第五章 聖都街道

第34話 萌芽

「あなた方には心底……失望しました。まさかここまで愚かだったとは」


 大陸東部。かつて魔王領と呼ばれた地域の春は遅く、平原は未だにうっすらと白い霜に覆われ、空にも重い雪雲が広がっている。

 そんな冷たい大地の真ん中で、白い息を荒く吐きながら、一人の男が呟いた。その周りを、武装した数十名の魔族達が囲っている。

 箆鹿ヘラジカのような巨大な一対の角を側頭から伸ばした、巨木のような大男。

 見上げんばかりの巨躯はボロボロに擦り切れた布で覆われ、顔は龍の頭骨で隠され、眼窩がんかの穴から赤銅しゃくどう色の瞳が覗いている。

 全身をすっぽりと覆うボロ布に隠れた左腕は肘から下が失われて見えないが、残る右腕はその指先が地面に掠りそうなほどに大きく長い。

 他の魔族と比べても明らかな異形であることは、言うまでもない。

 長く伸びて垂らされた白髪混じりの黒髪は、今や己の血で濡れそぼっていた。


「ヤドヴィガ、私からの最期の忠告です。黒騎士ミハウは、あなた方の理想を実現してくれるような者ではありませんよ」

「天主教に魂を売った裏切り者が、軽々しく私の名を呼ぶな、“圧壊あっかい”!!」


 大男に呼び掛けられ、一人の女魔族が金切り声のような怒号を発する。大男は、思わずフッと苦笑した。


「魂を、売った……そうですね、その通りかもしれません。しかし、あなたもお気づきでしょう? 魔族の多くが、今や天主教の洗礼を受けている事実を。

 もう、この波は止められません。信仰、文化、風習……これからの時代、あらゆる物が西域風に塗り替わっていきます。どれだけ血を流しても、もう――」

「黙れ。お前の講釈なんて聞き飽きた。パベウ、選べ。私達の軍門に下るか、“屍の兵団”に組み込まれるか」

「私が真に使えるのは、清らかな心と慈愛に満ちた天主のみ。……あなた方は決して、あの斧槍使いには勝てません。

 冥府の泉から、あなた方の戦いぶり、見させて頂きますね」


 そう言い終わった直後、大男の喉笛を金の糸で折り紡がれた槍の穂先が貫いた。

 霜で白くなった平野が、赤黒い血で鮮やかに染まる。

 ヤドヴィガは力無く倒れ伏す大男の亡骸を、何も言わずにじっと見ていた。



 *



 アランは一昼夜寝通した。

 連戦に次ぐ連戦のせいで、三十路を迎えて僅かに老いが見え始めた体に予想を超える疲労が溜まっていたらしい。

 眠っている間に何が起きているのかを知らぬまま、アランは夢すら見ること無くこんこんと眠り続けた。

 アランは、英雄狩りとの戦いから丸一日経った頃のことだった。

 天蓋てんがい付きの柔らかなベッドが、傷ついた体を優しく包みこんでいる。

 夜の帳が下りた暗い寝室は、窓から射し込む月明かりに青白く照らされていた。


「起きましたか、アラン様」


 そう声をかけられ、アランは仰向けのままベッドの脇に目をやった。

 ベッドのすぐ側の椅子に腰掛け見下ろしていたリーシャは、アランの目を見て安心したように微笑んだ。


「どれぐらい眠ってた?」

「丸一日です。アラン様、水を」


 リーシャは、片手で器用に仰向けのアランの口もとに吸い飲みを差し出して傾け、冷たい水を飲ませてくれた。

 長く眠っていたせいで熱くがらついた喉を撫でていく水の冷たさが、寝覚めのアランには甘く心地よかった。

 アランが満足するまで水を飲ませてくれたリーシャは、傍らの丸テーブルに吸い飲みを置くと、片手でアランが起き上がるのを手伝うと、また柔らかに微笑んだ。


「すまん、ありがとう」

「いえいえ。……こうやってアラン様を介助するのは、もう何年ぶりになるでしょうね?」

「さぁな。小っ恥ずかしくて覚えてねぇや」


 一息ついて、アランはリーシャにたずねた。


「みんなは?」

「無事です。今は三人ともディアナお嬢様のところに」


 そう言ったあとで、リーシャは顔を曇らせた。

 アランは、自身が眠っている間に何が起きたのかを察して、口を開いた。


「効かなかった、か?」


 リーシャは小さく頷くと、静かに語り始めた。


「アラン様が持ち帰った薬品には、確かに傷を癒やす効果がありました。それに、体内の魔力を回復する作用もあったようです。

 しかし伝承されているエリキシルのような、病を癒したり、呪詛を打ち消すような効果は全く有りませんでした」

