第20話 月曜日の爆弾魔
【土曜日 15:00】
あれ、と彼女は隣のテーブルを見た。通路を挟んで隣の席、ちょっとギョッとするくらいのイケメンが座ったせいだ。
プラチナブロンドの長めのショートヘア、目元は涼やかなのに目尻が桃色で、魅惑的でちょっとエロい。滑り台かと言いたくなるほど、理想的な鼻筋、唇は薄くてキラキラのベビーピンクのリップグロスが乗っている、え、それどこのグロス? 教えてほしい。そして、あの顔面じゃなきゃできないだろう全身白色コーデ、てか、身体ほっそいな、白なんて膨張色でその細さ、もしかしてお姉さん? ヒール履いているし。イケメンな美人さんは座って、一息ついている。伏した目の色が、緑色から金色に変わって、ひょ、と変な声が出そうになった。
「ね、ね」
この興奮を伝えるべく、前の椅子に腰掛けている友人を呼び、こっそりと隣の席を指差す。面食いの友人は、ひ、と息を漏らして、黒文字に刺した羊羹を皿の上に落とした。
「え、やば」
「やばいよね、やばすぎでしょ」
「うん、やばい、もう、……やばい」
人間、驚きが限界突破すると語彙力が著しく下がり、やばいしか言えなくなる。てか、やばいって汎用性が高いな、やば。
二人できゃあきゃあと密やかに騒いでいると、お待たせ、と隣に人が増えた。男の声で美人なイケメンさんと話し始める。
「注文はしておいた。電話なんだった?」
声ですら性別が分からない、すごい高いわけでも低いわけでもなく、年齢さえも分からない。ただ、めちゃくちゃ良い声だ。
「丈兄、いつもの金貸してーだって。貸さないって言ったけど」
「賢明な判断」
ところで、隣に増えた人の声に聞き覚えがある。こっそりと顔をのぞいて、あれ? と首をひねった。両目の泣き黒子、癖っ毛に見覚えがあった。
「ね、隣の席の人、盛堂くんじゃない?」
「セイドウ?」
友人は誰だっけ、と尋ねる。
「三年の時同じクラスだった盛堂青日」
「ああ、あいつ……」
友人もこっそりと隣を覗き込んで、あれ、と首を傾げた。
「雰囲気違くない? なんか、あんなにチャラっとしてたっけ?」
隣に座った盛堂くんは確かに浮ついた格好をしている。昼の繁華街でナンパとかしてそうな格好だ。室内でも青色のサングラスをかけている男はもれなくみんなチャラいと思っている。覚えている盛堂くんとは雰囲気がかけ離れているけど、確かに顔は盛堂くんだ。
「そう言えば、あんたちょっと好きだったもんね、盛堂の事」
「昔の話!」
否定はできない。確かに、高校三年生の時、盛堂くんが好きだった。他の男子たちと違って物静かで、でも決して暗くなくて、いつも誰かが近くにいるような人。どこかに一線引いているような雰囲気に惹かれて、ちょっとした瞬間にささやかに笑うようなクラスメイトだった。あの、ささやかに笑う瞬間が好きだった。たった一回、黒板を消すのを手伝ってくれた時に、一人だと大変だもんね、と言って笑ったあの顔、今でも特別な思い出だ。
「はいはい、でも、本当に盛堂?」
「間違えてないと思うけどなぁ……」
また、隣のテーブルの会話に耳を立てる。
「この後、どっか行く?」
「なんにも考えてなかった。まあ、ちょっとぶらっとしよう」
「散歩不足だもんねー、むち」
『むち』というのがイケメンな美人さんの名前? 渾名? なのだろうか。随分と甘ったれた声で呼んでいる。
「犬みたいに言わないで」
「むち、どっちかっていうと猫だよねぇ」
「犬っぽいの、青日の方」
「わんわん!」
青日、と美人なイケメンさんは呼んだ。
「ほら、やっぱり盛堂くん」
「えー、雰囲気変わったね。高校生の時ってもっとおとなしい感じじゃなかった? あんまり覚えていないけど」
「まあ、そんな感じ」
「あーでも、あいつの彼女ってなんかやばい子じゃなかった?」
「まあ、そう」
「なんだっけ、自殺未遂したんだっけ、彼女。目立たない感じだったのに、やっぱりメンヘラだった。ある意味女の趣味悪いよ、だから、忘れなって」
別に覚えていたわけじゃないし! と否定しながら、あのささやかな笑顔を思い出していた。それはすっかりどこかへ飛び去って、今は阿呆みたいに笑っている普通の子になってしまった。話題を変えながら、心の中で密かに思う、あの頃の盛堂くんが一番良かった、変わらなきゃ良かったのに、と。
【土曜日 23:30】
青日が目を開けると、まず首が痛んだ。頭が落ちているような格好で座らされている。首を回しながら頭を上げると、目の前にはなぜか
「ごめんね、痛い事して」
謝ってくる彼女を見ながら、青日は現状を確認する。まず、いつも掛けているサングラスがない、少し焦りが出る。場所には見覚えがない、あと青色もない。どうやら使われなくなった電車の車両のようだ。ただ、窓はダンボールが貼られ外の様子は分からず、あちらこちらに置かれているライトだけが光源だ。そして、自分は椅子に座らされていて、手と足は縛られている。拘束はそれだけで、身体の方も今のところ特に痛みはない。そして目の前に朝野葵。どこにでもいるおとなしい顔立ちの同い年の女性、半袖のブラウスから見える腕はつるりと滑らかで細く、多分身体を鍛えていると言う事もなさそうだ。そして、左手首に細い傷痕があって、青日は目を逸らした。
「久しぶりだね、青日くん。覚えているよね? わたしのこと」
「朝野葵」
名前を呼ぶと朝野葵は不満げな顔をした。
「昔みたいに呼んでよ」
「……葵、これどういう事?」
尋ねながら頭の中で整理する。
まず、成維たちを置いて睦千を追いかけた。店は鬼灯通りに沿って行けばいいと、睦千の言葉から推測していた。だから雑踏を避けながら走っていた。しかし、不意に横から出てきた誰かに抱きつかれて、そのまま細い道に引っ張られた。怪や人に気を張っていたせいで反応が遅れて、そのまま脇道に引っ張られて、近くの建物、倉庫みたいな部屋に押し込められた。その時に出入り口の階段を転げ落ちたから、すぐには起き上がれなくて、痛さとパニックで少し冷静じゃなかった隙を突かれて、目の前にいかにもな爆弾が置かれた事に気づかなかった。爆弾が爆発して、光と煙に脳天を揺らされて今に至る。まさに不覚、不覚の極み、不覚の連鎖。
「青日くんに会いに来たんだよ」
「……普通に会いに来なよ」
「青日くん、見た目がすんごい変わっていたから、もう忘れちゃったかと思ったけど、覚えてくれていたし、やっぱり変わっていないね」
「葵って、こんな事する子だっけ? 葵の方が変わっちゃったんじゃない?」
葵は目を見開いて、近くのテーブルの上に置いていた『いかにも』な爆弾を手に持った。黒くて丸くて導火線が伸びている爆弾。
「そうだね、変わっちゃったよ。でも、青日くんと一緒」
導火線にひとりでに火がつく。青日はギョッとして身体をひねってねじって逃げようとした。
「大丈夫だよ」
葵は青日の顔の前に爆弾を差し出す。チリリと導火線が燃え尽き、もはやこれまでかと青日は目を瞑る。ごめん、睦千、なんかよく分かんないまま何もできないまま爆殺されちゃう、てか痴情のもつれ? で殺されるってそれっておれの担当じゃなくない? どっちかって言うと睦千じゃ、あ、三万はチャラにしてあげるから墓石は青っぽい色の石にしてほしいお葬式は大変だからなくてもいいけどてか遺影にする写真はキメ顔のおれにして成人した時に撮ったやつ間違ってもメロンパン頬張っているおれとかにしないでナイスブルーとか言っているおれもちょっとやだやっぱり遺影用に準備しておくべきかなえーでもおれまだ若いし百歳まで生きてみたい……
「……あれ?」
走馬灯にしちゃ長いなと思って恐る恐る目を開けると、目の前を蝶が飛んでいた。あれ、なんか青いやつ、あー名前が出てこない。構造色で青く見えてアメリカとかにいるやつ、
