第7話 オフィーリアを探せ

【5月11日 午後3時】

 男がふらふらと歩いている。陽が射さない路地は薄暗く、遠くから人々の話し声とどこかで鳴らされた銅鑼の音が聞こえていた。しかし、男の耳にはそれらの音は聞こえていない。男の頭の中には彼女の声しか聞こえない。その声に呼ばれるまま、路地の奥へと進んでいた。

『あんなに美しい人、あなたが好きになってしまったら、どうしましょう』

「心配ないさ」

 男は優しく、小さく呟く。彼女の言う通り、路地の奥には美しい女性が1人で立っていた。長い栗色の髪、そこから見える小さな顎と、薄桃色の薄い唇、灰色のブラウスにクリーム色の長めのタイトスカート、黒いショートブーツ、上品で清廉された雰囲気は周囲を宗教画のように神々しく見せていた。

「こんにちは、いいお日柄ですね。こんな日に出会えた、お美しい貴女へ、この花を」

 彼女へ花冠を差し出す。彼女はふと現れたそれに驚きながら、手を伸ばす。そう、ここは奇怪病都市八龍、これくらいの摩訶不思議に驚く事はない。

「綺麗な、お花ですね」

 彼女のか細い声が聞こえた。まるで小鳥の囀りだ。彼女が微かに笑い、長い前髪が揺れて、その奥に隠された瞳が見えた。目尻がスッと長く、長いまつ毛が美しい流線形を描いている。ゆっくりとまばたきをする薄い瞼の下、深い緑色の瞳が静かに花を見つめていた。

「ありがとう」

 そして、彼女の白魚のようなするりとなめらかな指先が、花冠の花に触れた。

『嗚呼! なんと汚らわしい!』

 水が、水が、水が、足元に満ちていく、満ちて満ちて満ちて、わたしは水となって、女の足をからめとって引きずりこんで肺を水に沈めてやる、すそが広がってオフィーリアのようねでも彼にとっての唯一はこのわたしよあんたみたいな泥棒猫じゃないわわたしを肺まで満ちさせてわたしがあんたになってわたしが愛されるわたしならあの人の何も奪わないわあの人が舞台に集中できないような事はしないあの人に一番似合う衣装はわたしが知っているわたしだけがあなたを支えられるわたしがあなたをこの世界で一番理解できるわたしはあなたに全てを捧げるわあなたもわたしだけよねわたしが運命の女よねわたしが唯一よねわたしはあなただけよあなたのためならなんでもできるわだからそばにいてわたしを忘れないでわたしだけって言ってねえなんで忘れようとするのなんで未来を見るのなんでわたしがそれを望んでいるはずだと決めるのわたしあなたのそばにいたい忘れないで上書きしないでわたしよりいい人なんて見つけないでわたしを狂わせないでわたしきれいな女でいられない嫉妬で醜い女になってしまうあなたが離れていくって思うだけで怖くて怖くて怖くて堪らないのごめんなさいあなたの幸せを願えなくてでもあなたわたしだけって言ったのにもう忘れたのあなたが殺した女がいたのにわたしのためならなんだってできるって言ってくれたのにわたしの事をずっと一番にしておく事はできないのわたしあなたのためだったら何でもしたのに死体だってずっと隠して来たわだって見つかったらあなた困るでしょ困らせてあげても良かったけれどもいいえそんな事できない



「もういい? ボク、その手の呪詛は聞き飽きているんだ」



 暗い水中を白い光がピュンと切り裂き、一瞬気を取られる、自分の内部に虚無の空間ができた、得体の知れないそれに狼狽えている間に飲み込んだ人間が水中から飛び出した。抜け出せない自分の異空間から脱出されたのだ!

「うえ……その水腐っているよ、替えた方がいい……」

 彼女はずぶ濡れた姿で、先程とうって変わって品のない仕草で口の中に入った水を吐き出し、頬に張り付いた花びらを取っていた。か細く繊細な声はどこに流されたのか、少年のような声で話す。

「さて、2年越しにご対面かな、オフィーリア」

 彼女は自分の髪の毛をかき上げ、そのまま長い髪を引き抜き地面に叩きつけた。茶色の汚いモップのようなかつらが地面に落ちて、地毛らしいプラチナブロンドが路地裏で光る。上げた顔は、やはり芸術品のように端正であったが、緑色の瞳はらんらんと輝き、引き攣り上がった口元から見える八重歯は野性の獣と称しても不足ない。間違いなく、生きている人間だ。

「あんたは、だあれ?」

「女でも男でもないよ。福薬會怪調査方、白川睦千、以後お見知りおきを」

 睦千は丁寧に手を胸に礼をした、ボウアンドスクレープ、西洋風のお辞儀だ。



 礼を終えた睦千は飲み込んだ水を吐き出すように咳払いをすると、自然な仕草でウィッピンを手に掴み男めがけて打ち付けた。男は人間離れした動きでかわす。明らかに男に怪が取り憑いている。憑依型の怪だ、少々厄介になる。

