それを振り切るようにステッキを振った。トランプや星が飛び散っている光線が放たれる。

「悪者には悪者の幸福論があって、それは君達が言うところの不幸論。ボク達は不幸を作り出しているつもりは一切ない。必要な情報を流したに過ぎない。何の為か考えた事ある?」

 睦千は横暴な理論で少年を追い詰める、青日はそれをにやにやと聞いていた。

「それは言い訳だ! 誰かを悲しませる人を作る事を俺達は許さない!」

「盗人がいたとして、そいつは貧しい家族のために盗みを繰り返していた。そいつが捕まって殺されて町中が喜んだ。家族は泣いていたけども、盗人は殺されるべきだったと思う?」

 魔法少年の手が止まる。

「これくらいで動きを止めちゃ、君達の幸福論は実現しないな」

「そいつの話を聞かないで!」

 ぬいぐるみが叫ぶが、顔を赤くした魔法少年はなりふり構わず、睦千の方へ向かって来る。虎も豹も睦千の姿を捉えて跳躍した。

 多分、今がここぞって時だ。何色がいいかな、折角だから、ずんと重苦しい濃紺にしておこう。クッキーみたいな地面を抉るように力強く立つ。夜の海が、深海が、場を支配した。睦千はウィッピンを取り出し、素早く虎と豹を打ち払った。美学に揺らぎが出た今なら、と力一杯振り切ったウィッピンは2匹を一文字に切り裂いた。2匹はぎゃう、と間抜けな声と共に霞と消えた。そして霞の奥から飛び出してきた魔法少年のステッキを手で握り止めた。

「お前達に俺達の幸福も正義も分からない!」

 睦千はやれやれと話し始める。例えば、これが日曜の朝に放映されているアニメとかなら、ボクは彼らが説く幸福に感動し、心を入れ替えるのだろうが、今、ここは、現実だ。だからボクも青日も簡単に心を入れ替える事はしない。だってボク達は何一つ納得していないから。普通の正しさを受け入れるにはちょっと悩み過ぎた半生なわけで。

「……君達の幸福論を、君達の理想、もしくは悩みと言い換えて」

 青日はじっと場を眺めた。睦千は青い世界の中で、いつもと同じように立っている。その瞳がゆらりと色を変えて、声音がどろりと飴が溶けるような甘く、誘惑に満ちたものに変わる。幼気な少年を口説こうなんて、と青日は口を手で覆った。後で付きまとわれたり狂信されたり面倒な事になると分かっていながら、やっぱり顔と都合のいい言葉で説得するのが1番簡単で早いとやけくそになっている睦千は何度見ても面白い。

