第4話 閑話・日曜日の二人
【5月のとある日曜日】
日曜日はいつでも特別だ。
今朝はやけに早く目が覚めた。部屋の中はまだ薄暗かったけれども、二度寝をする気分にはなれなくて起き上がった。適当なシャツとパンツに着替えて、顔を洗って鏡を見る。そうすると、頭の中の青日がひょっこりと顔を出す。
「今日も睦千の顔は最強だね!」
青日はまだ起きていないからボクのただの妄想だ。その脳内の青日にそうでしょうと声を掛けて、部屋を出た。
巨匠館67号館704号室がボク達の部屋だ。地上7階建て、地下3階建て、1階にはラーメン屋とストリートピアノとサボテン専門店、地下はスナックが2店舗入っている。エレベーターがいつも故障中のせいで、7階まで階段で上るか隣の68号館の屋上から67号館の屋上へ移動するしかない。だから、家賃が安いと名高い巨匠館地区でも破格の格安物件だ。広い上に角部屋、空が広く見える大きな南向きの窓、青日はこの窓を気に入っているけれども、ボクがウィッピンを使って出入りをすると、窓は玄関じゃないって怒る。
今朝はちゃんと玄関から出たボクは廊下の端の階段に向かう。いつもなら隣のエレベーターか窓とか、楽な方法で外に出るけれども、日曜日だけは楽をする気になれなくて、外になんとかへばりついているような錆びた階段をゆったりと降りる。朝の空気はまだ冷え切っていて、生活の香りが薄い。ざわつき、忙しない街の清浄な静寂、その贅沢な空気を吸い込んだ。
今日は、晴れ。空が見える。空は薄く色づいて、ガラス細工みたいに透明。雲はなくて、遠くで細い三日月が憎たらしげに空に残っている。一つずつ、頭の中で確認しながら、ゆったりと、だけれども軽快に階段を下りた。くたくたになったクリーム色のスニーカーは間抜けなゴムの音をさせて、鉄階段を鳴らす。一度はミントグリーンに塗られた階段の塗装が必死にしがみつくように手すりや鉄パイプに残っている。綺麗な場所はこの街にも確かに存在しているけれども、このどうしようもなくとり残されている寂しさに安心する。
時間をかけて地面に降り立った。通りには誰もいない。適当に鼻歌を歌いながら、静寂の街を行く。何の音楽だっけと立ち止まって、ああ、そうだ青日が歌っていたんだと納得してまた歩き出す。67号館から出て左へ向かって歩いて3分、見えた角を曲がって、また次の角を曲がったところに、小さなパン屋がある。朝早くからパンを焼き始めるそこは、青日が気に入っている店の1つだ。
外装は、古い街並みに似合わず小奇麗で可愛らしい。花が植えられたプランターが朝露を反射して寂れた通りを飾っている。壁こそ八龍の壁の色だが、扉は深い緑色の、童話に出てくるようなものだ。ベルをからんころんと鳴らして店の中に入ると、香ばしい小麦と甘いバターの香りが鼻先をくすぐる。ボクはうきうきとトングとお盆を持って店内を見る。
青日はメロンパンが好きだ。でも、クリームが入っていないと拗ねる。この店のメロンパンは昔ながらのメロンパンとクリームメロンパンがある。ボクは昔ながらの何も入っていない方が好きだけど、と思いながらクリームメロンパンをお盆の上に乗せる。それから、とトングを意味もなくカチカチと鳴らして、焼き立てだというクロワッサンとアンパンとカレーパンをお盆に乗せた。会計を済ませて、また階段を上る。湿気る前にとクロワッサンを齧った。サクサクで、バターの香りがすうっと肺まで通り抜ける。青日の分も買えばよかったかと思ったけれども、2つも食べられないだろうなと、また齧る。あいつ、小食だし。
1段、1段、階を1つ、1つと上る度に太陽に近づく。明るく輝く太陽は空を焼く。今日も1日が始まる。今日も楽しければいいけれども、と空を眺める。薄く、水色が顔を出している。昔、あんな色のスニーカーを持っていた。今ではすっかり青日のものだ。だって、青日はボクが青色の物を身に着けるのを禁止したから。そして、ボクも同じように青日にしてほしくない事をお願いした。青日にお願いしたのは3つ、ボクの奇怪病について訊かない、性別についても訊かない、ボクに惚れないで。世間一般的な基準で考えれば、ボクらの在り方や価値観はおかしい事ばかりだろう。ボクは自分の性別が■である事を隠しているし、奇怪病の詳細も教えるつもりはない。青日がそれでいいと言っても周りの人は変な顔をするし、相棒なのかと青日を責める人もいる。