「へーい、睦千、捕まえたか?」

 隣の34号館に隠れていた昇市が現れ、呑気な声で睦千を呼ぶ。睦千はその間にもウィッピンを振り回し、男を捉えようとしている。

「条件は満たした、知夜、青日を返してもらえると嬉しい」

 昇市の後ろから姿を見せた知夜は目の前の男を視界に入れて、昇市を見上げた。

「おう、そいつが連続女性失踪事件の犯人だ。気配が一致している」

「条件は満たされました。対価をお返しいたします」

 告げた知夜は掌に収まるくらいの青いガラス玉を取り出し、地面に落とした。

「……ったく、ダーリンは水もしたたるいいツラしているけど、今回はそれで許せないほどむっかつくなー」

 割れたガラス玉が光り、そこから人影が浮かび上がる。

「ごめんね、ハニー。ちょっと可愛すぎたから、大事にしたくって」

 ガラス玉から解放された青日はむくれた表情のまま、睦千の方へ歩いて行く。そして、真後ろまで来ると、睦千の後頭部を力いっぱい叩いた。

「いて」

 それから手に持っていた睦千のフライトジャケットを渡した。睦千はそれを羽織った、ちょうど、水に濡れて寒かったのだ。そして、いつも通り、ジャケットのポケットに入れていたリップを取り出して、手早く塗る。今日は落ち着いた赤色だ。

「じゃあ、やろうか。これはおれ達の事件だよ。おれ達で解決しなくちゃ」

 すっきりした顔で青日は睦千の隣に立った。その瞬間、視界が青色に塗られた。



【5月11日 正午:つまり3時間ほど前】

 図書館で怪の美学を見つけた後、更に睦千は森川の写真で何か見つけたようで席を外した。青日はその間、ハムレットを読んでみた。数ページで飽きると、睦千が帰ってくるのを待つ。10分ほどで戻って来た睦千は行くよ、と青日に声を掛けた。

「どこに行くの?」

「まだちょっと時間あるから、まずは腹ごしらえ」

 巨匠館地区まで戻って昼食を済ませる。今日は頭が豚の店主が揚げるトンカツ屋だ、見慣れてくると頭が豚でも何にも気にしなくなるし、トンカツはここが一番美味しいと睦千も青日も考えていた。さくさくのトンカツを頬張り、睦千はしっかりおかわり無料のご飯とキャベツをおかわりして腹ごしらえを済ませた。腹が減っては戦はできぬ、この言葉、素敵ね。

 それから34号館と35号館の間の路地に向かった。

「……包子?」

 睦千ったら、腹ごしらえ足りてなかったのと確認のように尋ねると睦千は首を横を振った。

「そいつはまた今度。今回の目的は別」

 睦千は写真を1枚懐から取り出す。缶の怪を浄化している場面だ。

「そういえばここだったね。関係あるの?」

「萩和尚の箒の先。花びらがある」

「これ花びら?」

「と言うか、ボクが見た。それで、例の路流が調べてくれた花びらの位置を確認してほしい」

 青日は睦千が差し出した地図を見る。物物3番通りと6番通り、21号館の横、35号館と37号館の路地、84号館の路地、規則が分からず首を傾げて、睦千にねだる。

「ねー、分かんないから、答え教えて?」

「可愛い青日に免じて教えてあげる。この花びらの位置、魔法少女の変質した噂の位置と結構被っている。それ以外の場所も、最近怪が出たらしい。春田さんに確認してもらった。原西純が見つかった場所、あの近くで怪を倒したのはボクらでしょ?」

「……オフィーリアも花房くん達の仕業って事?」

「要因の1つじゃないかな」

「ちゃんと説明してもらえますか、センパイ」

 路地の入口から声が聞こえた。聞き覚えがある声は知夜のものだ。後ろには花房もいる。

「さっきの説明だけで納得はできないですよ。2年前の怪とわたし達がなんで関係あるんですか」

「俺達のせいで、誰か良くない事に巻き込まれたの?」

 知夜の後ろで、怯えたような様子で花房が睦千と青日に問い掛ける。

「誰のせいって言う事はない。強いて言うなら、2年前、この怪を見つけられなかったボクらのせいだね」

 睦千は冷静に語る。

「花房は怪に狙われやすい。でも、怪に襲われやすい人っていない」

「どうして?」

 青日が無邪気に尋ねる。

「怪はお化けや幽霊じゃないから。お化けは幽霊は、ターゲットは基本無差別で、その道を通った、そこにたまたまいた、とか男だったから女だったから、とかそんな感じ。でも、怪は怪の美学によって人に害をなす。『複数の怪』に、ほぼ『同時期』に、美学を見つけられて『襲われる』っていうのは、まずない。他人のフェティシズムを刺激しやすいボクが言うから、ほぼ間違いないと思う」