「ボクは君達の助けになれるよ」

 甘すぎる言葉と、弱気にさせる青の世界。これに抗える人間を2人は知らない。

「……俺は!」

 魔法少年が睦千を振り切るように、距離を取った。

「俺は可愛い女の子に世界を救ってほしいの! お姉さん? は、ちょっとタイプじゃない! こんな終わり方で妥協したくない!」

 なるほど、若いとは素晴らしい。

「睦千を振る子なんて初めて見た……!」

「青日の奇怪病を振り切れるのもね」

 青日と睦千は顔を見合わせてゲラゲラと笑い出した。

「はーボク、お姉さんでもお兄さんでもないよ、白川睦千。睦千って呼んで」

 校庭はすっかり元の至って一般的なグラウンドに戻っている。

「でも、君達の助けになれる。具体的には、福薬會へのお誘い」

 魔法少年は疑うように2人を見る。本日の服装は怪しくないはずだ。

「君達が誰かを幸せにしたいって言うのだったら、福薬會がいい。こっそり活動して、建物を壊して誰かを困らせるっていう事はなくなるしね」

 睦千は肩をすくめて微笑む、少々わざとらしい仕草だ。魔法少年も、肩のぬいぐるみも何も言わず、口を固く結ぶ。

「君達だけで迷わなくてもいいって事だよ」

 青日が補足すると、ぬいぐるみが地面に降り立った。降り立った足元から、光が溢れ、少年とぬいぐるみを包み込んだ。

「……、おはよう」

 ぬいぐるみが呟くと、魔法少年はふらりと倒れ煙のようにその場から消えた。それと同時にぬいぐるみが少女の姿へと変わった。第三高校の制服を着た利発そうな少女である。

「君、前、じんもさんの話を聞いた子だね。青日が1番最初に話し掛けた子」

「よく覚えているね、睦千」

「一際警戒心が強かったからね」

「……栗村知夜くりむらちやです。さっきのは同じクラスの星野花房ほしのはなぶさです。第三高校の1年です」

「それで、君達が一連の怪騒ぎの犯人?」

 そうです、と知夜は2人を睨み付けるように言った。

「何か理由があってこんな事したんだよね、ちょっとおれ達に教えてくれないかな?」

 知夜は迷ったように口を固く結んでいたが、青日がじっとその口元を見ている事に気付き、観念したように話し始めた。

「わたしの奇怪病は『御伽話恐怖症』です。御伽話のような、不思議な力を使えます。モチーフとなった御伽話を嫌うほど、不思議な力は強くなる、そういうものです。わたしは、御伽話が嫌いです。嫌いなのに、わたしの奇怪病は御伽話そのものなんです、笑えますね。……花くんは奇怪病者ではないです。ですが、わたしの奇怪病が発症した時に近くにいて、わたし、突然の事で何も分からなくて、パニックになって、全部全部不幸になればいいって思ってしまって……花くんを呪ってしまったんです」

 知夜の脳内にその放課後が再生される。場所は生物室、嫌いな御伽話みたいに、ビーカーが綺麗なガラスの靴に変わって、人体模型が踊り始めて、床や壁がクッキーに変わる。嫌! 最悪! 現実に御伽話みたいなハッピーエンドは用意されないのに! 小さい頃に散々そんな話ばかり与えて今更夢を見るなと言うの! こんな奇怪病あってもなんにもならないのに! ああ、もういい、みんなみんな不幸になればいい、御伽話なんてないんだって絶望すればいい!

「知夜ーここにいたの。もう帰ろうよー」

 それが花房の声だと気付いた時にはもう遅かった。

「魔女みたいに?」

「はい。悪い魔女みたいに。怪に襲われ続ける呪いです。わたし、解き方が分からなくて……でも、その事を花くんに言えなかった! だから、わたしは花くんを『アリス』にして、怪を追い払っているんです」

 青日が右手を挙げて質問! と声を上げた。

「なんで福薬會に相談しなかったの? 奇怪病が発症したら登録とかしなくちゃいけない事は知っていたよね?」

「だって、わたしはこの奇怪病を使って何かしたいわけでもないし、認めたくなかった」

「うーん、それは困るな」

「それならなんでボクらに名乗った? 黙って逃げれば良かった。それをしなかったのは」

 知夜がうるさい! と叫ぶが睦千はどこ吹く風かと言葉にした。

「助けてほしかった。ボクはそう思うけど、どう?」

「おれ達は君も花くんも助けられるよ。奇怪病者のための福薬會だもん」

「花くんにあなたを呪ったと馬鹿正直に言えって言うんですか!」

 知夜は睦千を睨んだ。睦千は相変わらず淡々と告げる。

「言いたいんだったら言えばいいし、言いたくなかったら黙っていればいい」

 先程までとうって変わって、知夜はぽっかりと口を開けて睦千を見た。

「言って身軽になりたいんだったらそうすればいい。言いたくないんだったら罪悪感ごと抱える覚悟を持ちなよ。罪悪感も罪も君のものだ。君の責任で、君の大切な人だ。ボクらにはどうしようもできないよ。ただ、君が花くんを守りたいんだったら福薬會を頼るべきだった。少なくとも君より奇怪病に詳しいんだからさ」

