第4章

第1話 抱えがいのある頭、ふたつ その1

 青くて高い空を、流れる白い雲を、茫然と眺めていた。

 頭の奥が痺れたまま何も考える気が起きなくて、逃げるように教室を後にした。

 気遣ってくれるような、恐る恐る様子を窺うような親友の眼差しが煩わしかった。


「どうしてこうなった……」


 隣から弱々しいうめき声が聞こえた。

 ちらりと目だけをそちらに動かすと、今の自分と寸分たがわない格好でだらしなく口を開いた美少女がいた。

黒瀬 奈月くろせ なつき』である。

 艶めくセミロングの黒髪は、いつもよりもくすんで見えた。


――どうしてって言われてもなぁ……


 まもると奈月は、昼休みの屋上でボーっと空を見上げていた。

 呆然自失。

 そう呼ぶにふさわしい有様を晒す理由があった。

 つい先日の土曜日、ふたりで一緒に映画を見に行って、ふたりで一緒に喫茶店に入って――ふたりで一緒に見られた。

 梓に。

 衛の片恋相手であり、奈月の恋人でもある『春日井 梓かすがい あずさ』に。

 奈月が衛の頬をつねり、その手を衛が払いのけようとして互いの指が絡んだ、その一部始終を見られていた。

 見られてしまった。


――春日井からは、どういう風に見えていたんだろうな?


 透明感のある梓の瞳は冷え冷えとした色合いを宿していて、そこには紛れもなく軽蔑の感情があって、可憐なイメージが強い顔つきからは一切の表情が抜け落ちていた。


――どういうも何もないよな。


 風に見えたに決まっている。

 そうでなければ、梓の態度に説明がつかない。

 衛と奈月の距離が近しく見えることには理由があった。

 それは、奈月が自らを男と認識しているという事実を衛だけが共有しているから。

 常日頃は梓と並んで校内トップクラスの美少女として周りと接している奈月の正体が実は思春期男子そのものであって、自分の姿かたちのことは自分で気にいってはいるものの(ややナルシストな気配すらある)、それはそれとしてたまには肩の力を抜くところが欲しいなどと言うわがままに衛が付き合っているからだ。


――わがまま、だろうか?


 衛は『黒瀬 奈月』に詳しくない。

 彼女がどのような道行きを経てここに至ったのか、何も知らない。

『顔最高、身体最高、つまりオレ最高!』などとチャラけた口振りで笑っている姿を、そのままバカ正直に信じるほど無神経にはなれなかった。


『中学校から申し送りがあったんじゃねーかな』

 

 教師は事情を知っているのかと尋ねたときに、そう吐き捨てた奈月。

 その整った顔に陰りが差した一瞬を、衛は見逃していなかった。

 ただ……彼女が衛に望んでいるものは、女を演じる必要のない関係性であることは明白だったし、期待を裏切るつもりもなかったので、あまり深く突っ込まないよう気を遣ってきたつもりだった。


――昨日の悲劇は必然だったのかもしれん。


 憔悴する奈月を窺いながら、そっとため息を吐いた。

 奈月の事情を詮索することを避けた衛は、奈月の言動を強く諫めることもしなかった。

『それが奈月のためだから』と心の中で言い訳しながら。

 だから、『自分の恋愛対象を女性だと梓は認識しているから、他の女子と映画に行くよりも衛と映画に行く方が安全』と笑っていた奈月に『本当にそうか?』と疑いを抱いていたにもかかわらず、これまでと同じように何もしなかった。


――だから、俺はダメなんだ……


 胸の奥に蟠る苦くて重い感情が、喉をせり上がってくる。

 汗ばんだ手で慌てて口を塞いで、空を見上げた。

 どこまでも青い空に、無性に苛立ちが募った。





『帰る』


 あの日、あの後。

 梓が立ち去ってからしばらく、ふたりは呆然と席に座って向かい合っていた。

 虚空を見つめていた奈月の瞳に輝きはなく、その瞳に写る衛の顔に生気はなかった。

 しばしの沈黙を経て、ようやく奈月が口にしたのは別れの言葉だった。


『そうか』


 頷いた。

 追随しなかった。

 引き留めようとも思わなかった。

 自分の初恋の女性とキスしていた奈月が、他の男と仲良くしているところを梓に見られて『ざまーみろ』などと嘲笑う気にはなれなかったが……ならば、今の自分は何を考えているかと問われると上手い答えが見つからない。

 ひどく落ち着かない。

 罪悪感で押し潰されそう。

 全身から吹き出す汗が止まらない。

 衛の身体に起きた異変は概ねそんなところだが……


――何なんだ、いったい?