「睦千が言うと妙に説得力出るな……でも、確かに魔法少女事件は美学に共通性はなかった」

「そう。なら、花房くんが襲われたのはどうしてか。花房くん、君の特性は怪を引き寄せるんじゃなくて、怪を活性化させるものだ」

 花房は驚いたように口を開けて、それから悲しげに視線を足元に落とした。知夜はその顔を見て睦千に怒鳴る。

「だから何ですか! 花くんは怪を活性化させてしまうとしても、そのあと、怪を害のないものに変えているんじゃないですか!」

「怒んないでよ、重要なのは活性化させている事。この路地、前も来た事、あるでしょ」

「あ、はい、そこの包子を買いに」

「いいな、包子」

「睦千、説明」

「あーはいはい。この路地で最近元気なトマト缶に襲われた。その時の写真がこれ。ここに花びらが写っている。この花びらは君達が騒ぎを起こした他の場所でも見られている」

「それで?」

 青日が再び写真を見ながら問い掛ける。

「この辺り、まず花屋はない。花を植えているような場所もない。そして、缶の怪。あいつはここの路地を荒らされるのが嫌いだった。加えてこの日、ボクがここを閉鎖した。だから、ここは通れない道だった。でも、ここに水溜まりがあった」

「水溜まり?」

「小池真優は湿った路地裏。原西純も水道管の水漏れの場所。ベンチの傍に湖。ここから共通点を見出すなら水。つまり、怪の異空間の出入口には水が必要」

「おれが踏んだ水溜まりが出入口だったって言うの?」

「二回目に来た時、水溜まりがなかった。短時間で日陰の路地の水溜まりは乾かない。そして花びら。つまり、出入り用の水溜まりを怪が作り出していて、不必要になったら痕跡を消していた。でも、流された花びらはそのまま地面に残っていた。恐らく、花房くんに活性化されたオフィーリアはここに顔を出したけど、口うるさい同類に追い出されてここの出入口を閉じた。だから、水溜まりが消えて花びらが残った。他のところもそんな感じじゃないかな。顔を出しやすい場所に惹かれて行ったら、同類が暴れていた。だから逃げた」

「はあ……辻褄はあっている気がする。でも、なんで萩和尚は気付かなかったの?」

「青日さ、森川さんの香水、何か分かる?」

「え? 突然だね……うーん、匂いしたかな……?」

「人間、意識しないと情報を得られない。青日は森川さんから情報を得ようとしていないから森川さんの香水が分からない」

「萩和尚もここにもう1体怪が来ていたと思わなかったから、気配を見落としたって事?」

「きつい香水を嗅いだあと、しばらく鼻の奥に残るような感じがしない? 萩和尚も怪の気配が残っているような気がするな、くらいにしか思わなかった。特にオフィーリアの怪は気配が飛び飛びだし」

「なるほどねえ……どうでもいいんだけど、森川さんの香水って何?」

「女物っぽい感じの。彼女にかけられたんじゃない?」

「へー。でもさ、ここからどうするの? 八龍中の水溜まりを萩和尚に調べてもらうの?」

「いや、ここで花房くんをダシに姿を現すのを待っている。さっきも確認したけど、最近、ここよく通るんだよね」

 知夜がムッとした顔をしたが、花房は照れくさそうに笑いながら答える。

「はい、あそこの包子にはまっていて」

「なら、ここが一番可能性が高い」

「センパイ、花くんを囮に使うんですか?」

 知夜が険しい顔で問い掛ける。

「いけない?」

「そんな危険な事、させるわけない」

「元はと言えば、君達だって要因だ」

「自分達が解決できなかった責任だってさっき言っていたじゃないですか」

「それを言われると、しようがないな……」

 睦千は1分ばかし口を閉ざし、再び、知夜、と呼びかけた。

「知夜、運命の出会いっていうやつを作り出せる?」

「おとぎ話はたいてい運命の出会いってやつをしていますから、作れますよ」

「そこで、ボクも運命の出会いってやつが欲しいんだよね」

「睦千、なんか思い付いた?」

 暇そうにしていた青日が問い掛けるが、睦千は答えない。

「ですが、魔女との取引には対価が必要です。シンデレラは12時の鐘で魔法が解けて、人魚姫は足を手に入れるために声を渡した。野獣には元の姿に戻るための条件があった。魔法に永遠はなくて、時に代償がつきものです」

「なるほど、代償さえあれば運命的にボク達が追っている怪に会えるんだ」

「……ねえ、睦千、何言ってんの?」

 睦千は青日の問いには答えない。青日は嫌な予感がしていた。睦千がこっちを見ないから、ろくでもない事を企んでいる。そういう楽しい企みには是非ともおれも混ぜてほしい、黙っているのはナンセンスだ。

「では、センパイ、代償は?」

 睦千は自分の服装を確認した。今日はお上品な気分だったから、ブラウスにふくらはぎを隠すタイトスカートと黒の編み上げショートブーツ、いつものフライトジャケットだ。ジャケットは邪魔、と脱いで青日に押し付ける。青日は首を傾げながら流れるまま受け取った。

「よし。対価は、青日で」

「はあ? 睦千ふざけているの?」

「……これは、随分思い切りますね」

「睦千先輩、やっば……」

 知夜が驚いたように呟き、後ろで花房も目を丸くしている。

「大事な相棒を人質にするよ、ディオニス王」

「……分かりました。なら、刻限はいかがされますか?」

「青日は激怒した!」

 青日は暴虐無人の相棒の顔を睨んだ。睦千は青日の声が聞こえていないようにそうだな、と考えている。その顔は、今日も今日とて、というか解決の糸口を見つけて晴れ晴れとして、いつもよりいい顔だ、ムカつく。分かってはいるけど。早急に怪を見つけなくては次の被害者が出るから、どうにかしておびき出さなくちゃいけないのは、分かっている。でも、大事な相棒抜きで話を進める必要はなくない?

