第20話 ケルテノンの朝

 アルティオは夢を見ていた。

 秋も間近に迫った晩夏の空。未だ強い日差しが、あるかなしかの風に揺れる泉の水面をキラキラと輝かせている。

 隣に、アランが座っていた。地べたに直にあぐらをかいて座り込むその男は、その幼さの残る顔に暗い影を落としてうつむいている。


(あぁ、この光景は……)


 アルティオは、この景色に見覚えがあった。

 もう十四、五年ほど前の、忘れられないあの日の景色。アランが勇者一行と共に旅立つ、その一週間前の日の、懐かしい記憶だ。


 アルティオは何も言わずに、そんなアランの肩に頭を乗せ、ぼんやりと空を見上げた。確かあの当時も、同じことをした覚えがある。

 服越しに、アランの筋肉質な体つきと、暖かな温もりが伝わってくる。

 アルティオはそんな温もりを肌身で感じ、きゅっと胸を締め付けられた。


 この男には、自分以外に恋い焦がれている人がいる。

 だが、その一方で自分との関わりを愛おしく思ってもいる。


(板挟み、だな)


 二人の女に恋心を抱き、そのどちらかを選ばなければならない苦しみと、その不誠実な自らの行いへの罪の意識で、この男は押し潰されそうになっている。


 アルティオを選べば、アランは平穏無事な暮らしを送り続けることが出来るだろう。だがきっと、この男はそれを生涯に渡って後悔する。

 かといってディアナを愛することは、塩水に濡れた茨の道を素足で歩くように過酷なものだ。


(アランが勇者ディアナと結ばれることは、決してない)


 アランが村へ連れてきた、あのロゼという小さな弟子が、その事を証明している。


(もし、ここで)


 この男を引き止めれば、どうなるだろう。そうすれば、彼はここに留まるだろうか。

 自分と、結ばれてくれるのだろうか。

 だが、その結末を望んでいないのは、アルティオもアランも、同じだろう。

 そう分かっている。分かっているからこそ、胸が痛い。


(いっそ、今このときが、永遠に続いてくれれば)


 そう思い目蓋を閉じたとき、不意に二つの顔が浮かんだ。

 穏やかで優しく微笑む、少し頼りない夫と、その腕の中で弾けんばかりの笑みを咲かせた幼い我が子。

 アルティオは、ほろ苦い笑みを浮かべた。

 自分には、帰るべき場所がある。


(オレはやっぱり、お前の妻にはなれないよ。アラン)


 アルティオはゆっくり目を開けて、あの日と同じようにアランに言った。


「行ってこい、アラン。ディアナの所へ」


 視界が静かにぼやけ、歪んでいく。

 夢から覚める直前、アルティオは手を伸ばし、力強くアランの肩を抱き締めた。

 さらば、懐かしき初恋。そう、誰へともなく言い放つように、強く、強く。



 *



 重たい目蓋を持ち上げ、アルティオは目を覚ました。

 窓の外から、柔らかな明るい光が射し込んでいる。もう、夜は明けたらしい。


(ここは、狩猟小屋か)