 言葉には出さなかったものの、心の中では首をかしげていた。

 梓とは生徒会で顔を合わせる間柄ではあるが、基本的に仕事の上での付き合いであった。

 つい先日一緒に帰る機会があって(偶々ではない。あの時も原因は奈月)少しだけ仕事以外の会話を交わしたとは言え、まかり間違っても個人的な交友に至っているとは言い難く……つまり、奈月とお茶しているところを見られても、彼女に咎められる謂れはない。

 残念なことに……非常に残念なことに、梓は衛を異性として意識していないのだから。

 だからこそ、わけがわからないのだ。

 今の自分は、まるで浮気の現場に踏み込まれた男――それは先ほど見た映画の内容とリンクしていた――ではないか。

 梓が奈月に怒りを覚えるのは理解できる。

 自分が動揺する理由も理解できる。恋心を(一方的に)抱いている異性(梓)に他の女子(奈月)と休日に遊んでいる姿を見られたのだから。

 だから、動揺している。

 そこまでは理解できる。


『た の し そ う ね』


 梓の怒りは、衛にも向けられていた。

『なぜ?』と声を大にして叫びたい。

 とにもかくにも家に帰ってゆっくり状況を整理したいと思っていたところだったから、奈月とはここで別れることに異存はなかった。

 のだが……


『……黒瀬。お前、大丈夫なのか?』


『……何が?』


 煩わしげな声、口振り、そして眼差し。

 振り返った奈月から向けられる感情は、お世辞にもポジティブなものではなかった。

 拒絶の色合いがモロに出ている今の彼女が放つ圧力は半端なかったが……それでも怯んでいられる場合でないことは察していた。


『自分で気づいてないのか』


『だから、何が』


 どうやら本当に気づいていないらしいと知った。

 焦点の合わない瞳に蒼白な顔。

 震える指先に、覚束ない脚。

 最大限好意的に解釈したとしても、今の奈月は絶不調にしか見えない。

 衛はここで奈月と別れても家に辿り着けるだろうが……奈月をひとりで街に放り出すのは嫌な予感しかしない。

 見ているだけで気が滅入ってくる眼をあえて無視して席を立った。

 訝しげに見つめてくる奈月の手を取って、口元に力を込めた。


『帰るなら、送っていく』


『……いらねー』


 視線を逸らしながら拒否られた。

 衛は奈月の手を握る力を少し強めた。


『痛いんだが』


『今のお前の方がよほど痛々しい。俺がいないところで何かあっても困るから、送っていく』


『なんだよ、それ。送り狼にでもなる気か?』


 皮肉げに吊り上げられた口。

 その端から漏れた言葉に衛の眉がひそめられた。

 そして――ありえない仮定と侮辱に、あえて乗っかることにした。


『送り狼か……それも悪くないな』


『マジかよ。オレ、ヤバくない?』


『ヤバいな。それで、どうするんだ?』


 互いに見つめ合った。

 静かな店内で目立っているような気がしなくもなかったが、気にしている余裕はなかったし、どれほど時間が流れたのかもわからなかった。

 やがて――奈月は苦笑を零した。

 同時に纏っていた空気が緩んだ。


『わり。送ってくれ』


『素直にそう言え』


 そっと握り返された手に、暖かい体温を感じた。





「なんかタイミング逃しちまった感あるけど」


「ん?」


「一応言っとく。ありがと」


「何の話だ?」


 唐突に奈月の口から零れた感謝の言葉に、衛は眉を寄せた。

 思い当たるところがない感謝は、何か高いものにつけられそうで怖かった。


「土曜の話。オレ、感じ悪かったのに家まで送ってもらっちまって」


「ああ、あれか」


「家に帰ってもずーっと悶々としてたんだけど、あの時のオレってマジ最悪だったし。お前に悪いことしたなって」


――意外と冷静……か?


 自分の態度を振り返ることができている奈月は、最悪の状況を脱したように見えた。

 メンタルは決して上向いているわけではなさそうだが、取り返しのつかない展開になる流れは避けられたらしい。

 それがわかっただけでも、彼女を送って行った甲斐があると言うものだ。

 ……そう思いはしたが、口から出たのはまったく別の言葉だった。


「……俺のことなんて考えてる暇があったら、ちゃんと春日井のことを考えろ」


「それな~、それな~」


 頭を抱えて悶絶する奈月の肩をポンポンと叩きながら、衛は再び空を見上げた。

 恋敵を応援している自分が滑稽に思えてきて――でも、後悔はしていなかったし、口の中に苦みが広がることもなかったし、胸の奥から重苦しい感情がせり上がってくる感覚もなかった。

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