「今日が終わるまで。時間はないけど、対価にはあっているはず」

「解放の条件は?」

「ボクが怪と遭遇したらでいいかな?」

 知夜がにっこりと、それはとても可愛らしく笑った。

「センパイ、本当、冷たい人ですね」

「これ以上のいい方法が思いつかなくて。呑気にしてもいられないし。だから、ダーリン、ちょっと待っていてね」

 青日の意識は曖昧になるが、1つだけ決意した。後で殴る。セリヌンティウスも殴ったから、おれも殴らなくちゃだめだ。




 奇怪病を使った知夜の手に、青いビー玉に変わった青日が転がり込む。

「あなたが望んだ待ち人に会えるよう魔法をかけました。でも、望んだ結末になるかは、センパイ次第です」

 睦千は昇市に連絡をしながら知夜と会話を続ける。

「人魚姫みたいに?」

「ええ。人間とは、奇跡を起こす生き物であって欲しいので」

「若いねえ」

「魔法が完璧な何かだったら、わたし御伽話が好きなままでした。でも、魔法は完璧じゃないから人魚のひいさまを助けないし、12時で解ける。だから嫌いなんです。それよりだったら人間の奇跡の方がマシです。現実ですから」

 睦千はふふふと笑った。

「なんですか? 馬鹿にしていますか?」

「いいや。そのままで生きていけばいいよ。そう考えられるのも君の素敵な個性」

 そう言った睦千は一度路地を出ると、小道具を買いに行った。かつらである。別になくても良かったけど、こういうのは気分が大事だ。上げてこ、気分。時刻は14時、これから決着の時間だ。



【5月11日 再び午後3時:青日がガラス玉から出てきた直後】

「知夜ちゃんと花房くん、手出し無用だよ。これはおれ達の事件だし、2年前の決着をつけなくちゃ」

「分かりました」

 青日の宣言に知夜が答え、花房を庇うように立ち塞がる。

「知夜、危ないよ」

「花くんよりわたしの方が強いから、大丈夫」

 睦千は高校生2人が後ろに下がったのを確認して、青日と目を合わせた。左右対称の泣き黒子と、丸く、大きな目が下から睦千を見ている。

「青日、行こう」

 ウィッピンが地面を叩くと同時に青色が溢れた。怪はその中で何かを呟きながら頭を抱える。このまま大人しくなるかと思ったが、怪は咆哮し突進した。

 青日は睦千の前に立ち、怪の身体を投げ飛ばそうとした。しかし。足元が揺れバランスを崩した。足元に水が流れている、そこへ引きずりこむように手が青日の足首を掴む。掴まれたと思った瞬間、白い光が手を打ち払い、そのまま地面を打ち付けた。手が離れたと同時に壁に張り付くように回避する。突進してきた怪は睦千が蹴り飛ばした。今日のショートブーツは7センチのピンヒールだ、それが男の腹に食い込む。すかさずウィッピンで縛るが、すぐに地面から水が滲み始める。睦千は舌打ちをして縛るのをやめ、地面に打ち付けて異空間への入口を無効化する。再び自由になった怪は睦千に向かうが、青日が迎え撃つ。睦千は青日の身体を避けるように怪の足元にウィッピンを投げ打つ。青日は踊るようにステップを踏みながら男の身体をかわし、時に腕や足で殴ったり蹴ったりと男の身体から怪を切り離そうとした。