「思い出したッモルフォ蝶!」
「青日くん、好きだったよね、この蝶」
「……葵、君も奇怪病者なの?」
「そうだよ。この間ね、発病したの。色んな爆弾を作れる奇怪病。でも、人を殺せるぐらいのすごい爆弾は月曜日にしか爆発できないの。だって、わたしが一番壊したいのは月曜日だもん。青日くん、月曜日が嫌いだもんね?」
「壊すほど嫌いじゃないよ」
「でも、嫌いなら壊してあげる、邪魔なものも全部」
「止められるよ、きっと」
葵は青日を睨んだ。しかし、青日は続ける。
「睦千は止めるよ」
そう言って青日は目を閉じた。眠いわけではなかったが、考えるために休む。
日曜日はすぐそこまで来ている。
【日曜日 2:00】
不揃いな足音を響かせて、睦千は一度帰宅した。玄関でパンプスを脱ぎ、乱雑に脇に揃え、フットカバーを足から抜き取り、溜息を吐いた。泥だらけだから、早く洗った方が良いのは分かっているけれども、そこまでの気力はない。おざなりに簡単に乾いた泥を落とした。玄関も掃除しなくちゃ、めんどくさい、とまた溜息を吐き出した、今度は長く。
帰ると言ったのは自分からだった。
「切り替えてくる。どう考えても、いつも通りに動けない」
青日の足取りは二時間ほど調べても分からなかった。電電社に頼んで監視カメラのチェック、偶々近くにいた師匠達にも手伝ってもらっての周囲の調査、聞き込み、どれもハズレだった。一度、状況を整理するために本部に戻ると言った成維に、睦千は先ほどの言葉を告げた。睦千の顔を見ていた成維もその方が良いとだけ言って、睦千を見送った。甘やかされているかもなと思いながら、睦千は一応周囲を確認しながら帰ってきたのだ。
鈍く疲れを伝える足の裏から生温い床の温度が伝わり、痛いほどの無音が部屋の中を満たしている。案外憔悴しているのかもしれない、部屋の中を見ながらそう感じた。
部屋の中は出て行った時と同じままだ。流しに昼食に使った皿、今日のお昼はこの間作って冷凍したドライカレーだった、だから部屋の中は少しカレーの香りがする。ダイニングテーブルの上に読みかけの本、青日が読んでいた本で次に借りる約束をしている。バルコニーに干したままの洗濯物、リビングのテーブルの上に麦茶が入っていたグラスが二つ、青い魚模様が青日で、ヒヨコ模様が睦千のものだ。露草色のソファの上にラムネ瓶色のクッションと白いブランケット、ブランケットは睦千がうたた寝をしている時に青日が掛けてくれたものだ。数時間前まで、そこにいたのにと睦千は自分のつま先を睨みつけた。
どうにもならない事は分かっている。自分が冷静でない事も頭の上っ面の方で理解している。しかし、青日を見つけなければ、青日が奇怪病を暴走させてはいないだろうか、もしも、青日が誰かを……と蠢く心の言葉は、取り繕った自分の選択を今にでもぶち破りそうだった。無意味な思考を振り払うように、大股でバルコニーへ出て、洗濯物を取り込んだ。それから再び大股で風呂場へ向かった。
手早くシャワーを浴びて、髪を乾かして、最低限のスキンケアをして、ソファに寝転んだ。偉いでしょ、ちゃんと髪も乾かしたし手入れもしたよ、この状況で、なんて青日がいたらそう話すのにとやはり青日の事を考える。不毛。眠れないのは分かっているが目を瞑った。休んだと言い張るだけの時間はじっとする。
例えば、青日が自分を制御できなくて誰かを殺めてしまったら。そうなった時、ボクは何を思うのだろうか。青日を庇うのだろうか、それとも遠ざけてしまうのだろうか。そして、他の誰かを相棒にするのだろうか。
「……ばかか」
他の相棒、なんて考えた自分が許せなくて、ブランケットを頭から被り丸まった。いまさら青日以外の誰かなんか許せないくせに、青日の代わりがいる前提で物事を考えようとした自分に、思いの外苛立った。本当に帰ってきて正解だった、冷静じゃない。冷静でいられないくらいには、やっぱり青日の事を気に入っている。あの甘えたで、テキトーで、仕事には真面目だけど自分の事以外は割とどうでもよくて、歩き方が軽くて、思考も軽い青日。やっぱりいなくならないでほしいなぁ、なんて考えているうちに意識がふつりと途切れた。
眠れないと確信していた睦千が起きた時、時計は午前六時を示していた。携帯にはまだ何も連絡はない。青日は見つかっていないが、少なくとも暴走もしていない。睦千は一度腕を伸ばし、背中を逸らしながら大きく息を吸った。疲れている感覚はない、頭も夜よりは落ち着いている。ソファから立ち上がり、青色ばかりの部屋を睨んで独り言。
「……待ってなよ、青日。この顔だけが取り柄のボクが、カッコよく助けてあげる」
それから睦千は身支度と腹ごしらえを済ませ、一度本部に連絡をする。電話に出たのは担当事務員の春田奈子だった。
「あれ、春田さん」
『睦千さんですか。ちょうどよかった、今掛けようと思っていたんです』
「ごめんね、春田さんも巻き込んじゃった」
『いえいえ、気にしないでください。それよりも、今はご自宅ですか?』
「今から出るところ」
『そうでしたか。なら、一つご報告です。爆弾が見つかりました』
「どこ?」
『ギャラリー・回廊です』
あ、と小さな声が睦千の口から転げ落ちた。ギャラリー・回廊は、深文化郷地区の中で美術館の次に大きい展覧会開場で、今の展覧会は例のプラチナ・ブロンド時代だ。やっぱりボクのせいだと睦千は携帯を握りしめる。
『爆弾ですが、こう、怪しい箱がありまして、蓋を開けてみてもコードらしきものもなくてタイマーだけが入っていまして、偽物かもしれないので、今、キメラ師匠と狐師匠に向かってもらってます』
「分かった、ボクも行く。何か手掛かりがあるかもしれないし、ボクなら解除できるとかありえるし。誰かいる?」
『ラブさんが見つけたと連絡してきたので、多分まだいると思います』
「あいつ、暇なの?」
『たまたま手が空いている時が多いんですよ』
「まあ、いいや、ありがとう。じゃあ、処理してみる」
靴を履いて、部屋を出た。それから、ウィッピンを出して、隣のビルへ飛び移る。地面なんかを歩いている暇はない。頬を刺す風が湿っぽく、空は重苦しい雲で埋まっている。もしかすると、雨が降るかもしれないと思った。
ギャラリー・回廊の前に大きく貼られているプラチナ・ブロンド時代展のポスターの前にラブが立っていた。睦千はポスターの幼い自分に悪態を一つ、やいお前、お前のせいで散々だ! そんな睦千を見つけたラブは軽く手を挙げて、よぉ、と声を掛けてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
訊いても無駄だろうに、ラブは軽い調子で大丈夫かと尋ねる。他の人にされたら多分ムカつくだろうけど、ラブだから許してやっている、だが、睦千の声は少し膨れていた。
「まあ、とりあえず、爆弾だ」
「……ラブも手伝ってくれてありがと」
「気にすんなって。お前と青日がセットじゃないのってなんか嫌だし」
「そう?」
「そうだよ……ほら、これだ」
ラブが指差した足元に、確かに春田が言っていた通りの物がある。睦千は躊躇せず箱を開けた。白い箱の中にタイマーだけが入っている。如何にもな爆弾の形をしたプラスチックのタイマーだ。
「偽物っぽい……奇怪病?」
「可能性はあるな」
「おいおい、白川ぁ、ベタベタ触んなよー」
後ろからむんず、と首根っこを掴まれて睦千は地面に手をついた。振り返ると、鬼の角にピンク色の髪と狐のお面、キメラ師匠と狐師匠だ。
「大狸から話は聞いているよ、白川睦千。仕事ができるのに時折途轍もなく阿呆になる、とね。あと、知夜の件では世話になった」
狐師匠が笑顔の口で語る、社交辞令ってやつかと睦千は手を払いながら立ち上がる。