「でも、知られて嫌われたくなんてない!」

 知夜は俯いて叫び、睦千はあらまあ、と言いたげな表情で言う。

「はー若いなぁ……だから黙って上手くやればいい、ボクみたいにね」

「そうそう、睦千はおれに奇怪病の事何も教えてないよ」

 驚いたように知夜が顔を上げる。睦千はそうね、と面倒だという態度で話す。

「ボクは奇怪病の詳細を知られると都合が悪いから黙っている。青日もいい子だから何も訊かないでいてくれるし」

「わーい、睦千に褒められた!」

「……それで、信頼は築けるんですか?」

 知夜は2人を射殺すような視線で見つめ、問う。

「さあね。でも、ボクと青日は上手くやっているよ。でも、これはあくまでボクの意見。君が知ってもらいたいって言うんだったら、今すぐ花房くんのところに行くべき」

 それに、と付け加える。

「ボクと青日は特別な仲良しじゃない。青日はボクがいないと病院から出られなかっただけだし、ボクも自分の奇怪病を安定させるために相棒が欲しかった。互いに都合がいいから、相棒になったってだけ。常に一緒にいるわけだから、楽しく過ごしたいと思って、互いに心地いい会話のテンポだとか生活を見つけたってだけ。つまり、関係を長く保つために互いに干渉しないようにしているって事」

「だから上手くいってんだよね、おれ達。ナイス・フィーリング!」

「それが信頼関係なんですか?」

「さあ? でも、青日に命は預けられないし、青日の命を預かりたくない」

「同意だね。おれも自分でどうにかするし、睦千も自分でどうにかしてーって思う」

 納得したように頷く青日を、知夜はありえないと目で訴えた。

「……それでも、相棒なんですか? 大切な相棒じゃないんですか? 相棒として大切なら命を守りたいって思うんじゃないんですか? 相棒以前に、それはお互いに相手の事を嫌いって事じゃないんですか?」

「ボクらはねえ」

 知夜の正義感に満ちた瞳を覗き込む。羨ましいけど、ああ、やっぱり嫌いだな、こういう真っ当な瞳。正しい事は1つだけっていう瞳だ。それをボクは笑ってやった。

「愛っていうやつはくそったれって思っているんだ」

 隣で青日がにやりと笑った。

「これまで色々思うところがあって、愛っていう言葉が信用ならないと思っているんだ。ボクらはこれが当たり前って思っているけど、まあ、一般的に見て異物。普通じゃない八龍の中で普通じゃない人間なんだ。だから、2人で喧嘩を売る。愛は全部正しいっていう顔で存在しているのが腹立たしい、だから、分解してその中に混じっている不純物を見せびらかしてやりたいんだ。その愛には支配や交渉、下心が含まれていませんか? ってね。そういう都合の悪いものを覆い隠すための便利な言葉だよ、愛って。それよりだったら単純なの方がよっぽど良い。つまりね、ボクと青日は都合がいいこの関係が単純にで自慢なんだ」

「おれもー。だからこの関係を守るためなら死なない程度に頑張るだけ」

 知夜はむっとした表情で言い返す。

「それの何が愛じゃないんですか?」

「青日はボクの嫌な事をしてこないし、ボクは青日の奇怪病をコントロールできる。でも、これって誰でもいいわけ。たまたま出会って一緒にいて楽しかったから今も一緒にいる。単純明快、効率的で論理的。君が思うような立派で愛とか何とかに満たされた関係じゃない、何度も言わせないでくれると嬉しいんだけど」

「……意味が分からない」

「意味が分からなくていいんだよ、それが幸福ってやつ」

 でもボクは決して不幸ではない。ボクが幸福だと言うから幸福なわけで、幸せっていうやつは誰かに与えられるものじゃない。自分の内から湧き出るものだ。だから、よくプロポーズで幸せにします、と言うセリフがあるが、あれは傲慢だと常々思っている。誰かが決めた幸せなんて、ボクは絶対受け取りたくない。同じようにボクが誰かを、例えば青日を幸せにできるとは思えない。喜ばせる事はできても、それが幸せなのかは青日しか知らないし、青日は素直だから幸せなら幸せと言ってくれる。こんなところもナイス・フィーリングなのだ。

 知夜はお辞儀をした。上げた顔は随分と怒ったように眉を顰めていたが、吹っ切れたように晴れやかだった。

「奇怪病の事、ちゃんと言います。呪いの事も。それに、花くんは馬鹿だから、わたしの想像を超えるような事思い付くかもしれないので」

「馬鹿なの、花房くん」

「馬鹿です。能天気でお人好しなんです。わたしが見ていた花くんを信じてみようと思います。睦千センパイみたいな大人になりたくないんで」

 嫌味のような『センパイ』に睦千はアハ、と笑う。気に入った。

「ボクに相談しなくても、君は結局言いたくてしようがなかっただけだと思うよ。でも、面白かったから、また相談してもいいよ」

「睦千に言いにくかったらおれでもいいよー」

「相談しないので。お気遣いありがとうございます」

「ああ、それと、もし、魔法のキスができる覚悟が決まったら、実行すればいい。呪いが解けるんじゃないかな、分かんないけど」

 知夜は溜息交じりに手をパンパンと2回叩いた。その手から光が拡がり、2人を包み込み、何も見えなくなる。強い光に、きつく目を閉じ、瞼の向こうから光の気配が消えたのを感じてから、睦千は目を開いた。