「つまり俺は、まんまとバッタもんを摑まされた訳だ」


 アランは苦笑しながら、額に手をやって項垂れた。

 なんとなく、そのような気がしていた。伝説の品であるエリキシルを、魔王八将の関係者だったとはいえ、一介の流れの魔族がそう何本も持っているのは明らかに違和感がある。

 それに、伝承のエリキシルには一滴飲むだけであらゆる傷を癒やすとされている。あえて使わずに、傷だらけの状態で待ち構えていたのも、少し疑問だ。


(こちらの油断を誘ったか?)


 あるいはそうかもしれない。だが、あえてそんな危険の多い作戦をたてるより、万全の状態で構えていた方が勝機はあっただろう。


(あの薬には、それほどの効果が無かったと見るべきだな)


「……結局、聖都までいかにゃならんわけだな」


 アランの呟きに、リーシャは思わず苦笑した。


「アラン様は昔っから中央教会の中枢におられる方々を毛嫌いなさってますものね」

「あんなド畜生生臭坊主ども、誰が有り難がるもんかよ」


 天主教も一枚岩ではない。

 巨大宗教として大陸の広範囲に広まった天主教は、時代や地域によって様々な宗派に分裂、集合し、変容していった。

 現在の大陸では主に、東部を中心に信仰される“ユスティノス教会派”、中北部で職人階級を中心に広まりつつある“新教会派”、聖都を中心に古くから大陸全土に信徒を持つ“中央教会派”の三宗派が、各々しのぎを削っている。


 アランも、当然天主教を信仰している。宗派も、王国出身の人間として当たり前に中央教会派だ。

 しかし、中央教会はその長きに渡る歴史と巨大さ故に腐敗が進み、近年では各地で求心力を失い、帝国北部では既に影響力を新教会派に取って代わられつつある。

 アランは生まれたその瞬間から、大きく肥えた中央教会が漂わせる凄まじい腐臭を間近で嗅いできた。

 自らの出生に中央教会が深々と関わっているという揺るぎない事実に、アランは何度吐き気を覚えたことが分からない。

 他の二つの宗派の教えに今一共感出来ないから中央教会派に留まっているだけで、アランは心の底では会派への信仰と尊敬をほとんど失っていた。だから本質的には、無宗派なのだ。


「……この話はやめよう。それで、英雄狩りはどうなった?」


 アランは話題を無理矢理に切り替えると、顔を上げてそう聞いた。


「死体はまだ上がっていません。国王直下の近衛兵を筆頭に、様々な諸侯の手勢が総力を上げて捜索中ですが、あの場に残っていた血痕から察するに、どのみち生きてはいないかと」

「とはいえモノが上がらない以上、油断は出来ないな。あの薬も、まだいくつか持っているかもしれん」


 リーシャはその言葉に頷いた。


「それに陛下としても、死体を晒さないことには正式に英雄狩りを倒したと宣言出来ないですしね。

 陛下はつとめて冷静を装っておられますが、内心では随分焦っているようです」

「王都にあれだけの騎士団員が潜伏してやがったんだ。その対策をとっとと取らにゃならんってのもあるんだろうな……でも、全部が全部に付き合ってやる訳にはいかねぇな」


 アランは窓の外に目をやった。

 銀砂をばらまいたような星がきらめく深い夜空を背に、天を貫くようにそびえ立つ王宮の尖塔がよく見える。

 魔王討伐の為に王都を旅立った十五年前と変わらない姿のまま、その塔は今も同じ場所から足元の街を見下ろしていた。

 そんな塔のすぐ下に、今、アランのもっとも愛しい人達がいる。

 アランは顔を窓の向こうに向けたまま、口を開いた。


「遅くとも一週間後には、聖都に向けてここを発ちたい。もっとも、ロゼがそう望むなら、だけどな」


 そう口に出しては見たものの、アランには何となくあの愛弟子がなんと答えるのかが分かっていた。


 夜はやがて明けていく。

 魔王討伐戦以来の戦乱の萌芽が各地で顔を覗かせはじめたことを、彼らはまだ知らない。

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或る斧槍使いの後始末《エピローグ》~師匠の勇者が寝込んでいるので、弟子を引き連れヤク探し~ かんひこ @canhiko

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