「まあ、ご迷惑をおかけしました」
「良いってことよ。それで、キメラちゃんなんかわかった?」
「んー、奇怪病で作られていそーって感じ? 爆発させてやるぞっていうエネルギーは感じる。白川の鞭みたいな、奇怪病で作られているぜって感じ? とりあえず、狐ちゃんやい、一つ呪ってくだせぇ」
「奇怪病を呪えるかどうかは怪しいのよねぇ、パワーの張り合い? って言うの? そういうのに負けちゃうから……」
ぶつぶつと言う狐師匠の尻をキメラ師匠が叩いた。
「言い訳はいいからささっとやっちまえって」
「呪えないって結構屈辱なのよ、精神的に負けた感あるし」
構えた狐師匠はいつも通り対象を呪おうとして、すぐにくそぉ、と叫んだ。
「負けた!」
「負けそうな雰囲気出すからだよ。じゃ、白川よろしく」
睦千は手にウィッピンを振りかぶり箱を切り裂いた。半分に切り裂いた箱は煙となり消えて行くが、その煙が壁に染み付き、文字となる。それを見た各々が顔を顰め、怒りを露わにしたが、睦千だけは平然とした態度で、春田に電話を掛け始めた。
「睦千です、報告があったプラチナ・ブロンド展会場の爆弾を発見。ウィッピンで処理しました」
電話口で春田が、分かりました、と答える。
『問題はありませんでしたか?』
「うん、ないよ」
『そうですか、とりあえずは良かったです。では、一度、本部の方に来てください。御大がお呼びです』
「うん、分かった」
電話を切った睦千は会場の壁を見た。『白川睦千は相棒殺し』の文字が浮かんでいる。住民なら分かってしまうだろう、めんどくさいな、と睦千はウィッピンで殴りつけた。文字は消えるわけでもなく、徒に壁に小さな傷をつけた。
「おい、大丈夫か?」
ラブが声を掛けてくるが、平気だよ、とだけ答える。
「ボク、呼ばれたから行くね。ご協力、どうも」
足早に立ち去りながら考える。やはり、犯人は自分をターゲットにしている。ボクを恨んでいるから、青日を連れ去った。じゃあ、誰が? 心当たりがあるような、ないような、しかしあの言葉。相棒殺しという点では心当たりはない。
ぽつん、と鼻先に雨が落ちる。睦千は舌打ちをして、パーカーのフードを被りトラムの停留所に向かった。
【日曜日 9:00】
一方で青日は何も考えていなかった。屋根に当たる雨音で、今日は雨かぁそういえば睦千洗濯物取り込んでくれたかななどなど。これは青日なりに事態の悪化を防ぐためでもある。
今、一番しちゃいけないのは奇怪病の暴走だ。葵が手首を切るなり自爆するなり、取り返しのつかない事になるのも端的に言ってやばいが、それ以上に青日の奇怪病でやけになった葵が爆弾のスイッチを押すとかでとにかく爆発させるのが、考えうる限り、一番やばい展開だ。なので、奇怪病を使って逃げ出すのは早々に諦めた。そして、日曜日は色々と考えてしまった結果、青色を垂れ流してしまうので、思考するのも危険。どうにもならないが、どうにもしないのも大事、青日はなけなしの理性で義務を果たそうとした。この場合の義務とは、福薬會のメンバーである事である。一応、街を守るヒーロー的立場だし、無職になるのはちょっとね……結構天職だと思うし、いまさら他の仕事には就けない気がする、などなど。とりあえず、さして重要じゃない事をつらつらと思い浮かべていた。今は脱線に脱線を重ね、アクロバティックな思考回路を発動させて、睦千の今日の服装の予想をしていた。昨日ヒールだったから、多分今日はスニーカー。黄色いバッシュみたいなやつ。それならライン入ったスウェットパンツにパーカーかな。そんな気がする。
「ねぇ、何考えているの?」
「睦千の事」
ガンッと音がして、金属片が青日の頬を切り裂いた。爆弾だと言っていた小さな箱が爆発した音だ。目の前の彼女は怒りに満ちた目と裏腹な慈愛に満ちた表情で青日の頬にハンカチを当てた。
「あの人と付き合っているの?」
「付き合ってないよ」
「なら、なんで一緒に暮らしているの、あんなに仲良さそうに」
「仕事の相棒だよ。仲がめちゃくちゃいい」
ハンカチに吸い込まれていく血のように、じわりと青日の指先から青色が滲む、いけね、いけね。思考は軽く、重く沈んじゃダメ。
「付き合っているんでしょ」
「違うって」
「浮気よ」
「君とはもう終わったよ」
「終わっていない!」
彼女は青日の頬を強く押さえつけた。痛みに青日は顔を顰める、そんなに強く押さえつけたら痕残るじゃん、睦千はおれのほっぺが好きなのに。
「青日くん、わたしたち別れてないよ。時間かかったけど、会いに来たんだよ。ねぇ、一緒に暮らそう? 青日くんは何も心配しなくていいし、こんな変な場所で危険な仕事なんてしなくていいよ」
「……」
青日はグッと唇を噛み締めた。頭がツクリと痛む。ばか、好きなものを考えろ、青色、青い空、青い海、透明な青硝子、青い部屋、青い静脈、真っ白な睦千……。
「ねえ、やっぱりあいつと付き合っているんだ。だめだよ、あんなやつ」
「……」
ツクリ、ツグリと頭の中で大きく脈が拍動して、それが痛みに変わる。睦千は良いやつだと言い返したかった。偽善者だって言うけど、それはちゃんと優しい事の証左で、怪を追いかける時は誰よりも生き生きして、誠実だ。顔だけって言うけど、自分に自信がない事の裏返しみたいなもので、そのくせ、いざと言う時は自分ならやれるからとすぐに覚悟を決めてしまう。みんなは分からないだろうけど、睦千の相棒三年目に突入した青日は知っている。オフィーリアの時だって、この間の切り裂きジャックの時だって、睦千は真っ先に自分を差し出した。自分に価値はない、でも、ボクならできる、そんな睦千を『あんなやつ』呼ばわりなんて、
「青日くん、白川睦千は相棒を殺しているんだよ!」
青日の頭の中は、本当に真っ白になった。
「殺した?」
「知らなかったの? 隠していたんだ、白川睦千は」
「言わなくていいよ、あとで聞くから」
青日は無理矢理会話を切ろうとした。だが、葵は話し続ける。葵の声が歪んで聞こえて不愉快だ。
「二人目の相棒、
「黙れ」
青日が一言呟き、ブルー・サンデー・シンドロームを発病させた。湧き上がる濃紺とライトブルーに、葵は怯え青日の膝にしがみついて泣いた。
「ごめんね、青日くん、ごめんね、怒んないで、離れないで」
息を吸って、吐いて、睦千を思い出して、青色を抑えていく。脳内の睦千が「偉いね、青日」と笑う。八重歯が見える、青日が一番好きな笑い方だ。
睦千が意味もなく誰かを殺すわけないだろう。隠していたのは、今でも話せないほどの傷なのかもしれない。それか、青日を信用していないか。そう考えて、青日は唇を噛んだ。青日は睦千の事を知らない。無知の中で作ってきた関係と表面だけなぞる信頼は、昨日までは青日にとっての自信だった。それが、今ではただの不安だ。
雨が強くなった。今、睦千に会いたくない。
【日曜日 同時刻】
午前九時には本部の会議室に着いていた睦千は目の前に座る成維を睨み付けていた。
「おいおい、夜通し調べてやった俺に対してその態度か。あと、濡れたままでこっちに来るな」
「いつも通りに動いているって教えてあげているだけ。あと、それと外は雨」
睦千は自分の机に置いていたタオルで身体と髪を拭きながら言葉を返した。
「いつも通りで頼り甲斐があるよ、全く。まあいい、いくつか分かった方がある」
成維はホワイトボードを指差した。もう見ただろう、と言っているようだった。睦千は一つ頷いて、椅子に腰掛ける。タオルを肩にかけ、本部の前の屋台で買ったアンパンの袋を開けながら尋ねる。
「
ホワイトボードに大きく書かれている人名である。オフレコで頼むが、と成維は説明を始めた。