 昇市は箒の柄に力を込めて地面を掃いた。怪は錯乱したように男と女の声で叫び続けている。

「ああ! どうして! 愛していたから殺したのに!」

 水溜まりがあちこちに急に湧き出す。睦千は舌打ちを1度、ウィッピンで封鎖して全てを閉じる。逃がすわけにはいかない、何のために相棒から1発貰ったと思ってんだ。

「あなたしかいなかったのに目移りなんて!」

 怪が青日の腕を掴む。

「ねえ分かるでしょう!」

「お生憎様! そういう感情は知らないからさ!」

「恋を知らないなんて! まだまだお子様なのね!」

 このおしゃべりな怪は馬鹿にしたように笑う。

「だから何さ」

「こんなにも素敵なものを知らないなんて!」

 勝ち誇ったように怪は笑うが、おれはその笑顔を馬鹿にして笑った。

「恋を知らない事が悪い事なわけないじゃん!」

 おれは、恋を知らないし分からないし、不必要だ。おれは、恋をしない人間だ。ないものの証明は難しいけれども、誰かに恋する事も発情する事もない。誰かを『好き』と思う気持ちがあるけれども、誰かにドキドキする事も、誰かとセックスしたいも、どんな子がタイプかも、初恋も、恋バナも、おれには分からない世界だし、その感覚が欲しいとも思わない。そういうセクシュアルだ。恋愛感情を抱かないアロマンティック、性的欲求も抱かないアセクシュアル。おれはそれだ。他人に恋愛感情も性的欲求も抱かないんだ。寂しいって言う? おかしいって言う? 最近流行りのそういう何かとか言う? いつか分かるよも、運命の人に出会っていないだけも、これから恋に落ちるんだって、言われた事があるし、そんな事があるのかと疑問に思う人もいるだろう。でも、おれが睦千に恋していないのはどう説明するの? 睦千は出会った人を、本人的には非常に不本意ではあるが、恋に落とす天才だ。それでも、おれは睦千に恋していない。初めて出会った時、こんなに整った顔の人がいるのって思った。一緒に過ごしてみて、本当に楽しい。冗談抜きで、世界で一番好き。でも、この『好き』は恋じゃない。

 普通じゃない八龍でも普通に恋は生まれて育まれる。だから、おれはこの中にいても異質なものだ。

 でも、この異質なおれが都合いいって言う相棒がいて、ただ、隣にいる誰かを欲しがっていた。そんな時に、おれと睦千は出会った。幸運な事に、おれ達の価値観は似ていて、松に鶴、竹に雀、梅に鶯、おれに睦千、最高の組み合わせだ。この世界で一番、おれが睦千と『ただの相棒』になれる。この関係にこれ以上の名前は必要ない。誰かが愛だと言っても、おれは愛とは呼ばない。名前を言い換えたに過ぎなくても、ただの『好き』だと言っていたいんだ!

「いいよ、もっと素敵なものを知っているから」

 地面を強く踏みしめ、青色を深めた。青は安心できるもの。睦千は論外、今、あいつが一番信用できない。いいよ、それでこそ白川睦千だ。いつだって、安心させてくれなくて、でも、一番頼りになって、おれとは別の色を持っている、塗り潰せない存在、それが睦千だ!

 怪が一段と嘆く。隙だ、青日の足とウィッピンが男の頭に命中し、白い何かが飛び出す。

「本体だ!」

 白い何かは女の形になる。嫉妬に狂ったように、睦千を見下ろした。睦千は緑色に輝く瞳で笑いかけた。怪はより一層怒りの表情を滲ませ、睦千に向かう。睦千はわざとらしいほどにこやかに笑いながらウィッピンで怪の足を掴んだ。

「和尚!」

 昇市が一際強く、箒を地面に押し付けた。

「白川よくやった! それじゃあお帰り願おうかね!」

 メジャーリーガーを彷彿とさせるような見事なスウィングは、ざあっと風が通り抜けるような音を立て、周りの空気を怪ごと浄化した。

 怪の姿は、もういない。睦千と青日は地面に倒れている男に近付いた。

「……彼女は、俺の恋人だよ」

 地面に寝そべったまま、男が話し出す。

「俺はエリック座の俳優さ、知っているかい?」

「……知っている、久遠寺公貴。ウィリアムズの看板俳優、今のロミオ役」

「そりゃあ、どうも。君は俺のファン? なら申し訳ないな。俺にはたった1人、愛していた女性がいるんだ。死んでしまっても、俺のそばに居続けるような素敵な人だよ」

「さっきの彼女?」

 睦千が尋ねると、久遠寺は微笑み肯定した。

「ああ、そうだよ。ミズキ、俺の一番好きな人さ。彼女はね、復讐したんだ。俺がミズキを忘れて、次の新しい恋人を作って幸せになる、そんな未来が許せなかったんだ。俺はそんな事、しないよって言いたくて、女を連れ去った」

「2年前も?」

 青日が慎重に尋ねる。

「2年前からさ。3人目は俺が殺した。でも、そうしたら、ミズキは、ミズキは!」

 ぴちゃ、ばしゃん、と久遠寺は腕を水溜まりに叩き付ける。

「ミズキの力がね、弱くなったのかな、死体が暴れて、浮くようになってね。だから、2人、連れ去った。変わらず、俺はミズキを愛しているよって、伝えたくてね」

 睦千はもういいよ、と言って久遠寺の腕を掴んだ。

「あなたの愛が正しいだとか間違っているとか、そういうのはどうでもいい。でも、あなたは人を殺した。怪じゃない、あなたが殺した。それは償うべき事」

「……そうだね、もういい、どうでもいい」

 久遠寺が呟くと、包み込むような水溜まりが現れた。

「まだ……!」

 睦千がウィッピンを取り出し、水溜まりに打ち付ける。

「……邪魔をするの……?」

 睦千の耳元で女の声がした。途端、睦千のヒールが地面の中へ、いや、広がった水溜まりの中に沈んでいく。

 なるほど奇跡、と睦千は靴の中に水が浸入するのを感じながら、ぼんやりと思った。どうやら奇跡を起こさせてしまったらしい、怪の愛が睦千の奇怪病を越えてしまった、いやはや、見事な愛。この愛に殺されるのか。それもハオ。誰かのハッピーエンドに必要なら、ちょっとマシな死に方かもしれない、だって刺されてもしようがねえなって顔だし、ボク。いや、今、顔は関係ないな。じゃあ、それはちょっと、ふざ

