第一章 パッペンハイム公領
第4話 夜更けの奇襲
草木が
黒褐色の毛皮に身を包んだ、狼の魔物だ。背丈は十歳のロゼと同じぐらいある。
数は五頭。ロゼを半円状に取り囲むような陣形をとり、低い唸り声を上げて様子をうかがっている。
(距離は十歩ぐらい。これなら……)
アランの姿は付近に見えない。ロゼは軽く
瞬間、それを隙と見留め狼達が一斉に飛び出した。
地面が鋭い爪でえぐれ、土
ロゼは浮かせたかかとを地面に下ろして踏み込むと、大きく息を吸い込んだ。
「
小枝のような杖を素早く横一文字に振り払い、ロゼは静かにそう唱える。
杖がひゅん、と音を立てて空を切る。
杖の軌跡をなぞるよう、蛍火のように青白い粒子が現れる。
その、僅か数秒の後、
狼達の喉笛に、鋭い
力無く地面に落ち、倒れ伏し、赤い舌や毛に覆われた四肢をだらりと投げ出し絶命した五頭の狼に目を落とし、ロゼは杖を地面に置くと、
「……その御霊が、かくも尊き天主の身許で眠らんことを」
そう、目蓋を閉じてしばし祈りを捧げた。
元来ロゼが信仰心に
冒険者は元々、未開の地に宣教の旅に出る天主教の宣教師を護衛したことが起源とされる。
荒くれ者の集まりのように見える冒険者だが、そのようなこともあってかその所作や作法は天主教信仰に深く結び付き、根付いている。
今や冒険者
「お師様、こっちは終わりました!」
目を開け、杖を拾ったロゼは後ろの茂みの向こうにそう声をかける。
遠くの方から、アランの呑気そうな返事が聞こえてきた。
*
「いやぁ、本当に助かりました。なんとお礼を言ったら良いか……」
二人が倒した魔物を血抜きし、荷車に乗せて村まで帰ると、それを待ち構えていたように村長が飛び出してきてそう言った。
二人は今日、南へ降りていく途中に立ちよった村で、冒険者らしく依頼をこなしていた。
北部地域より少し南に下ったこの辺りは、まだ秋の色が濃く残っている。
秋になると、魔物の被害は多くなる。
秋は実りの季節であり、厳しい冬を越えるための準備の季節だ。
鹿や猪、リスなどはせっせと木の実を食んで脂肪を蓄え丸々太る。そうすることで、餌の取れない冬を耐えるのだ。
だが、それは肉食の動物や魔物も同じこと。丸々太った鹿や猪は、彼らにとってごちそうだ。
しかし、森の獣は皆強い。狼やクマ、他の魔物でさえ、猪や鹿に手痛い反撃を受け傷を負うことだって珍しくない。
傷を負うのを嫌うのは人間も獣も同じだ。
だからこの時期、彼らの一部は人里近くまで降りてきて畑を荒らし、無抵抗の家畜を襲うのだ。
ここは小さな村だ。大きな街道から脇道にそれた地味な場所だ。
町の冒険者も、この季節は日々新たな依頼が舞い込んでくるので仕事にあぶれることはない。こんな小さな村に見向きしている暇もない。
かわいそうな村だった。この村は誰にも気にされること無く、毎年森からの襲撃者達に脅かされ続けるしかなかったのだ。
だからだろうか、震える手で二人の手を取る村長の目尻には光るものが浮かんでいた。
「お嬢ちゃんも、凄い魔術を使うんだねぇ。きっと、将来は立派な魔術師さんになれるよ。本当にありがとうねぇ……」
ロゼは少し、面映ゆそうに笑みを浮かべた。
それから村は、二人を囲む大宴会で大いに盛り上がった。
二人が宿に戻ったのは、その
「出立は確か明日の朝でしたよね?」
ポーチから取り出した道具を机に置き、一つ一つ明かりに透かして点検をしながら、ロゼはアランにそう尋ねた。
アランはアランで地図を見ながら順路の確認を行っている。