「五年前に失踪した保安方の調査員だ。カーテン隠れ病という奇怪病を持っている。自分が触れている布の中になんでも隠せる症状だな。自分自身も布の中に隠れる事ができる。青日を連れ去ったのはこいつだろうな。煙師匠が監視カメラから、あのあたりを歩いているのを確認した」
これが顔な、と写真を睦千に差し出す。顔色が悪い少女が映っていた。まだ十代であろう。
「ボクに教えてもいいわけ?」
「ケース・バイ・ケースだ。でも見掛けたら知らせてくれたら助かる」
「なんで失踪したの?」
「さあな。しかし、生きていて良かった、ということだ。詳しい事情は確保してから訊けばいい。話を進めるぞ」
睦千は成維らしくない言い方に内心首を傾げた。失踪して、青日の誘拐にも関わっているかもしれないのに、生温くないか。しかし、知らぬ他人より青日だ、睦千は成維の話を黙って聞いた。
「青日が誘拐された場所だが、鬼灯通りの倉庫だ。監視カメラに小さいが映っていた。倉庫は大狸師匠や科捜派が確認したが、手掛かりはなさそうだ。何かしらの奇怪病で移動しただろうというのが現時点の見解だ」
ほらよ、と青日の色眼鏡を渡される。
「現場に落ちていた。お前が持っておけ」
「ありがとう」
睦千はどうしようか迷って、色眼鏡を襟元に引っ掛けた。
「次に爆弾だが、お前が解除した一つしか見つかっていない、今、調査員総出で捜索中だ。午後六時までに全部見つからなかった場合、住民に避難指示を出す」
「できればそれくらいまでに見つけてくれって話ね、分かった」
「そして、容疑者だが、爆弾を作れる、またはそれに準ずる奇怪病者を確認して、今は本部で保護、という事にしている。それぞれの家や店も見せてもらったが、青日を監禁してるような形跡はなかった。見つかった爆弾の形状もそいつらが作れる、使う爆弾とは違ったし、まず関係ないだろう。青日とトラブルがあったやつに心当たりは?」
「昨日も言ったけど、ないよ。だから、ボクに恨みがあるんじゃない? それなら、心当たりはないけど、でもあると思うよ」
「お前か……」
成維は考えるように、睦千の顔を見る。睦千は寝不足のおっさんの顔を見つめ返した。雨音だけが聞こえる。嫌がるかと思ったが、成維の意識は他のところにあるようで表情は変わらず、睦千は訝しむ。これはただの、訳の分からないボクへの言いがかりに起因するトラブルではないのか、成維は何かこの事件の背景にあるものが分かっているのではないのか。
「成維」
「あ?」
「分かっている事、成維が気にしている事、全部教えてよ」
睦千は成維の表情の変化を見逃すかとその顔を見たが、成維は変わらぬ表情で、一言告げる。
「ないが」
「本当に?」
「ない。お前こそ、何か思いつくものはないのか」
「……少し、気になる事はあるけど……」
「あるのかよ」
「爆弾を解除したら、『白川睦千は相棒殺し』って出てきただけ。だから、ボクがターゲットなんだと思ったってだけ。でも、あいつ関係で心当たりはない。親しい人がいたって話は聞かなかったし、家族ともほぼ絶縁状態で、葬式にも誰も来なかった。恋人は絶対にいなかったし、付き合っていたっていう話は聞いていないし、だってあいつ、年齢イコール恋人いない歴とか言っていたし、友達もいなかった。だから、だとしたら、なんでだろうって思って……」
睦千は一度言葉を切った。成維が大袈裟に息を吐いた音が聞こえた。
「お前を混乱させるためだけのメッセージかもしれない」
「でも無視できない!」
机を力一杯叩く。ガン、ン、ン、と余韻が会議室に響く。
「……やっぱり、ボクに対する復讐だよ……だって、小羽留はボクが殺した」
「やめろ」
成維が低い声で睦千の言葉を遮った。
「らしくない。視野が狭くなっている」
「……じゃあ、他に何があるって言うの?」
「青日への復讐。お前が爆弾解除に走り回って、それでも間に合わなかった場合、もしくは青日の居場所だと教えられて向かった先に罠があって、それでお前が死んだら、十分な復讐だ。メッセージはお前から冷静さを奪うため、これでもそれなりに理にかなっていると思うが?」
「……希望的観測だよ……」
睦千が項垂れていると、コンコンコン、とノックの音が聞こえ、春田が顔を出した。
「失礼します。爆弾が見つかったと報告がありました。睦千さん、解除をお願いできますか?」
うん、行くよ、と睦千は逃げ出すように会議室を出た。腹の中、胸の辺り、ぐるぐると不快感が渦巻いてのたうち回る。外では強くなった雨足が睦千を嘲笑っていた。
「どこで見つかった?」
睦千は自分を取り囲む不快感を振り払うように歩きながら春田に尋ねた。
「映画館と、八龍でぱあとで二つです。屋上遊園地とアクセサリーショップで、路地裏同好会の会長が手伝ってくれるそうです……」
睦千が会議室を出ていくと、成維の視界の端で煙が漂い始めた。
「煙師匠」
「僕はね、今、ちょっと安心しているんだ」
脈略もなく、煙師匠が語り出す。低く響く声は確かにいつもより柔らかく聴こえた。
「群雲が生きていたからね」
「それは、そうでしょうね。あなたにとって娘みたいなものでしょう」
成維は煙師匠と群雲を親子みたいだと眺めていた。引っ込み思案な群雲は、隠れ切るには難しい煙の中によく入っていたし、煙師匠は群雲を娘のように可愛がっていた。
「でも、群雲は大人になったんだろうね。だから、ここを出て行ったんだ」
くぅくぅと漂う煙がゆったりと揺れ始め、やがて黒煙へと変わり、人の形となる。品のいいスーツを着こなした初老の男だ。これが煙師匠の本来の姿だと知っているのは、おそらく成維と群雲ぐらいだろう。煙師匠は近くの椅子に腰掛け、口髭を撫で付けながら話す。
「ありふれた部下と上司だった。でも、確かに精神的な距離は近かっただろう。秘密の共有は、人を惑わせるんだ。群雲はそれに気付いたんだろう」
「俺から見れば、群雲はお前を信用していたように思えました」
「だからだよ。あの子はやっぱり子どもで、一番近くにいた大人に安心したにすぎない。魔法が解けたんだよ。ここにいても、利用されるだけで、優しい大人は自分を引き留めるだけの要素にすぎないとね」
「あなたは本当にそう思っていたのか?」
「思えたら、簡単だよねぇ。僕は、群雲を自分の理解者で、後継人だと思っていた。次の保安方師匠は彼女がいいってね。誰の目にも見えなくとも、卑怯だと言われても、誰も信用できなくても、街を守れるための力が己にあるなら、それこそが自分の使命だと、群雲も同じだとね。あれから、僕はずっと考えているよ」
椅子に座っていた人の形が再び煙に包まれる。燃え盛る薪や煙草の香りが室内に満ちる。
「群雲は、どんな子どもだったんだろう、とね」
成維がコホンと咳を一つしている間に、煙は跡形もなく消えていた。相変わらず、肝心な事はぼやかさないと話せないようだ。
【日曜日 12:00】
朝野葵の告白を了承したのは、朝野葵の名前が美しいと思ったのと、制服の青いネクタイがとてもよく似合っていたからだった。
「でも、盛堂がああいうのがタイプだとは思わなかったな」
付き合い始めた、と同級生に告げると、意外だ、という顔をされた。
「そうかな」
朝野葵は控えめで、顔立ちも地味だった。だが、極端にバランスが悪いわけでもなく、ただ印象に残りにくい顔だった。
「なんつーの? 同級生に興味ねーのかと思っていた」
「そうかな?」
内心、どきりとした。案外、バレているものだと考えて、それも当然かと思い直した。これまで好きなタイプを訊かれても誤魔化してきた。例えば、誰が可愛いとかスタイルがそそるとか、青日はそれらがピンと来なかった。女の子に興味がないなら、同性ならどうか。それも興味がなくて、そこで一つの可能性に辿り着く。自分は、恋が分からない欠陥品なのではないかと。その可能性が、青日にはとても恐ろしかった。みんなが当たり前のように語る恋が分からないなんて、自分だけ違う言葉を話しているみたいじゃないか。地球人じゃなくて宇宙人、宇宙人ですらないかもしれない。宇宙人も恋をして家族を作るって言われたら、青日の居場所はどこになるのだろうか。だから、せめて恋に似た感情を掴みたかった、そのタイミングで朝野葵に告白された、渡りに船だ。
