第17話 黒い獣

 突然の大きな音にぐずりはじめた幼子を抱え、アランが地面に降りてきたとき、丁度時を同じくして別の小屋にいたロゼ達も同様に外に出てくるのが見えた。

 集落の出口から囲い込むように、不気味な気配がうごめいている。無数の目が、じっとこちらの様子をうかがっている様な、嫌な雰囲気だ。


(これが森の魔物か……)


「お師様!」


 向かってきたアランに気づいたロゼが、そう声をあげてこちらに手を振る。

 そんなロゼ達の元に駆け込んだアランは、いよいよ泣き出してしまった幼子をケルティルに押し付け、言った。


「アルティオが森の奥へ行ってしまった。俺も後を追います。この子をよろしく頼みます」


 目を見開いて驚くケルティルが口を開くより前に、その腕の中に幼子を収めたアランはロゼ達の方に向き直ると、


「そう言うことだから、後は頼む」


 と早口で言い残し、なにか言われる前にアルティオの消えた森の奥へ足早に駆けていった。



 森は、漆黒の宵闇に包まれている。

 明かりは、僅かにぼんやりと足元を照らす提げ明かりの火のみ。いつの間にか空は、重たい雲に覆われていたようだ。

 アランは上目遣いで頭上の木の枝を注意深く確認しながら、速度を緩めることなく木々の合間を縫って走る。

 アルティオはアランが自分の向かった方向を見失わない様に、木の上を駆け抜けながら山刀でその枝を巧妙に切り落としていた。

 その為頭上を見上げれば、アルティオの進行方向が一目で分かる。もっとも、アランのように長く冒険者稼業をしている者でもない限り見落としてしまうような、そんな微かな痕跡だが。

 アルティオの後を追うにつれ、次第に血の臭いと獣臭が鼻を突くようになってきた。


 僅かに、森にそよ風が吹いている。顔を撫でていくような向かい風だ。奥に魔物が潜んでいても、こちらの位置が臭いで見つかることはない。

 ふと、アランは頭上の痕跡が消えたのを見留めて立ち止まり、斧槍を構えて近くの藪の後ろに屈んで隠れた。

 すっと、背後に懐かしい気配が忍び寄ってきた。アルティオだ。


「来たか」


 耳許でアルティオが静かにささやく。アランは振り返ることなく声を潜めて問いかけた。


「魔物は?」

「多分この先にいる。臭いで分かる」


 白く細長い指で、アルティオは二人の目線の先を指差す。

 背の高い大きな藪の向こう側。そこだけ樹冠が開けているのが見えた。藪の向こうは、広場のようになっているのだろう。


「一体だけか?」

「わからん。お前が来るまでここで身を潜めてたもんでな。

 でも、気配はでかい。複数いたとしたら、あそこに密集してると思う」


 アランは振り返ることなく頷くと、ゆっくり自身の胸元に手を当てた。


「……準備は?」

「いつでも良いさ。そっちの勘所ではじめてくれ」


 そう言うと、アルティオはまた森の闇に姿を消した。

 アランは静かに立ち上がると、音を立て無いように歩みを進め、背の高い藪の前で止まった。

 藪の隙間から、向こう側の景色が見える。再び身を屈めたアランは、その隙間を覗き込み、そして驚嘆した。


(……!)


 そこには十数頭の黒い狼の魔物に囲まれた、一頭の見上げんばかりに巨大な狼の魔物と、小柄な人間が一人、立っていた。

 小さな狼達はみな地に伏せ、こちら側に背を向けた状態で一人と一頭を見上げている。

 大きな一頭は、大層苛立たしげな様子で唸り声をあげながら、忙しなく辺りを見回し耳をぴくぴくと動かせる。

 そんな巨狼の黒い毛に包まれた体を、小柄な人間がなだめるように撫でている。

 真っ暗なローブを身に纏った、人相の分からぬ一人の人間。側頭から伸びた、剣のように長く鋭いその角から、男の魔族だと言うことは容易に想像がついた。

 男の足元に置かれたランタンに照らされた、ローブの下で蒼白い光を放つミスリルの鎧は、男が“鴉羽侯”黒騎士ミハウの直轄部隊『濡れ鴉の騎士団』の団員であることを示していた。