「そうだな。早かったら昼頃には領境を越えられると思う。いっつも通り、ヴィリーが迎えに来てくれるはずだ。
母上と会えるのは、多分明後日か明々後日になるんじゃないかな」
「そう、ですか……なら心の準備もしっかり出来ますね!」
ロゼは取り繕うような笑みを見せると、すぐに道具の点検に戻った。
冬の間、二人はいつも仲間の一人のパッペンハイムの領地に身を寄せる。
パッペンハイムは大貴族だ。軍隊も多く精強で、おまけに領土は貿易で潤っている。
そして何より、その居城の一室に、ディアナが眠っていた。
大人びてはいるが、ロゼはまだ十歳だ。丸々一年も母親と離れて過酷な旅を続けるのは良くないだろう。そう思って、アランは毎年その場所に帰ることにしている。
だが近頃、その事が果たして本当に良いことなのか、次第に分からなくなってきていた。
ロゼが物心ついたときには、既にディアナは深い眠りに囚われていた。
ロゼからすれば、話したことも、声を聞いたことすらない、よく知らない人なのだ。
これは、自己満足なのではないか。そんな思いすら最近胸に湧いてきた。
ロゼの
すきま風が冷たい夜だった。
不意に、背筋がぞわりとするような、嫌な感覚が走る。アランは跳ねるように地図から顔を上げると、さっと窓の外に目をやった。
魔王討伐の頃、こう言う感覚に陥ったときは、大抵知らぬ間に敵の伏兵が茂みや物陰に潜んでいたものだ。
表情が随分険しくなっていたらしい。ロゼが手を止め道具を置いた。
「どうしたんです?」
「……誰かに見られている、気がする。ちょっと見てくる。ロゼはここにいてくれ。すぐ帰るから」
アランはそう言うや斧槍と火の消えたランタンを持ち、部屋の蝋燭の火を消すと、音もなく宿裏口からの外に出た。
遠くで、ほんの微かに舌を打つような音が聞こえた。
秋の夜、空気は冷たい。
地面には芝生のような、もう茶色く枯れかけた草が繁茂している。こう言う場所では、どれだけ熟達した密偵でも否応なしに足音が立つ。
宿を取るとき、アランはいつもこのような場所が近くにあるかどうかを見て決めていた。
どれだけ
昔から寒いのは苦手なタチだ。アランは心の中で舌打ちすると、ゆっくり建物の陰から様子をうかがった。
そのとき、なにかが鼻の先をかすめていった。
アランは反射的に顔を引っ込めると、その“なにか”の行く先に目をやった。
深々とすぐそばの立ち木に突き刺さったそれが短剣だと分かるまで、そう時間は要らなかった。
短剣の刀身には、何やら文字が彫られている。
魔族の言葉だ。
(魔王軍の残党か)
それもかなりの手練れらしい。短剣には強力な呪いが込められている。ほんの僅かに当たるだけで、即おしまいだ。
ランタンを消していて正解だった。もし点けていれば、間違いなく死んでいただろう。
建物の向こうから、僅かに土を踏み締める音がする。それは段々とこちらに近付いて来るようだ。
軽い足音。女だろうか。魔王軍の密偵に男女の別はない。それは残党となって野に下った今でも変わらないのだろう。
(
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。魔王直下の隠密部隊だ。
他の魔族の密偵より遥かに優秀で、昼夜問わずにこちらの弱点を的確に突いてくるから、彼らにはほとほと手を焼いた。
それでも、彼らの
土を踏む音が、次第に草地を踏む音に変わる。もうかなり近い。アランはぎゅっと斧槍を構え直して会敵に備える。
あと三歩、二歩、一歩……
今だ、と斧槍を振りかぶって、アランは物陰から飛び出した。
しかし、そこに襲撃者の姿はない。
(やられた!)
