第18話 “黒狼”
深い闇の落ちた森の茂みから、鋭い矢がルドヴィクの喉笛目掛けて放たれる。
その矢じりが彼に突き刺さる直前、傍らに控えていた巨狼が前足を素早く振り払い、矢を地面に叩き落とした。
ルドヴィクが心底煩わしそうに溜め息をついて、矢の放たれた方向に顔を向ける。
「僕は魔族殺しのアランと話をしているんだ。それを邪魔するなんて言う不愉快な真似はよしてくれるかなァ? エルフの女」
ルドヴィクの視線の先から、どさり、と何かが木の上から着地する音がした。
その間も無く、闇の中からアルティオが姿を現した。矢筒と弓を背負い、右手には山刀が握られている。
ヒスイのような瞳に、隠しきれない殺意の光を宿して、アルティオは言う。
「ヒトの家の裏庭で外来種育てて、そいつに住人襲わせてるクソみたいな野郎に言われる筋合いはねぇよ。
てめぇが腰からぶら下げてる山刀は、オレが亭主に作ってやったもんだ。返せ」
ルドヴィクはそれを鼻で笑う。
「やだね。これは僕が汗水垂らして得た戦利品だ。
今まで色んな模様の彫られた剣や刀を見てきたけど、こいつは格別だ。これを手に入れるのに、黒狼を二十頭も失ったよ」
「そりゃお褒めにあずかり光栄だね。代金はてめぇの首で良いや」
一歩、そう言って前に踏み出したアルティオを、アランは目で制す。
アルティオは小さく「分かってる」と呟くと、アランにしか聞こえないような声でささやいた。
「森の『精霊』が奴に殺到してる。とてもじゃないが、こいつら全部始末できるぐらいの術は撃てない。野郎、相当な手練れだぜ」
魔術は、体内を巡る『内の魔力』を目に見えない『精霊』に与え、呪文を唱えて働き掛けることで空気中に満ちた『外の魔力』を反応させ、はじめて成立するとされる。
術者の素質や生まれによって『内の魔力』の量は個々人で変わるが、『外の魔力』は術を使って消費しない限りは変化しない。
その為、術者には『内』と『外』とを結ぶ『精霊』へ働き掛ける技量が求められる。
『内の魔力』は、いわば精霊を引き寄せる餌だ。
上質な餌であればあるだけ『精霊』はそちらに惹かれるし、放つ量を調節してやれば精霊達を自分の側に殺到させ、留め置くことも可能だ。
いくら『内の魔力』の量で勝っていても、『精霊』が手を貸してくれなければ術は撃てない。
エルフや魔族は、人間や獣人よりも精霊に近いため、一般に魔力の量や質が頭一つ飛び抜けていることが多い。
魔力の質は、鍛練を積むことで高くなるし、放つ量も同様に鍛えれば細かな調節が出来るようになる。
高名で強い術者に高齢な者が多いのはそれが理由だ。
アルティオは優れた狩人であると同時に、優れた術者でもある。
アランもこれまでの戦いで、彼女ほどの術者は数えるほどしか見たことがない。ヴィルヘルムやロゼも、彼女には及ばないだろう。
そのアルティオが唸る技量を持つこのルドヴィクと言う若い魔族の男の底知れなさに、アランは思わず眉をひそめた。
数十頭の狼は、なおも姿勢を低くし二人を睨み付けている。
「勝てるか?」
アランはアルティオにそう尋ねる。
アルティオは、ニッと白い八重歯を見せて笑った。
「背中は任した」
「あいよ」
二人は互いに背を預け、左右を向いて得物を構える。
ルドヴィクが不気味な笑みを浮かべて右手を上げた瞬間、狼達が黒い波のように押し寄せた。
*
二人が森の奥でルドヴィクと対峙する中、集落の方でも動きがあった。
村を囲っていた黒狼の魔物達が、ぞろぞろと茂みや木々の合間から姿を現しはじめたのだ。
集落には、森から脱出しようと他のエルフの村からも大勢の人々が集まり、騒然とした雰囲気に包まれていた。
戦える者たちは皆山刀や弓矢を構えて前に立ち、戦えぬ老人や女子供を背にかばう。
ロゼやヴィルヘルム達も、その戦闘に立って狼どもと睨み合った。
「『精霊』がほとんどいない」
ロゼは杖の先を狼に向けながら、苦々し気にそう呟く。ヴィルヘルムも険しい顔で頷いた。
「どれだけ行けそうですかな?」
「持って数発が限度だと思います。それ以上は……」
「無理そうならいつでも下がって、リーシャ殿やお母君の元へ行って下され。ここは、ワガハイとクリスティーナでなんとかいたします」
名を呼ばれ、ロゼのとなりでクリスティーナが微笑んだ。
「
両拳を構え、腰を低く落としてクリスティーナは自信ありげにそう言い放つと、途端に鋭い眼光で狼の群れを睨み付けた。
「それに、ここ最近倒す魔物全部手応えがなくてモヤモヤしていましたの。久々に骨のあるのが出てきて、正直興奮が収まりませんわ」
溢れ出る闘志を隠そうともせず、口元に凶暴な微笑を浮かべてクリスティーナはそう呟く。
頼もしい親友と、魔王を倒した英雄の一人が両隣に構えている。
それでも、心のどこかで不安を感じているのはきっと、この場にアランがいないからだろう。
(普段はあんなにだらしないのに……)
いざ戦いになると、何者よりも頼もしい。
(お師様が隣にいてくれたら)
そんな後ろ向きな気持ちは、直後に黒い大波のように押し寄せてきた狼の群れによってかき消された。
今はもう、そんなことを考えている余裕はない。
後ろには何百人もの人達がいる。戦わねば、彼らもろとも死ぬだけだ。
(私はまだ、死ねない)
母を呪いから解き放つ。
師と共に、この広い世界をもっと旅する。
ロゼは大きく息を吸い込み、眼前に迫り来る一頭の狼に狙いを定めた。
持って数発。ならせめてそれを放ち終えるまで、ここから一歩も下がらない。
そう覚悟を決め、ロゼが得意の術を唱えようとした、その瞬間のことだった。
「剛ッ!!!!!」
腹の底から震えるようなクリスティーナの喚声が響き、目の前に彼女が飛び出し、目にも止まらぬ速さで拳を前へと突き出した。
ずしん
地響きのような衝撃と風圧が周囲に波打ち広がっていく。
その拳が直撃したものだけでなく、その両隣や奥、衝撃波の正面にいた全ての狼達が、ぱちんと風船のように破裂した。
壁のようになって押し寄せた狼の群れに、大きな穴がぽかりと産まれる。
しばし、辺りの時間が静止した。
困惑するエルフ達。思わず足を止めた狼達。
やや遅れてその場に降り注いだ血の雨が、張り詰めた沈黙を破り捨てた。
クリスティーナは素早く突き出した拳を引くと、血の雨に打たれながら前進をはじめた。
群れの危機を感じた狼達が、一斉にクリスティーナの周囲に集結する。
その光景があまりに壮絶すぎて、ロゼは手に持っていた杖を取り落としていたことに、しばらくの間気が付かなかった。
ずしん
また、クリスティーナが拳を放つ音がした。
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