まず、葵をしっかりと観察した。同じクラスであったけど、葵の事はほとんど知らなかった。だが、クラスで一番綺麗な名前で、制服の青いネクタイが似合う子だと思っていた。恋の始まりとはこういうものじゃないか、やっぱり渡りに船だ。当時のバカな青日は本気で思っていた。
葵に求められた事はなんでもした。ロマンチックな事が好きな葵が求める事、欲しい事は分かりやすかった。デートも定番ポイントは全部行った。テーマパーク、水族館、映画館、美術館、ウィンドーショッピング、カフェ、放課後デート、どれもそれなりに楽しかったけど、微妙な空気の張り詰めた感じがして、いつだってどっと疲れた。手を繋ぐ、ハグをする、キスだとかの触れ合いも、思った以上の幸福感はなかった。自分と違う生き物に触れている、それだけだ。誕生日も記念日もちゃんと祝った。少ないお小遣いと貯金をやりくりして、彼女の希望やロマンチックなプレゼントを準備したが、例えば親から金を借りる事も校則を破ってバイトをするくらいの熱量もなかった。付き合う事は、青日にとって疲れる事だった。恋とは疲れる事かもしれない、幸せってなんだろうなと思い出した頃から、葵はより一層青日に触れ、束縛した。昼休みも手を繋ぐ事、登下校も手を繋ぐのは当然、メールの返信はすぐ返す事、おやすみ前の通話、休みの日はもちろん一緒……その頃の青日の記憶はイマイチ明瞭としない。その頃から青色に執着して、月曜日が嫌いになって、更に日曜日が嫌いになった。逃げ場のない学校が始まる月曜日、良い子で優等生な青日しか必要としない両親が望む月曜日、気が滅入るから日曜日が嫌いになって、良い子の勉強と葵に繋がれる日曜日が苦しくて、息ができる青色に囲まれたくて、綺麗なものしか見たくなくて、とにかく青色、青を求めていた。
高校二年の秋くらいに告白されて、三年の夏の日曜日、青日は葵を殺しかけた。奇怪病の発病と暴走である。場所は葵の部屋で、青日の心に自分への好意がないと、葵はカッターを見せつけた。
「青日くん、一緒に死んで。わたしのこと、嫌いでいいから、一緒に死んでよぉ!」
真っ赤なカッターと、真っ赤な顔と、真っ赤に充血した目、赤い夕暮れの色は、醜いと率直に思った。綺麗だと思っていたから付き合っていたのに、こんなにも真っ赤に自分を追い詰める。まるで日曜日、そのものだ。おれを普通や良い子の『月曜日』に追い詰める日曜日そのものだ、日曜日から逃げたい。逃げられないのなら、せめて青の中、青に逃げたい。空とか、海とか、そういう綺麗な場所、おれに大丈夫だよと言ってくれる場所。
そうして部屋の中を満たした青色に大きく呼吸をしてると、ベッドの下で倒れている葵がいて、ちょうど帰宅した葵の両親がおれを見ていた。
「人殺し!」
つんざくような悲鳴と、その言葉をはっきりと覚えているし、青日はそれを否定せずに笑顔を返したと思う。だって、ようやく息ができたのだから。
「ね、青日くん」
目の前に葵の顔。差し出されているのは、湯気がたつナポリタンが巻きつけられたフォークだ。さっき、ここから出て行ったと思ったが、どうやら食事の準備をしていたようだ。
「大丈夫? ごめんね、手は解いてあげられないけど、ちゃんとお世話してあげるからね」
「……放っておいて」
青日は顔を背けた。
「ねえ、覚えている? デートの時、青日くん、いつもナポリタンばかり食べていたの」
「そうだっけ?」
「そうだよ。だから、私、練習したんだ」
多分、行った店で一番安いか一番上に書かれているとかだろう、特に好きとかではないはずだ。
「だから、食べて」
背けた口に生暖かいナポリタンが押し付けられる。青日は口を開く気になれなくて、そのまま壁を見つめていた。
「……食べてくれないなら、爆発させちゃうよ。月曜日じゃないけど、怪我はするよ。白川睦千が見つけて、解除しようとしているなら、怪我しちゃうね。当たりどころが悪いと」
耳元に熱い吐息がかかる。青日は目を見開いて、息を飲んだ
「死んじゃうね?」
青日はゆっくりと口を開いて、ナポリタンを口に含んだ。酸っぱいケチャップと辛い玉ねぎ、固いパスタと苦いピーマン、それが正しく認識された味なのかも分からずに咀嚼して飲み込む。血が固まった頬がピリピリと痛んで、全てが不快だった。
「美味しい?」
「……おいしいよ」
青日は無理矢理飲み込んで、そう告げると、葵は嬉しそうに笑った。それに笑い返した。それが、青日の贖罪だった。
綺麗な名前と青いネクタイ、好きなところが二つもあればうまくやっていけると思っていた。だけど、それはただの言い訳で、葵の気持ちを徒に弄んだだけだ。その結果、睦千が危ない目に遭っている。他人を大事にできなかったから、青日にとって大切な『誰かにとっての他人』が危険な状況で、睦千がきっと知られたくなかった事を勝手にバラされて、青日は助けに行けない。全ては、青日の行動のせいだ。
「ねえ、青日くん、覚えている? 初デート、水族館だったよね、イルカのショー、すごかったよねえ……」
青日は話しかける葵に相槌を打った、そうする事で葵を大切にできて、それが回り回って睦千の助けになればと、必死だった。
【日曜日 17:00】
イルカの水槽の前で、箱をウィッピンで切り裂いた。同じようにくだらないメッセージが出てきて、睦千は密かに舌打ちをする。
「ひどいねぇ」
なぁん、と路流の腕に抱えられた猫が相槌を打つように鳴く。一緒にやってきたおこめは今日は妙にお喋りで、本日は睦千のタクシーとして活躍する路流はいつも通りで、睦千の頭も幾分か落ち着いてきた。
「まあ、どうでもいい話……これで六つ目か」
残りはあと一つだ。睦千と路流は足早に水槽の前から立ち去る。これまで見つかった場所は、ギャラリー回廊、八龍でぱあとの屋上遊園地とアクセサリーショップ、深文化郷地区の映画館・タウンシネマ、喫茶れれれ、新都市地区の八龍水族館である。
他に有力な情報もなく、避難開始まであと一時間であるが、それまでに爆弾を見つけられるか、時間はギリギリだ。睦千一人だけでは到底できなかった、さすがに一人で八龍を探し回るのは……
「ん?」
睦千は足を止めた。
「どうした?」
路流とウミガメが不思議そうにこちらを見ているが、それどころではない。この間観たドラマを思い出したのだ。連続爆破事件を追う探偵が、相棒を人質に取られ、街に設置された爆弾を警察に知られないように探し出さなければいけない、という事件だった。普通はそうじゃないか、誰にも知られないように探せ、と言われるだろう。特に人質がいるのなら。その方が目的が達成される確率が高い、いや、そもそもこういったゲーム形式の犯行は、他に何か目的があってそれを隠すために大袈裟な事件を展開するのではないか? 爆弾に夢中で考えていなかったが、この事件の目的とは、なんだ? それに爆弾の設置場所だ。八龍でぱあとや喫茶れれれは分かる、あの辺りは夜でも人が多いし、喫茶れれれは本部の前だ、それなりに被害もパニックも大きくなるだろう。だが、他の場所はどうだ。水族館やギャラリーは深夜に人はいないし、映画館は深文化郷地区の中心からは外れている。それに大部分の住民が巨匠館地区に住んでいるのに、爆弾は一つしか仕掛けられていない。隠しているのか? それとも人を殺す気がないのか? だとしたら、なんのために?