「……あれ?」

 立っていたのは、第三高校の校庭でなく学び舎町の入口の坂だった。睦千は腕時計を見て、目を見開き、それからスマートフォンを取り出し、まず時間を確認する。初太郎に電話を掛けたのは14時58分だった。今はちょうど、15時、通話記録も残っていない。スマートフォンの画面を青日に見せると、青日も嘘! と声を上げた。

「何も残っていない。10分は豹と虎と遊んでいたと思ったのに」

「あの子達も夢だったとかはないよね?」

「さあね。とりあえずは信じて待ってみよう。それより。お腹減った。猫の目撃情報待ちながら、どこかで休憩しよう」

「そうだねああ!」

 明らかに青日の言葉が肯定から驚愕に変わる。

「猫!」

 青日が指差す先に、呑気に毛繕いをしている猫がいた。睦千も、は、と心底驚いた顔と声をしている。タイミングがいいのか、いや、今まで夢の中にいたから時間間隔が狂っている。

「なんだっけ、名前……おこめー」

 猫が睦千の声に反応して顔を向ける。

「おこめじゃないよ、えっと、おやきじゃなくて」

「おもち?」

「あー違う、睦千違う、食べ物じゃなくて、おゆき! おゆきだ!」

 青日が猫の名前を呼ぶと、嫌そうに唸りながら猫は立ち上がり、駆け出した。

「逃げた!」

 青日が叫び、2人ほぼ同時に走り出す。2人のスニーカーがきゅと音を鳴らした。猫は積まれた箱に飛び乗り、巨匠館87号館の中に入り込んだ。

「中入った! めんどくさ!」

「青日は外から追い駆けて!」

 睦千は開いていた窓から中に入る。誰だ! と怒鳴られる声が聞こえたが、後で睦千が自分でどうにかしてほしい。

 猫は住民にドアを開けてもらい、また外に出てくる。先程歩き回った89号館の路地だ。

「おゆきー」

 名前を呼ぶと、知らんふりで人通りが多い南北通りの方へ向かって行った。南北通りの突き当り、87号館の向かいがトラムの停車場だった事を思い出して慌てる。この猫、トラムに乗って移動できる。猫、猫だよね、中に小さい人間入っていない?

 しかし、猫は南北通りを横切り、トラムの線路に沿って、畑に面した地区へ歩いて行く。青日も負けじと追い駆けると、睦千が後ろから追いついてきた。

「85号館とか86号館の方」

 睦千が提示した辺りは通路が上下に入り組んでいる。橋かと思ったら通路の下を通っている、坂を上ったつもりがいつの間にか地下へ、と迷いやすい道だ。

「あの猫、賢すぎでしょ」

「度胸があるだけ」

 猫を再び見失って、青日と睦千は分かれて猫を探す。

「あー、今日はちょっとツイていないかなー。無能組の本領発揮ってやつ」

 青日は独り言を呟きながら、陽の光が入らない半地下の通路を歩く。所々、電灯が灯されているが、点滅していたり壊れていたり、ほとんど役に立っていない。上には通路、どこに繋がっていたっけ。湿気に髪の毛がうようよとうずき始めてきた気がして髪を両手で抑える。

 店員に頼まれた時は、なるべくなら見つけてあげたいと思っていた。飼い猫が野良で生きていけるわけがないし、空間は限られるけども毎日のあったかい寝床と確実な食事がある、蝶よ花よと可愛がられて、あの場所は猫のための王国で人間なんて召使だ、猫こそ至高、出ていくにはもったいない場所だ。だけど、ここまで逃げて、堂々と町を歩くのなら、意外とここでも生きていけるのかもしれないし、悠々自適に町を自分の庭にする方が幸せなら、このまま手ぶらで店に行った方がいいのかもしれない。青日は、分からなくなってきていた。