あの足音は罠だったのだ。アランの意識をひくために、あえて音を立てていた。
背後に誰か立っている。殺意のこもった、力強い気配と視線。
風切り音が、アランの頭上から迫ってきた。
とっさに素早く体を反転させ、アランはそれを斧槍の柄で受け止めた。
振り下ろされ、止められた短剣がガチガチを音を立てる。
相手の息遣いすら分かる距離だ。血のような深い赤の瞳が一つ。もう片方、左目は潰れているのか閉じられている。
真っ黒な頭巾と体を包み込むマントに隠れて目元以外はよく見えないが、やはり襲撃者は女だった。
頭巾越しに、額から伸びた二つの小さな角が浮き出ているのがよく分かる。男の角は、頭巾などでは隠せない。
「“魔族殺し”のアラン。その命、貰い受ける」
襲撃者の女は静かにアランにそう言うと、空いた左手で拳を繰り出した。
すっと短剣を受け止める力を抜き、アランは左に体をそらした。
襲撃者の姿勢が肩透かしを食らったように大きく崩れた。
アランは思い切りその顔面を斧槍の柄で殴り付ける。
しかし女は地に這うように体を沈めてそれを避け、アランの腰辺りを短剣で切りつけた。
とっさに体を引いて短剣をかわし、アランは数歩後退りする。
ふと、ガシャンと大きな物の割れる音がした。アランのすぐ足元だ。
先程の斬撃でひもが切れたのか、腰から提げていたランタンが地面に落ちて割れている。
今のランタンは外からの空気を遮断して火をくすぶらせているに過ぎない。空気があれば、すぐに火は点く。
すぐに火種を消そうと踏みつけたが、もう遅かった。
乾いた秋の空気。枯れた下草。炎は一気に燃え広がる。
地面に、深い影が浮かび上がった。
女の瞳に、凶暴な喜色が宿った。
「
女が短くそう唱える。黒い粒子が、波となって辺りにどっと広がった。
瞬間、足元の影がぐわりと歪んだ。
足元だけではない。身の回りにある影全てが歪み、揺れ、形を変え、地面から剥がれて浮かび上がった。
影は、鋭い切っ先をもつ刃に姿を変えていた。
「
言うや否や、影の刃が一直線にアランに向かって迫りくる。
凄まじい数だ。この村全ての影が集まっているらしい。
(マリクの野郎、とんでもない置き土産をしやがって……)
身の回りから頭上に至るまで、黒く鋭い影の剣山に覆われている。
狙いはアランただ一人。アランは腰を深く落として斧槍を構えると、大きく息を吸い込んだ。
「
不意に、女の背後からそう声が響いた。ロゼだ。
女は驚いた様子で右に飛び退き、背後から迫る氷柱の矢を回避した。
そのせいで集中が切れ、影の刃が元に戻る。
大きな隙が生まれた。アランは斧槍の穂先を向けたまま、一直線に女の喉元に飛び込んだ。
「邪魔が入った。また会おう……
穂先が喉元を突き刺す直前、アランの視界を影が覆った。
斧槍が地面に突き刺さる。女の姿は、もうどこにもなかった。
「お師様、怪我は!?」
女のいた場所をじっと見つめるアランの元に、血相を変えた顔のロゼが駆けてきた。
アランは思わず苦笑して、その銀色の髪に包まれた頭を撫でる。
「無い。大丈夫。ったく、待ってろって言ったのに」
「外から争う音が聞こえてきて、大人しく待ってられる訳無いでしょう?
お師様、あいつは一体……」
炎がこうこうと燃え上がる。それに気付いた村人達が一斉に水の入ったバケツを持って集まってきた。
ロゼの問いに、アランは静かに口を開いた。
「さぁ、な」
駆け付けてきた村人からバケツを受け取り、アランは火柱の根本に向かって水を思い切りぶちまけた。
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