「……火事場泥棒……いや、違う。それならもっと金目のものがあるところに仕掛けて、人を遠ざける。やっぱり怨恨……、仕掛けた場所に意味がある?」
睦千はその場に立ったまま、ゆるりと指を絡ませ、口元へ。今日見たもの。名前。位置関係。順番。特徴。場所。時間。メッセージ。今日、見たもの。
「路流、水族館、遊園地、デパート、高校、ギャラリーで思いつくもの、ある?」
「えー……なんだろう?」
にゃあ、とおこめが鳴く。普段は鳴かないのに、今日はとにかくよく鳴く。
「おこめ、なんかした?」
路流が尋ねると、にゃあん、とおこめが再び鳴く。その金色の目の先、カップルが腕を組んで歩いていく。呑気にどうしたの、おこめー? と路流が話し掛ける。そして、また、なぁん、と鳴く。また、カップルが通り過ぎて行った。
「……カップル……」
「デートかな」
ポツリと路流が話し掛けと、なん! と大きくおこめは返事をした。
「デート」
睦千は不思議とこの猫と話ができるような気がした。ななん! 猫がまた主張をした。
「デート?」
あ、と路流と睦千の声が重なった瞬間、ピルルル、と睦千の携帯が鳴る、春田からだ。
「もしもし」
『睦千さん! 最後の爆弾が見つかりました!』
「ちょっと待って、当ててみるから、一分待って」
春田の呆れたような声が聞こえたが、睦千と路流は推測の正しさを証明したかった。
「図書館?」
睦千が提案すると路流はいやいや、と否定する。
「えー渋くない?」
「放課後デート的な」
「それなら塾とかは?」
「じゃあそれでファイナル・アンサー。もしもし? 春田さん? 図書館? あと塾、とか?」
『割と惜しいですね、第三高校の図書館です』
「…………あー、なるほど」
『睦千さん?』
「なんでもない。すぐ行く。あと調べてほしい事があるんだけど」
『はい?』
「青日がこっちに来た時、怪我させた子がいるって聞いたんだけど、今何しているか。もしかしたら」
『犯人、ですか?』
「可能性があるって話」
『分かりました』
「うん、お願い。じゃあ」
電話を切った睦千に、路流がじゃあ行こう! と意気揚々と歩き出す。雨はすっかりと上がっていた。
「もしも、この推測があっていたとして睦千へのメッセージの意味は?」
「勘違いされているんじゃないかな、青日の今カノか今カレか。だから、その子が犯人なら、青日に執着してボクが邪魔。青日を連れ去って、ボクは爆殺でハッピーエンド、みたいな」
「おや、それは大変だ」
にゃおーん、とおこめも、大変だな人間、と鳴く。
「違うかもしれないし、違っていたらいいと思うよ」
急ごう、と睦千は近場にある草を指差す。路流は任せなさい、と呪文を唱えた。
「くさくさ道草旅枕、くさくさ寄り道草枕!」
【日曜日 19:00】
ピポ、と電子音が聞こえた。葵はポケットからスマートフォンを取り出す。青いケースは青日のスマートフォンだ。
「すごいね、白川睦千。爆弾全部見つかっちゃった」
次にポロポロと音が鳴り出す、着信音だ。
「白川睦千からだよ」
青日の心臓がどきり、と音を立てた。声を出せないでいると、葵は応答のボタンをタッチして、もしもし、と話し始めた。
『やぁ、月曜日の爆弾魔さん』
スピーカー越しに睦千の軽やかな声が聞こえる。
「爆弾探しは楽しんでもらえたかしら?」
『なかなか良かったよ。素敵なメッセージもありがとう』
「喜んでもらえて良かった」
睦千が芝居かかった声で話し始める。
『ギャラリー・回廊のポスターの前。八龍でぱあと屋上遊園地の観覧車と、ロマンスって言うアクセサリーショップの指輪のコーナーの下、タウンシネマの一番シアター、喫茶れれれの窓際席、八龍水族館のイルカの水槽前、八龍第三高校の図書館。図書館は一番奥の机の下だったね。これで七つ、君が最初に言った七つの爆弾だ』
「……見つかっちゃった」
『いやぁ、マジで分かんなかった。でもさぁ、一回閃いちゃうと簡単』
ニヤニヤした睦千の顔が浮かぶ。いつも通り、リップを綺麗に塗った唇を釣り上げて、キラキラの目を細めて、美しい悪魔みたいに笑っている。多分、リップの色は赤っぽい色だと思う。
『デートした場所でしょ、青日と』
「正解!」
葵が歓声を上げた。そうだっけ? と青日は内心首を傾げた。多分、そうだろうな、定番スポットだろうし。
『今でも青日が大好きなんだね』
「ええ、そうよ! だからわたしの勝ちね!」
『あら?』
「青日くん、わたしとの事、覚えてくれていたんだ! 青日くんはあなたにわたしの事を話していた! だからあなたは爆弾を見つけられたのよ!」
『ああ、そう言う事。それなら違うよ』
「え?」
『青日は君の事なんかボクに話した事はない』
葵の目元や口元がぐちゃぐちゃに歪む。そして、追い詰めるように呆れた睦千の声が続く。
『青日から君の話は聞いた事はない。ボクは色んな人に手伝ってもらって探しただけ。最後にそういう事と気付いてからは青日が考えそうな事を予測した。恋愛ごとの経験も興味もない青日なら、"デート 定番スポット"なんてネットで検索するだろうし、定番のコースや内容になるだろうって話。水族館とか遊園地とか映画館に行って、オシャレなカフェでご飯食べて、ウィンドーショッピングでもして? 誕生日にちょっと特別なアクセサリーでも贈って。放課後は図書館で勉強デート的な。進学校だったんだってね、青日の学校。青日の家、厳しかったみたいだし、勉強もできて君の相手もできて、放課後図書館デートなんて一石二鳥だったんじゃない? と、考えると、お家デートをしていないって事があるのかなぁって思うわけ。定番だしローコスト、青日から奇怪病が出た時の話は聞いた事あったし』
葵は左手首を握って、青日から身体ごと視線を逸らした。青日も葵の方を見られなかった。睦千が言っている事は本当の事で、誠実じゃない青日の話だ。そして、それを隠しもせずペラペラと話す睦千に腹がほんの少し立ってきた。
『そして、君はボクに嫉妬している。一緒に暮らして四六時中一緒だから。新しい恋人とも思ったかもね? 今でも青日がだぁいすきな君が、青日から傷をもらった場所を特別に思っていないわけがない。でも、七つの爆弾は全部外で見つかった。じゃあ違う? そんなわけがない。確実に爆発させたかった。確実にボクを殺したかった。自分が捕まろうが、他の爆弾が爆発しようがしまいが、八つ目の爆弾さえ爆発すれば良かった』
「……それも、見つけたの?」
『うん。ボクのベッドの下にあった。今、目の前にある』
本気で睦千を殺すつもりなのか、と青日は葵を並んだ。