 もういいか、この道にいなかったら手ぶらで帰ろう、と角を曲がった。曲がったその足元、白猫が金色の瞳を見開いて、青日の顔を見上げていた。右前足は一歩踏み出す途中だったようで、宙に固定されている。青日は咄嗟に手を伸ばし、胴体を抱き抱えた。抵抗もせず、猫は青日の腕の中に収まった。

「おうちに帰ってもいい?」

 猫に問い掛けると、みゃあん、と可愛らしい返事が返って来た。

「冒険は十分かな」

 帰り道を探して歩みを進める。すると、突然、腕の中の猫が不満げに唸り始めた。

「ありゃ、お腹減った? もうちょっと待ってね、すぐおうち着くから」

 青日の足元で水が跳ねる。水溜まりがあった、2日連続、と青日は顔を顰めた。その腕の一瞬の緩みを感じ取った猫はにゅるりと青日の腕から飛び出して、路地の奥へと走り去る。

「あいつ!」

 青日が駆け出したその一歩目、その爪先が何かにつまずいた。そしてそのまま地面に倒れた。膝から下が何かの上に乗り上げている。それなりの大きさのものにつまずいたようだ。青日はひりつく掌から土を払いながら、何かから足を下ろす。

 ぴちち、と絶妙なタイミングで街灯が復活した。明るくなった道で、青日はつまずいた物の正体に気付く。

「あー……電波入っているかな。ここ」

 青日がつまずいたもの、それは妙齢の女性だった。それが、ずぶ濡れで道に落ちている。目立った外傷はないけれども、青ざめて膨らんだ肌はどう考えても死んでいる。

「……電波入っているや、良かったー」

 青日はスマートフォンの画面を確認して、電話のアイコンをタップした。



【5月7日 晴れ 本日のトピック:八百屋やっちゃん曰く「毎月7日は茄子の日」】

 噂の後始末やなんだかんだと走り回り、猫や死体、この死体については因縁が深いが、これもまた後述、ともあれ色々と忘れた頃、睦千と青日は奈子に呼び出され福薬會本部にいた。

「先日の魔法少女の件の栗村知夜さんと星野花房くんについてです」

 ミーティングルームに入り、席に着くと奈子は穏やかな声音で話し始めた。

「星野花房くんですが確かに怪に取り憑りつかれています。知夜さんのお話通りなら、知夜さんの奇怪病が基になった怪が取り憑いている事になります。呪方に浄化を依頼しましたが、全く浄化されませんでした。呪方の見立てでは、特定の方法、決まった手順、つまりは条件がクリアできないと祓えないのではないかという事でした」

「やっぱりキッスじゃなあい?」

 キャッと青日がおどけて言うと、それが、と奈子が苦笑いで答えた。

「もう試したそうです。結果はダメでした」

「……あらま……現実とは無情……睦千が変な事言うから……」

「ボクのせいとは心外。ちょっとしたジョーク……御伽話ならそうだと思ったのに」

「それでですね、その見立てを本人にお話ししたところ、『ハッピーエンド症候群』と言う言葉が出てきました」

「ハッピーエンド症候群?」

 睦千が訊き返すと、困ったように奈子が説明を続ける。

「花房くん曰く、怪を引き寄せて、出会った怪はみんなハッピーエンドに向かうそうです」

「もしかして、怪を奇怪病と言う事で栗村知夜の罪悪感を取り除こうって考えた? 呪いなんてものはなくて、奇怪病がたまたま発症しただけで、怪の呪いじゃないって?」

 睦千が言うと、そうです、と奈子は答えた。

「まあいい感じにまとまったんじゃない。力技だけど」

「ねー。めでたしめでたし」

 青日がペチペチと嬉しそうに拍手をしていると、ドアが軽くノックされる。奈子がどうぞ、と声を掛けると知夜と花房が恐る恐ると言う雰囲気で顔を見せた。

「夢じゃなかった」

「そうだね、睦千。こんにちはー、お二人さん、元気?」

「元気です!」

 花房がパッと表情を明るくして青日に駆け寄る。

「あの、この間はごめんなさい。俺達、これから福薬會で調査方兼呪方として、お手伝いしますのでよろしくお願いします!」

 魔法少女の恰好でないが、花房の顔はまるで少女のように愛らしい。全体的に色素が薄く、紅茶色の髪は癖毛であちこちには跳ね、どんぐりのような瞳に桜色の唇、頬も薄く赤みが差して、フリルとリボンが似合いそうな顔立ちだ。