 丸太で組まれた狭い天井を見た瞬間、自分が今何処にいるのか分かった。

 ケルテノンの森の奥には、狩人が急な雨から避難したり、寝泊まりしたり出来る、共用の簡単な狩猟小屋が幾つかある。

 今自分が目覚めたのも、そのいずれかだろう。

 不意に、ぎぃっと扉が開く音がした。アルティオは毛皮と藁の布団に横になったまま、顔だけそちらへ向けた。

 美しい金髪を頭の両側で竜巻のように結った、長身の見目麗しい少女。返り血を浴びたままになった服を来ていなければ、お人形さんのように思えたかもしれない。

 歳は、十四か五か、或いは六辺りだろうか。

 その手に、恐らく水の入っているだろうたらいを抱えて、少女は扉を背で支えながら小屋の中に入ってきた。

 寝起きでぼんやりともやの掛かった頭に、ふとクリスティーナという名が浮かんできた。ご領主の一人娘の、お姫様だ。

 咄嗟に起き上がろうとしたアルティオに、クリスティーナは慌てて駆け寄った。


「そんなに急に起き上がってはいけませんわ!」

「でも……」

「傷に障りましてよ。大丈夫、わたくしがお手伝いしますわ」


 そう言ってクリスティーナは盥を床へ置くと、するりとアルティオの背中へ手を回し、なれた手付きでゆっくりとその体を起こした。


「申し訳ありません。お姫様にこんな……」

「いえいえとんでもありませんわ! アルティオ様のご活躍が無ければ、私達も危なかった。

 それに、そもそもこの森の危機に気付けなかったのはパッペンハイム家の失態。謝るべきは我々の方ですわ。

 謝って済む話では無いと承知しておりますが、本当に、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」


 深々と腰を折り謝罪し感謝するクリスティーナに、アルティオはどうして良いか分からなくなり、同じように頭を下げた。

 そうしてしばらく二人ともそのまま様子をうかがっていたのだが、そうやって二人して頭を下げあっている状況が何故だか可笑しく感じてしまい、どちらからともなく笑みが溢れた。

 二人は笑ったままゆっくり顔を上げ、改めて対面した。

 クリスティーナの装いは、フリルのついた豪勢なドレスに、大きな宝石のついたアクセサリーと、おおよそ戦い向きでは無いように思えたが、その居ずまいからただならぬ猛者の風格が感じられる。

 ピンと伸びた背筋に、決してぐらつくことのない体幹と、豪華な服に隠れて目立たないながらもしっかりと引き締まった体つき。


 その姿を見て、昨日の記憶が鮮明に蘇ってきた。

 村の方角から聞こえてくる、狼どもの弾けとぶ音と少女の雄叫び。

 あのときは自分達も必死だったから、アランが凄い奴を連れてきた、ぐらいにしか感じなかったが、今思い出すと思わず身震いしてしまう。

 人間が、ただの拳一本であそこまで出来るのが信じられなかった。

 その上、それをしていたのがこの可憐な少女だと言うのが余計に、アルティオの驚愕に拍車をかけている。

 自分はどこかのタイミングから、なにか壮大な夢でも見ているのかもしれない。

 そう思い口を開こうとしたとき、アルティオは自分が大切なことを忘れているのに気が付いた。


「アラン……」

「え?」


 自分が気を失う直前に見た、あのコハク色の瞳が脳裏に浮かぶ。

 アルティオは立ち上がろうと足に力を入れる。瞬間、足首に雷が落ちたような激痛が走った。


「ぐっ……!」

「アルティオ様! まだ立ち上がってはいけませんわ!」


 こめかみからにじんだ汗が頬を伝う。痛みに歯を食い縛りながら、アルティオは必死の思いでクリスティーナに問い掛けた。


「アラン……アランは……!?」


 亡骸と化したあの大きな狼に、自分の身代わりとなって弾き飛ばされた男の顔が脳裏に浮かぶ。

 クリスティーナの肩をつかんで祈るように、食って掛かるようにそう問うアルティオに、クリスティーナは小さく微笑み、少し悲しげに呟いた。


「アラン様は……」


 アルティオは全てを悟って絶望し、言葉を失った。

 戦場での油断は、自らだけでなく仲間をも危険にさらす。そう、分かっていたのに。


「嘘、だろ……アラン、オレは──」


 刹那、少し離れたところから、内臓が揺れ動くような、どこか聞き覚えのある声の絶叫が響き渡った。

 ハッとアルティオは顔を上げ、クリスティーナと目を見合わせた。

 クリスティーナは、どこか呆れたような、悲しいような顔で頷いた。


「アラン様はつい先ほど目覚められて、今、ロゼ様から治療を受けております。

 消毒が傷にしみて痛いのが嫌で、今もきっと小屋の中を走り回ってロゼ様から逃げておいでです……アラン様、昔からああなのですか?」


 アルティオはふっと脱力し、乾いた笑い声を上げてその場にごろんと転がった。

 また、アランの絶叫が、辺りにぐわんぐわんとこだました。

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