『これまでと違って、ボクの奇怪病で消せない。ご丁寧に条件付きされている。これ、正しいコードを切りなさいってやつでしょ』
「そうよ。あなたを殺すための爆弾だもの」
『赤と青のコードでいかにもな爆弾だよ。青日にも見せたいくらい』
「おれ、別に見なくていいよ」
『そう』
「それで、どっちのコードを切るの?」
『んー、そうね……』
突然、ガラスが割れて、何かが飛び込んできた。割れた窓から差し込む光に照らされた白い箱だ。箱の蓋から切られた青いコードが飛び出ている。そして、外と電話から睦千の悪魔のような声が聞こえた。
「もうとっくに解除しちゃった」
耳を切り裂くような悲鳴が青日の頭を揺らした。葵が怒りで叫んでいるのだ。そして、割れた窓から誰かが入って来た。
「青日」
絶叫の中でも聞こえる、静かな声。ウィッピンを構えた睦千だ。おおよそ青日の予想通りの服装だった。ただ、白いパーカーの上に白いシアーブルゾンを羽織って、胸元に青日のサングラスをかけていた。白に白を重ねる睦千のよく分からないファッションだ、睦千の顔面でなんかすごい最先端に見えるけど。それを割れた窓から照明の光が照らして、とにかく眩しく、また憎たらしい顔で立っていた。さっきまで会いたくなかったのに、目の前に立たれると自分の中に自信が帰ってくる。だってそうだよ、おれたちは無敵の無能組だもの。
「ここは青が少ないね」
睦千が告げて、窓に貼られていたダンボールをウィッピンで切り裂いた。外に置かれたライトから強い光が車内を照らし、青日は感情のままに景色を塗り替えた。どんな青でもいい、ただ、この場から逃げられるのならば! その時、脳内に閃いた青は真っ青。翻って、揺れていた青いネクタイの色だった。
「……葵」
青日が呼ぶと葵は振り返った。
「葵、ごめんね」
葵の顔が赤く染まる。いつか見た、あの日、青日が逃げたあの時の顔だ。
「なんで、謝るの?」
「おれは、君の心を弄んだ」
「違うよぉ、青日くん。全部あいつが悪いんだよぉ」
真っ赤な顔で、涙を落としながら、葵は青日の頭を掻き抱いた。
「青日くんはちゃんと優しかったよ、どんな理由でも、わたし、楽しかったもん、幸せだったもん。なのに、あいつが青日くんの秘密を喋ったんだよ。あいつが青日くんの優しさは悪いものだって言っているんだよ」
「睦千が言っているのはただの事実だよ。悪い事だって判断したのは、おれ」
「人殺しを庇うの?」
睦千が僅かにみじろいで、手元の白い光が消えた。葵が言っていた事は事実だと知って、青日の心臓はずんと水を含んだように重くなる。
「……おれだって、睦千と一緒だよ。葵を殺すところだった」
「違うよ!あれはわたしが勝手にやったの! 青日くんにもっと構ってほしくてやっただけなの」
「違わないよ。おれが葵を傷付けて、殺しかけたんだ。何も違わない。おれが悪い。睦千はそれを暴いただけ。おれが隠していた事を葵に教えただけだよ。おれは、酷いやつで、睦千も酷い事を言う酷い人間だ。だからお似合いなんだよ」
そんな事ない! 葵が青日の肩を揺らした。
「そんな事ない! 青日くんは良い人だよ、立派な人だよ! あいつとは違う!」
「葵、おれ、もっと酷い事、隠していたよ」
「……なに……?」
葵の手は震えていて、顔に上った血もすっかり引いていた。
「おれ、本当は、恋する感覚なんて、分かんない、無いんだよ」
「…………わたしの事、嫌いだったの?」
「同じ好きじゃなかった。恋が分からないんだ。好きなタイプも答えられないし、生理的反応はあるけど、どんな身体を見ても興奮しない。ラブソングに共感できないし、ラブストーリーもほんとはピンとこない。恋バナについていけないし、彼女が欲しいって思った事も本当はない。葵とのデートもお付き合いも、調べたんだよ。国語とか数学と同じように、勉強しただけ。みんなが言う、恋の好きも、ドキドキも、エロいも、セックスしたいも、おれにはない感情で、みんな、当たり前に恋をしているけど、おれにとっては当たり前じゃなかった。やっぱり恋っていうのが、分からない」
青日は言葉を選んで伝えた。きっと分からないだろうとは思う。それは男女の違いもあるし、自分には有る感情が無い感覚は想像できないだろう。青日が恋する少女の感覚を理解できないように、葵は恋がない青日の感覚は分からない。
「ならわたしが教えてあげる」
「そうじゃないよ、葵。おれには、恋は必要ないんだよ」
ポロリと葵の目から涙が流れた。続けて二つ三つと流れて、肩が震え始めた。
「恋がなくても、おれは満たされているよ。誰かと抱きしめ合わなくても、キスもそれ以上もしなくても、おれは幸せ。葵、理解できなくてもいいから、分かって。おれは、恋がいらない、人間じゃない生き物なんだよ」
青日の足は床についていて、身体は椅子に縛られているのに、無重力の空間に放り出されたみたいに、ぐるぐると回っているような気がしていた。やっぱり青日は恋をしない惑星の宇宙人だったみたいだ。恋と一緒に栄えた文明に馴染めない異生物だ。
「違うよ、青日くん、ほんとに、ほんとに知らないだけだよ!」
「ねぇ、それ以上青日に酷い事言わせないでくれる?」
葵の声を掻き消すような睦千の怒った声が聞こえた。不満げな顔と冷ややかな目で青日と葵を見ていた。でも、その手には白いウィッピン。青日が生きてきた中で、一番近い感覚を持っている仲間、違う惑星の違う住民だろうけど、隠し事ばかりされているけど、信頼もされていないかもしれないけど、でも、睦千は青日にとって最高の相棒だった。
「……あんたのせいだ……」
葵が俯いて小さく呟いて、ゆらりと立ち上がった。あ、と口にした瞬間、彼女の小さい身体はゴム毬のように跳ねて、睦千を押し倒し首に手を掛けていた。睦千も反応できない速度と速さで、ウィッピンが手から落ちて消えた。
「あんたが変な事吹き込んだんだ!」
「葵!」
「……ねぇ、恋って、」
葵の手を首から引き剥がしながら、息絶え絶えに睦千が尋ねる。
「恋、って、そんなに、えらい、……もん?」
「黙れ!」
葵の肩が上がる、睦千の首が締まる、青日は身体を捩り地面に倒れ這って葵を止めようとした。
「葵! やめろ!」
「こいつ殺したら青日くんも目が覚めるよね!?」
「葵ッ!」
目の前がスッとクリアになった。極端な怒りは、冴えきって冷静だ。どうすればいいか、青日は分かっていた。どんな色も、濃く、濃く、より濃く、と塗り重ねていけば行先は黒だ。狙いは葵の視界。手で覆い隠すように、塗り潰す!