「何かあったらおれ達に相談してね。解決はお約束しないけど、相談する事が大事だよ」

 青日と楽しそうに話し始める花房から視線を外した知夜は、センパイ、と不機嫌そうな声で睦千を呼んだ。

「ちょっと、外で話しませんか?」

 その挑発的な言葉に睦千はにっこり笑って立ち上がる。

「いーよ」

 睦千は知夜を連れて屋上まで行く。ご要望通り、外である。スカッと晴れているから今日の青日はご機嫌だ。この後はどこ行こうかな、どこでもいいけれども。

「花くんの事、聞きましたか?」

 勝ち誇ったように知夜が言う。睦千は聞いたよ、と答えた。

「確かに怪も奇怪病も根本は同じものだと考えられるものね」

「本当の事を言っても信頼関係があれば、平気なんです……花くんが平気にしてくれました」

「そうね。君達はそうだった」

 睦千は若いわ、と思いながらジャケットのポケットに入れていたロリポップを取り出し、口の中に入れた。ストロベリーミルクのフレーバーだ。

「わたし、センパイ達の考え方が嫌いです。現実にはなんでも解決できる魔法なんてないから、人の愛くらい信じていないと、この世は、クソです」

「別に君の考えを否定したいわけじゃないよ。愛が支配とか下心だけのものじゃないって分かっている。でも、誰かの愛を素直に信じられるような人生じゃなかっただけだよ、ボクは。君達は純粋な愛情で関係を築けた、だから、君達が思うまま、そのままで生きていけばいい」

 知夜はじっと睦千の顔を見ていたが、睦千が我関せずと飴を舐めていると、知夜は溜息を一つ吐き出し、センパイ、と呼んだ。

「わたしは、花くんに取り憑りついたわたしの怪を祓います。花くんが、花くんを呪ったわたしにハッピーエンドの道をくれたんです、わたしはそれに報いたい。わたしは、花くんの物語をハッピーエンドにします。2人で、めでたしめでたしって、言います」

 言い切ると知夜はパタパタと走り去っていった。睦千は暫く、柵にもたれながら空を眺め、ロリポップを噛み砕いた。ストロベリーの甘酸っぱい味が、今日は少し不愉快だった。




 部屋に残された青日は花房と2人の帰りを待っていた。奈子はつい先程、退室していったので、正真正銘2人だけだ。

「知夜、あんまり奇怪病の事言わないんです」

「睦千も奇怪病の事言わないよ」

「おれは、知夜の事、全部知りたいなって思うのに……黙っているって普通ですか?」

「いいや。変だよ。奇怪病によってはタブーがあるし、おれ達みたいに組んでいるなら、なおさら把握しておかないと危険だろうね」

「訊いた事ないんですか?」

「睦千が訊くなって言うから」

「一緒にいても分からないんですか?」

「知ろうとしなきゃ分からないよ。おれ、これでも危険な奇怪病者だから睦千との同居が退院、あ、おれ、発症してから危険すぎて病院生活だったんだけど、睦千が同居で監督する事を条件に退院できたのね。同居しているけど、あんまり睦千の事知らないよ。日常生活が楽しく過ごせる程度くらい? 睦千の性別知らないし」

 青日は、睦千ほど複雑怪奇に捉えてはいないが、基本的に睦千の意見に賛成だ、愛はくそったれ。青日は、睦千にとって『愛』とは重荷でしかないと知っている。そもそも睦千は、愛が利害を超え得るものだと信じていない。例えば睦千の事を愛していると言う人が現れたとして、それが無償の愛だと睦千は信じていない。何か求められていると駆け引きを始める。これは他人に限った事でなく、実の両親にとってもそうだと青日は認識している。更に付け加えると、睦千の両親は多少変わったところがあるが、普通の子を愛する親だ。その愛すら、睦千にとっては世間体だとか老後の安心のためだとか思考の死んだ一般論だとか、散々な言いようになる。それでも家族仲は悪くないのが不思議だし、ほんとの愛ってやつなのかもね、と青日は勝手に思っている。