「ふざけんな!」

 けんな。……そう、ふざけんな、自分の口からそれが飛び出したのかと思った。だって、全く同じ事考えていた。そして、その声が、半分沈みかけていたボクの腕をとって、引っ張り上げた。それに驚いて、ボクは久遠寺の腕を離してしまった。

「お前はそれだけでいいじゃん! こっちはおれの! おれの相棒!」

 青日の不健康そうなひょろっとした身体のどこに、ボクを引っ張り上げる力があるのか、これも奇跡なのか。奇跡でいいか、火事場のなんとかってやつ。きっと奇跡。奇跡、青日が起こせた奇跡だ。

 本当は、青日はボクを選ぶべきじゃない。ボクは1人で抜け出せたし、抜け出そうとした。だから、久遠寺を取り返して、真実を白日の下にさらして、彼に罪を償わせなくちゃいけない。でも、実際、青日が掴んでいるのはボクの腕だ。それがちょっと悲しい。嬉しいのがちょっと悲しいんだ。

「畜生! これで最後だ!」

 青日が睦千の身体を引き上げるのと同時に、昇市の箒の音がした。久遠寺の身体は沈んでいたが、怪は満足そうに姿を現し、そして消えた。

「……浄化した?」

「…………気配はない。あいつもいないが」

 やはり久遠寺の身体はなく、地面もすっかり乾いている。何もなかったようだ。ただ、濡れている睦千と青日と、花びらだけがこの場に怪がいた事を証明する。地面に座り込んでいた睦千は、立ち上がると、やれやれと溜息を吐いた。

「……おれ、怒っているよ」

 その隣で青日は座ったまま、睦千を見上げていた。睦千は飲み込まれそうな時、迷子の子供みたいな顔していたのに、今はケロッとしている。おれがいる事に安心しているんだろうな、と嬉しく思うけど、それとは別に自分を餌に怪を釣ったのは許していない。

「……『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』」

「気取ってんじゃないよ、この馬鹿」

 知る人ぞ知る、太宰の名言、檀一雄著『小説太宰治』を参照されたし。メロスの元ネタと名高い、借金のかたに熱海に檀一雄を残し、東京に帰ったきりの太宰が、東京に探しに戻って来た檀一雄に述べた一言である。睦千は満足げである。そりゃあそうだろうな、言ってみたいよね、おれだっていつかやり返してやる。それから、青日は大きく、はぁあ、と溜息を吐いて、睦千、と呼んだ。睦千は悪びれた顔なんてしていなかった。いつも通りの不敵で堂々としたお綺麗な顔。おれはそれに中指をお上品に立てて言った。

「愛しているよ、睦千」

 睦千は、驚いたように、へっと笑い、親指で地面を指しながら口を開いた。リップがよれて唇からはみ出していたけど、相変わらず、世界で一番好きな顔をしていた。

「ボクも愛しているよ、青日」



【後日】

 久遠寺公貴と行方不明だった女性が34号館と三38号館の路地に現れた。全員死亡かと思われたが、福田蘭は一命を取り留めていた。そして、彼女から事件の詳細が語られた。

 2年前、久遠寺公貴と奇怪病者・朝比奈ミズキは恋人同士であった。だが、久遠寺の度重なる浮気によって2人は別れた。

「別れを切り出したのは久遠寺さんの方だったみたいです。ミズキさんは捨てられた。それから彼女は、自分の奇怪病の中に閉じこもるようになったんです」

「『オフィーリア憧憬症候群』、水を出入口にして、水と花に満たされた異空間を作る奇怪病、だね」

 青日は資料を思い出す。あの後、僅かな情報を頼りに、福薬會の奇怪病者一覧から見つけ出した奇怪病者だった。彼女は小池真優の失踪後、八龍を囲む壁から飛び降りている。遺体は見つからず、行方不明となっていた。

「はい。彼女の竜宮城で、久遠寺さんがどうしたら自分のところに戻ってくるのか考えていたら、浮気をした女の人達が許せなくなったんです。だから、連れ去った」

「それが滝川さんと河瀬さん、小池さんだった」

「小池さんは違います。小池さんは、巻き込まれただけです。2人がいなくなった事を知った久遠寺さんはミズキさんを訪ねました。そこで、復縁を提案したんです。久遠寺さんが、何を思っていたのか、それは分かりませんが、多分、その時は、本気でミズキさんの事を愛していたんだと思います。だから、ミズキさんが、自分を愛しているのか証明してと頼んだ時、近くを歩いていた小池さんを殺した。そして、言ったんです」