「あ、あぁ、ああ……」
葵が睦千の首から手を離し、目を擦る。
「見えない? ねぇ、なんで? 青日くん? ねぇ、どこ、あおひくぅん!」
咳き込みながら、睦千が起き上がると、それと同時に煙師匠が姿を現す。
「白川さん、動けますか? 盛堂さんを止めてください」
煙師匠は自身の煙の奥から手を伸ばし、葵の両手に札が巻かれた手錠を掛けた。噂に聞いていた奇怪病を封じる保安方の手錠だろう。
「奇怪病法第三条において、あなたを拘束します」
葵は何も聴こえていないようで、必死に青日を呼んでいた。青日は何も見ていないようで、全部見ていて、何も聞いていないようで、全部聞こえていた。睦千はようやく落ち着いてきた呼吸を整えもせずに、青日に近寄り、そのなんの表情も映さない顔に、青いサングラスを掛けた。
「……あれ」
見慣れた青色に、青日はサッと色んな感情が戻ってきたのを自覚した。
「がんばったね、青日」
掠れた声で睦千が言って、青日の縄を解いた。
「睦千……」
「帰ろう」
睦千が伸ばした手を掴んで立ち上がると、葵が青日を見ていた。
「葵、全部、隠していて、ごめん」
「……一つ、教えて」
「うん」
「わたしのどこが好きだった?」
「……名前がクラスで一番綺麗で、クラスで一番、制服のネクタイが似合っていたところ」
答えると、葵は顔を床に向けた。
「ひどいよ、青日くん」
そうだね、と青日は返して、睦千に支えられながら外へ出た。
青日が監禁されていたのは使われていないトラムの車両だったらしい。巨匠館地区の隅に追いやられた車両から出てくると、車両をぐるりと囲むように照明と調査方が控えていた。
「……すご……てか、なんでおれがここにいるって分かったの?」
「爆弾の場所の法則を御大に話したら、盛堂の通学手段はなんだ? って訊いてきて、確か電車って答えたら、ここだろうってさ。初太郎と煙師匠が監視カメラの映像でおおよその場所の検討はつけていたみたいだけど、この辺りってカメラが少ないから、それが決定打」
「なるほど。と、言うことは御大は通学路デートしていたんだ」
意外とロマンチックなんだ御大、とニヤけながら車両から出た青日を大狸師匠が抱えた。
「うわ」
「盛堂はこちらで引き取る」
「よろしくお願いします」
「睦千?」
「まだやる事がある」
それだけを答えて、睦千は車両に戻っていった。
車両に戻った睦千は辺りを警戒する。
「群雲さんとやらはまだここにいるんですか?」
「例えば他人の布の中に隠れて移動する、なんて事もできるんだ。布から布への移動はできない。最後、ここに入っていくのは電電社の……あの人」
「初太郎?」
「そう、初太郎さん。初太郎さんが確認してくれたから、ここから逃げていないはずさ」
そうよ、と初めて聴く声が、しかし、煙師匠にとっては久々に聴く声が、響いた。
「群雲」
古びたシートに黒いワンピースの女が座っていた。年頃は睦千と同じくらいか、少し下か。暗い瞳の髪の長い幸薄そうな女だ。
「煙師匠、お久しぶりです」
「群雲、君、どこに。いや、元気か? ちゃんと眠れているのか? 何を、何をしていた?」
「言えません。今日は、お別れを言いに」
ちらりと朝野葵を見る。朝野葵は無表情で群雲を見ていた。それを見て、納得したように微かに頷いた群雲は、師匠、と呼ぶ。
「師匠。わたし、やっぱり師匠のようにはなれません」
それでは、と彼女が立ち上がる。睦千は右手を振ってウィッピンを構えると群雲に向かって伸ばした。青日救出と群雲の確保、それが本日の睦千の任務だ。
しかし、ウィッピンは群雲を掴まず何かに弾かれた。睦千が目を見開いた先、セーラー服にガスマスクをつけた少女がいた。割れていた窓から飛び込んできたのか。黒いセーラー服に赤いスカーフが揺れ、そのスカーフにするりと群雲は姿を消した。睦千が反射的にウィッピンを再び伸ばすが、少女は瞬きの間に姿を消した。瞬間移動だった。
「……」
最後、ガスマスクは立ち去る前に睦千を見ていた、そんな気がしていた。
【日曜日 23:55】
睦千が病室に来たのは随分と遅い時間だった。長時間の監禁となれば一応検査となるのは当然の事で、あの後、青日は八龍病院に大狸師匠の手によって運び込まれた。
「あれ、どっから入ったの?」
起きていた青日が忍び込んできた睦千に尋ねる。
「いづもにごねたら、入れてくれた。内緒だぞ、子虎だって。ムカつくよね。あと、定期検診、次はサボらず来いだって。サボってないけど、ボク」
あのいづも先生が嫌いでしょうがない睦千が、わざわざ連絡をしてやって来た事実と不貞腐れた様子にに、ふふふ、と青日は笑いが込み上げた。
「明日の検査終わったら帰っていいって」
「良かったね」
「時間かかったね。報告書?」
「明日でもいいって言われたけど、早い方がいい雰囲気していたからね。珍しく、ちゃちゃっと書いてきたよ」
「へぇ……それっておれ、聞いていいやつ?」
「ボクも詳しくは知らない。なんか保安方案件っぽい」
睦千は少しだけ嘘をついた。群雲の事は言うなと厳命されている。青日はそっか、と言って口を閉じて、一分ほど黙ると、意を決したように尋ねた。
「……ああいう、逮捕された奇怪病者ってどうなるの?」
「……言ってなかったっけ?」
睦千が慎重に尋ね返す。
「おれに関係ないと思っていたんだよ」
「基本的には奇怪病の封印。奇怪病の封印は聞いた事あるよね?」
「うん。あんまりにも制御できない奇怪病、恐怖症系の奇怪病者のうち、心身に重大な弊害が出た場合、奇怪病を封印、使えなくなるするってやつでしょ……おれに、関係ないと思っていたよ、これも。だから、あんまり考えた事なかった」
「八龍にいると奇怪病を『無くす』っていう発想あんまりしなくなる。ここは奇怪病がある方が当たり前で普通で日常だから。でも、悪い奇怪病は怪と変わらない。だから、封印する。身体にね、見えない呪文を刻むんだって。痛くないらしいよ」
そう、と青日は答えた。二人の間に沈黙が落ちる。睦千は静寂につられて重くなった口をゆっくりと開く。声は少し掠れていた。
「あのさ、あの人が言っていた事」
「どっちでもいいよ、嘘でも、ほんとでも」
諦めたような言い方で言われて、睦千は言葉を飲み込んだ。途端に青日が分からなくなって、自分の事も分からなくなった。ただ、軋み始めた二人の空気をどうにかしたかった。だが、睦千が言おうとしていた事は、この噛み合わなくなった二人の空気を徹底的に壊すかもしれなかった。だから、睦千は言うのをやめた。
白川睦千は二人目の相棒、波多野小羽留を殺した、間違いなく事実である。それを青日に言わなかった。その事をちゃんと伝えたかった。
「…………ごめん、変な事言った。睦千も帰って休みなよ、おやすみ」
睦千の戸惑いを感じ取ったのか、青日が布団を被り睦千に背を向けた。睦千もおやすみとだけ言って、病室を出て、家路を辿った。自然と足音は大きくなる。
青日にムカついた。心底、本当に心底、ムカついた。伝えたい時に、伝えさせないその態度が腹立たしかった。
今、睦千は聞いてほしかったのだ。誤解されて、青日が相棒じゃなくなる方が嫌だったから、逃げていないで話さなくてはと思った。確かに二人の間に信頼なんて立派なものがあるか、怪しいだろう。睦千は、青日が奇怪病を暴走させるんじゃないかと心配だった、これは確かな不信だ。だが、睦千は青色のコードを切った。そういう信頼はあった。睦千は、青日に命をかけられる。どうやら、そうらしいと初めて知った。それと同時に、青日は睦千を信じられないんだと思い知った。それも当然だと理解はできる。睦千はたくさんの事を隠しているから、信用はできないだろう。だが、その隠していた事を開示しようとした気持ちを受け取ってもらえなかった事が、ただ、怒りとなって足音になる。一昨日は聞いてくれたから、尚更。ドンザンゴンゴンゴンゴンと足音がより一層荒々しくなる。ゴンゴンゴンガンガゴガゴバシャ
「あ」
暗がりで見えなかった水溜まりに足を突っ込んでいた。じわと靴の中に水が染み込んで、クソ! とすぐ脇に積まれたゴミ袋を蹴った。中身は零れなかったが、足の裏にぬるりとした感覚が触れた気がして、睦千の苛立ちは頂点に達する。怒りのままに、ウィッピンを伸ばしてビルの屋上に上り、走ってはウィッピンを使い飛び移り、また走った。
家まで走って、荒々しく玄関を開ける。昨日、自分が脱ぎ捨てた泥がついたヒールと汚れた玄関が目に入って、睦千はようやく頭が冷えた。ズルズルと扉にもたれかかって、荒く息をしながら、頭を抱えた。
明日、靴を洗って、玄関も掃除して、青日を迎えに行こう。きっと、明日には、青日もいつも通りだ。だって今日は、日曜日だ。ゆっくりと靴と濡れた靴下を脱いで、リビングに入る。電気を付けて、何気なく壁掛け時計を見た。
時刻は〇時二十四分とっくに日曜日は終わっていた。
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