 睦千がここまで愛に対して捻くれた視点を持つようになった経緯はなんとなく、多分、睦千の外見のせいだろうと予想している。睦千は良くも悪くも他者を惹き付ける。惹き付けられた人は、睦千の刺激的で甘やかな言葉に翻弄されて、睦千の思考のとりこになる。「恋なんて必要ない、愛はくそったれ」と言う睦千に「初めての恋や真実の愛を教えてあげる」と言い出すのだ。ここに男も女も老いも若いも関係ない、睦千が何であろうと構わないと、手に入れたいと願う奴らが多い。そして、そんな奴らはどうしてか、睦千を支配下に置きたがる。つまり、そこにある愛とは、貴重なアクセサリーや高難度のパズルや珍しい蝶の標本に対する愛と差がなく、恋愛感情なんていう支配欲までおまけについてきている空虚なものだ。青日はそのような感情を一身に受けた事はないから、それがどれほどおぞましいかは分からないが、「普通に生きているだけで無駄に好かれて無駄に嫌われる」と、かつてぼやいた睦千の自嘲した情けない表情は、悪い意味で忘れられない。疲れ切って光がない目と、引き攣った頬と、諦めたように震えた唇、あんな顔、2度と見たいものか。青日の相棒はいつだって自信満々な表情でいてほしい、そっちの方が睦千らしいから。

 青日は、睦千は睦千であればそれいいとしか思っていない。たとえ、睦千の顔がのっぺらぼうになったとしても青日は一向に構わないし、『あいうえお』が分からないくらいのお馬鹿さんになっても相棒であり続ける。青日が睦千に望むのは、ただ1つ。青日の奇怪病に抗い続ける事。青日の奇怪病を受け入れ、死のうとする事を、青日は許さない。簡単に言えば、生きてくれればそれでいい。青日はそれだけで満足だ。

「それでいいの?」

「うん。睦千もそうだし。おれ達、ある意味相性ぴったしなんだよ」

「変なの。俺は知夜の事、本当に大好きだからたくさん知りたいのに」

「恋ってやつ?」

 青日が尋ねると、花房は顔を赤らめて頷いた。

「大人って、全部知りたがらないものなの?」

「おれはおれ、花房くんは花房くん。大人とか子供とか関係ないよ。君がそう思うなら、そのままでいいんじゃない?」

「……そんなもん?」

「そんなもの」

 青日はけらけらと笑った。純粋だなと眩しく思う。

「花くん。もう帰ろう」

 知夜が顔を出し、花房が嬉しそうに立ち上がる。花くん、と呼ばれて、先程までの不安そうな表情を笑顔に変えた花房と、微笑まれて嬉しそうに笑う知夜。存外、キスで呪いは解けているのかもしれない。花房が知夜の事を本気で好きだと、知夜本人が信じていないせいで怪がまた引っ付いただけなのか、はたまた花房が知夜を手放したくなくて怪を引き留めて奇怪病という事にしたのか、それともどれも見当はずれなのか。ともあれ、なんていう、まあ、なんて、ありふれて幸せな人間関係。

 でも、青日は羨ましいとは思わない。昔は『普通』になりたかったけど、今は普通じゃなくて良かったと思う。ありふれた感情と言葉で簡単に幸福を感じられるなら、睦千と出会ってすらいなかった。それはちょっと嫌だな、と青日は考える。睦千と出会ってから、毎日が楽しいし、自分の事が好きになれた。冗談抜きで世界で一番睦千が好きだ。

「全く、恋も愛も分からないな」

「そうだね」

 うわ、と驚く。独り言に返事があるとは思わなかった。いつの間にか戻って来た睦千が満足そうに笑っている。不満を隠さず、遅かったね、と文句を言うと、睦千はにやりと笑って、

「靴紐がやけにほどけたものでね」

 と言った。それはしょうがないね、と青日は睦千の足元を見て、睦千と同じように笑って立ち上がる。そして、カツコンと音を立て先行くシンプルな白いヒールの足音を追い駆けた。

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