(ミハウの野郎も、武闘会に一枚噛むつもりか)


 街道のすぐ脇にあるケルテノンの森に拠点を作ることが出来れば、王都とパッペンハイム公領を分断できる。

 その上西方街道を通って、もうじき北方から貴族達が大挙して王都に向かってやってくる。そんなところを狙われては、一溜りもないだろう。


(なんにしたって、ここで止めなくては……)


 そうアランが思ったとき、不意に森の奥から突風が吹いた。

 男のローブが風になびき、腰から提げた山刀が姿を現す。

 その特徴的な彫り細工の施された木製の鞘を目にしたとき、アランは息を飲んだ。

 鹿の角を表す複雑なその細工は、エルフの女が夫となる男に作り、送ってやる代物だ。

 背筋を冷たいものが走る。


 瞬間、視界の端に、凄まじい速さで何かが動いた。

 それがアルティオの放った矢だと気づくのに、そう時間はいらなかった。

 鋭い矢じりの先端が、男の胴の中心に向かって、吸い込まれていく。

 ローブの下の男の口が、心底愉快そうにぐにゃりと歪んだ。


パン・レノ・パノーレ獣操魔術


 男がそう唱えた刹那、伏せていた狼達のうちの一頭が、何かに弾かれるように跳ね上がり、男と矢の丁度間に飛び込んだ。

 ざくり。毛皮が破れ、肉が裂けて血がしぶきをあげる音が辺りに響いた。

 アランは咄嗟に藪から飛び出すと、斧槍の穂先を向け、正面から男の喉笛に飛び込んだ。

 男は胸の高さで右腕を横一文字に薙ぎ払う。

 地面に伏せていた狼達が一斉に立ち上がり、アランに向かって飛び掛かった。

 その赤黒く光る瞳はどこか虚ろで、生気がまるで感じられない。


 アランはその場でたたらを踏むと、突き付けていた斧槍を半月状に薙ぎ払った。

 穂先が先行していた数頭の鼻先を掠めて、僅かに地面に血が跳ねた。

 しかし狼どもは見事な身のこなしで一斉に後ろへ飛び退くと、斧槍の届かないぎりぎりの範囲で姿勢を低く保ちながら、牙を向いてアランを睨み唸った。

 巨狼と、他にもう二、三頭の狼はしっかりと男の周りを固めている。

 これではアランはおろか、アルティオも下手には動けない。


 場が完全に膠着こうちゃくしたのを見計らって、男が楽しげに口を開いた。


「久しぶりだな、“魔族殺し”アラン。僕のこと、覚えているかい?」


 男はばさりとローブを脱ぎ捨て、素顔をさらした。

 黒い短髪に紅い瞳をした、まだ二十そこそこの若い魔族の男。その顔には、左眉から右頬にまで至る大きな深い傷痕が残っていた。

 濡れ鴉の騎士団にいた、若い魔物使いの男と、その顔についた大きな傷。

 それらの情報を頭で整理し、アランはようやく男のことを思い出した。


「十三年前。大陸中部エデナ平原で、俺達の補給部隊が黒い狼の魔物襲われ半壊した。俺はそんなことをしでかした野郎を探すよう言い付けられた。

 それから一週間後、俺は近くの森でまだ十歳かそこらのガキの魔族を見つけた。真っ黒な狼どもに囲まれて、気色の悪い笑みを浮かべた、ミスリル鎧のクソガキだ。

 お前だろ? 濡れ鴉の騎士団最高幹部『三羽烏』の一人、“黒狼”のルドヴィク」


 魔族の男は心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべて、大きく何度も頷く。

 その喉笛に、また鋭い矢が放たれた。

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