 福田蘭は顔を上げ、2人を見つめて言った。

「君を愛しているから、君以外は誰も必要ない。だから、虫を潰すように、簡単に殺してしまえるんだ」

 ぞっとしますね、と彼女は笑った。

「ミズキさんは、困って、でも、嬉しくて、でも、やっぱり悲しくて、とにかく色んな感情がごちゃごちゃになったそうです。でも、この死体を隠さなくてはならない、ミズキさんは奇怪病を使って小池さんを隠しました。でも、久遠寺さんに殺人を犯させてしまった後悔で、自分は彼の元からいなくなるべきだと考えました。それで、海に飛び込んだ。その一方で、彼の秘密を守り続けなくてはいけない、だから死んではいけない、たとえ、怪になったとしても」

「それで、2年間、立派に隠し通した。見事だ」

 睦千は呆れたように、無表情のまま淡々と感想を述べた。

「でも、久遠寺さんの中からミズキさんの記憶が薄れていくにつれて、彼女の力は不安定になった。隠していた死体達が少しずつ浮かんできたんです。彼女は、それでいいと思った。けれども、同じくらい許せないと思った。2つの感情がせめぎ合っているうちに、ミズキさんの力が強くなった。連れ去った女性達を隠すだけの力しかなかったのに、最近は久遠寺さんの傍に居られる。幸せになればなるほど、死体が浮きあがってくる。それを知った久遠寺さんは、ミズキさんのためにまた、女の子を連れ去った。愛、として」

 福田蘭は窓の外を見て話し続ける。

「あの人は忘れられない人がいて寂しいって言っていました。でも、わたし、それでもいいですよとは言い切れなかった」

 病室でハムレットの背表紙を撫でながら福田蘭は語る。

「だって、わたしは1人で生きているのに。わたしを1番にできない人と一緒に生きていくなんて耐えられない。わたしは唯一になりたかったのに。だから、わたしはあの人の手を離しました。でも、会いたいと連絡が来た時、やっぱり嬉しくて……嬉しかったのに……殺されなかったのは、あなた達や、遺族の方に真実を伝えるためです。ミズキさん、普通の女の人だったから」

 彼女はもう水はたくさん、山に移住しようかしら、と笑っていた。その顔は晴れやかであったが、声には寂しさの余韻があった。

「福田さん、次はいい人見つかるといいね」

 青日はのんびりと言う。2人はエリック座近くのベンチに並んで座っていた。視線の先には、花。悲劇の男のために劇場の影に隠すように花が捧げられていた。どんな人間でも悲しまれ悼まれる。純度100パーセントの善人がいないように純度100パーセントの悪人もいないのだ。

「あの2人も2人きりなら幸せになれるでしょ」

 睦千は呆れたように言う。その手には先程まで花束があった。オフィーリアになぞらえた可憐な花束、睦千は睦千なりに思うところがあるのだろう。どんなに人でなしを装っても、根っこは善人なのが睦千だから、と青日は花束を投げ捨てるように置く睦千を見ていた。

「ね。ほんと、他人を巻き込む痴話喧嘩なんて最悪だよ。おれ、こういう時は恋を知らない人間で良かったって思うな」

「ボクは、今まで刺されなかった事に感謝している。散々惚れられて、同じだけフッてきたのに、こうして生きているからね」

「これからもそうして生きてね、まだまだ無能組は続くんだからさ」

 青日が笑うと、睦千も表情を和らげた。その脳裏に成維の言葉が響く。

「それで、無能組は卒業になるわけだが?」

 事が事のため、昨日、成維に口頭での報告に出向いた時である。夕方近くの時間だったから、睦千はお腹減ったのに、と不機嫌だった。

「なんかいい呼び名があればそれがいい。白川盛堂組は呼びにくいからな」

「そっちが本題だったりする?」

「さあな。お前達の事は枯らしてやりたいと思うくらいには可愛がっているからなあ。新しい呼び名があれば一番に呼んでやりたいじゃないか」

「えー枯らされたくないな……てか、睦千、なんかある? おれ、なんかしっくりきちゃって思いつかないよ」

「分かる」

「結構気楽でいいよね、無能組」

「ほんとそれ」

「だから、無能組継続でいいよ!」

 青日が元気に宣言する。睦千は今日も青日は可愛い男だな、と機嫌を良くした。

「なら精々励めよ、無能組」

 成維がにやりと笑って睦千と青日を呼んだ。だから、2人はまだ無能組として気楽に八龍を歩いているのだ。睦千は無能組、と呼ばれた瞬間を思い出して、ふっと鼻で小さく笑う。