でも、誰よりも、青日はボクの相棒にふさわしい。青日はボクの埋めてほしい部分を、的確に埋めてくれた。言葉で言わなくても、そうでしょう、ここは睦千にとって要らない『穴』でここが俺の居場所でしょって、とびきり可愛い笑顔とビビットで突飛な言葉で、猫が砂遊びするくらいの気楽さで埋めて、いいところだね、ここは、とヘラリと笑う。ボクの心の中で、青日はいつもそんな感じだ。トコトコと砂袋を片手に歩いて、『白川睦千の穴』と書かれた看板の下の穴に、砂をサラサラと入れて、足で踏み固める可愛い青日を想像して、ふふふと笑みが零れる。隣にいる人として、青日以上のお気に入りは多分いない。
だから、日曜日は特別だ。
「ただいま」
部屋のドアを開けると、黒にも近い青色が出迎えた。ボクの部屋以外は青日にコーディネートを任せたから、基本的に青色で纏められている。それでも落ち着く色合いで青の無限の可能性を感じられるから、青日のセンスや情熱はすごい。けれども、今、出迎えたのは青日こだわりの青色ではない。光をも吸い込むような青色が愛しいが、これはちょっとおいたが過ぎる。
「ただいま。ごめんね、ちょっと出かけていた」
廊下の奥、リビングの方に声を掛けながら中に入る。ボクの足はジクジクと青色に染められていくが、気にせずに歩く。
「メロンパン、買ってきた」
ソファーで青日はブランケットに包まってこちらを睨んでいた。リビングは廊下よりも青色が濃く真っ暗だ。
「ボクが青色を着たり塗ったり塗られたりはルール違反でしょ、青日」
ボクは青日に声を掛けながら、指先から出した僅かな光で青日の額を弾く。そうすると部屋はいつもと変わらない色に戻って、青日はボクの手を掴んで、ボクの手首を見つめた。
日曜日は、青日の日だ。奇怪病のせいで、日曜日の青日は憂鬱で不安定になる。だから、青日が甘えたければ甘やかして、構ってほしくなければじっと待って、どこかに行きたいと言えば一緒に出かける。日曜日に青日がとられないように、ボクは必死に青日の手を握って、言葉をかけて、青日の居場所はボクの隣だよと示す。
「……睦千だ……睦千がいる」
青日はボクの手首の青い静脈を見ながら安心したように呟いて、額にボクの手首を押し付けて擦りつけた。青日は、ボクの静脈の色が好きだから、これを見ると落ち着くらしい。そして、日曜日の青日が素直に寂しいと甘える距離感は、2年と数ヶ月かけて得た距離感だ。最初の頃は寂しいとも言わなかった。無理して笑う青日に、別に青日が泣いたってボクは構わないけど、と言って盛大に泣かれたのが懐かしい。多分あの日、青日の中のボクはトコトコと砂袋を片手に歩いて、『盛堂青日の穴』と書かれた看板の下の穴に、砂をサラサラと入れて、足で踏み固めて、居場所にしたのだろう、それくらいの自信はある。
どっかの誰かさんはこれを愛とか言う。うるさい、愛じゃない。だってボク達は都合がいいから一緒にいるだけだ。ただの相棒で、自分らしく自由でいるために必要なだけ。自分を大切にしたいから、青日を大切にしているだけで、それは青日も一緒だ。それは支配でも執着でも無償の何かでもない。こんな関係に『愛』なんていうのは似合わないだろう。だから、薄っぺらい好きで十分だ。
「ごめんね、睦千」
「ボクも勝手に出掛けていたからね、ごめんね」
青日の頭を撫でる。同じシャンプーを使っているから指通りがいい、シャンプーって結構金額に左右されるよね、関係ないか。
「一緒に、パン食べよう。焼き立てだって」
「……睦千、つまみ食いしたでしょ」
「分かった?」
「焼き立てなんて、店出た瞬間に食べ始めるじゃん」
「ごめん」
「いーよ。でも、もうちょっと、こうさせて」
「うん」
右手で頭を撫でて、左手を震える背中に手を滑らせる。青日は成人男性だ、大の大人がこんなに甘えて、なんて笑う奴がいたらボクの前に出てこい、ぶん殴ってやる、容赦はしない。
「ボク、青日撫でるのも好き」
「そうだね、睦千、初めて会った時も、おれの事撫でた」
そう、と思い出しながら、ボクの表情は勝手にほころんだ。
「青日が飛び込んできてくれたからだよ」
ボクがそう言うと、青日はにへら、と笑った。今日も良い日になるよ、とボクは確信した。
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