「それで、今日はどこに行く?」

 青日が立ち上がる。スニーカーがタコンと軽快な足音を立てる。

「この間の包子。まだリベンジできていない」

 その隣で睦千も立つ。白いピンヒールがカツンと鳴いて、シルバーのアンクルベルトが光った。2人の足音が重なる時、睦千は青日が相棒で良かったと思うのだ。

「食い意地張っているハニー、大好きだよ」

「ダーリンはもうちょっと食べてよ、折れそうでボク心配」

「努力しまーす」

「ねね、そういえばあの白猫なんだけど……」





「おこめって呼んでいるよ。お米担いで帰って来て、お米重いなーって言ったらにゃーんって返事したからさ」

 路流は白猫を撫でながら呑気に話す。睦千は夜の散歩に出て、路流の店に来ていた。青日からあの白猫がここにいると聞き、気になって見に来たのだ。

「睦千もおこめって呼んでいたんだろう、この子の事」

「まあね。もともとはお雪様って呼ばれていたけど、返事しなかったし、家出猫だし」

「あーお雪って感じじゃないね、この子。今、この辺りちょろちょろしているから、鰹出汁の匂いする時あるし」

 睦千は路流の手元から白猫を奪い、抱きかかえ吸ってみる。

「……いや、獣の匂い」

「今日はお散歩していたもんねーおこめ」

 睦千の腕の中で不満げに睨んで、ふー、と息をしている。ごめん、と言いながら路流に返す。

「おこめ、楽しそう?」

「さあね。でも、夜はここに帰って来るし、日中は屋根の上で寝ているし、鰹節はたまに盗まれる。のびのびしているよ、ほら、今もうどん生地みたいに伸びているし」

 地面に伸びながら、路流の手にじゃれている白猫は確かにうどん生地だ、蕎麦屋の猫なのに。

「なら、いいけど」

「青日くんも、昨日かな。買い物帰りにおこめと会ったみたいでね、追い駆けてきたら、うちの前でごろごろし始めるからびっくりしていたよ」

「うん。青日から聞いてね。ちょっとボクも見ておこうと思って」

「睦千もたまに遊んでやってよ。おこめ、たくさんご飯食べるから、すぐ太っちゃう」

「でぶでぶに太ったらおにぎりって呼んでやれば?」

「酷いよねーおこめ」

 白猫はにゃあんと鳴く。のびのびとしている。路流は嬉しそうに撫でると、一度立ち上がってカウンターに置いていたビールの缶を2つ手に取り、1本を睦千に手渡した。

「ともあれ、事件解決お疲れ」

「ありがとう」

 プルタブを上げ、缶をぶつけ合う。

「にしても、見事に全部繋がっていたよ」

 一気に体内に流し込むと、ぶるりと寒気が襲った。まだ外で飲むには早い季節だ。

「予知婆が案内に指名した時から、今回の事件に繋がっていた」

「この世の関節を直す役目を与えられたってわけね」

 ハムレットの一節にかけて話す路流を軽く睨みながら、ビールを煽る。

「ちょっともうハムレットは勘弁」

「メロスはうんざりって青日くんが言っていたよ」

「最近、事あるごとにそれ言われる」

「可愛いんでしょ、それが」

 どうして青日が可愛いのか、それを説明するのは難しいけれども、可愛いというのが一番しっくりくる。でも、時に睦千より肝が据わっているなという時もある。この間だって、ふざけるなと睦千を引き上げた。あの男を優先すると考えていたのに、青日は睦千を選んだ。それが正しいのかは、睦千では判断ができない。でも、青日は睦千を助けた、それが事実だ。

「そう、可愛いんだよ、あいつ………………よし、寒いし、帰ろうかな」

 ビールを飲み干して、立ち上がる。青日の事を考えていたら帰りたくなったのだ。

 カラカラと音が鳴りそうなほど、青日の頭は身軽で、笑顔は睦千の頭をクリアにして行く。恐れも、不安も、自己嫌悪も、青日が隣にいるだけで、どうでもよくなるのだ。それが、心地よくてたまらなかった。あの心地よさを思い出すと、途端に家に帰りたくなる。

「そうするのがいいさ。じゃあ、青日くんにもよろしくね」

 睦千は路流と猫に手を振って歩き始めた。歩き始めてすぐに、ウィッピンを出してビルの屋上に上る。ヒールがご機嫌な音を鳴らした。そうだ、ビルを突っ切って直線で行くのが、愛しき日常への近道だ。

 ボクは秘密ばかりだ。それでも、青日はボクを相棒だと言い切る。秘密だらけでも、睦千は睦千だと言い切る。どんな時だって、おれはおれと言い切る事、偶にボクの予想を飛び越える言葉と行動が、青日の薄っぺらい『好き』に、ただ、青日が青日であるだけで、隣にいるだけで、ボクがどれだけ救われたか、あの可愛い男は知らないだろう。それでいい。続けられる分だけ、この日常的で、非日常的な毎日を繰り返していければいい。端的に述べて、青日が変わらずボクと一緒に居てくれればいい。

 世間では、もしかしたら、それを愛とか言うかもしれない。でも、それは違うってば、と何度も繰り返す。

 これは、都合のいい、薄っぺらい『好き』の話。そして、そんな『好き』で溢れた毎日が少しでも続くよう、祈る人間の話。

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