第4話 表と裏と その2
「しかし……
「ん~、まぁ、
楽でいい。
何の気負いもない笑顔を見せる
箸を咥えながら頭の後ろで腕を組む姿は率直に言ってだらしなかったが、いつもの凛とした佇まいとは異なる魅力を有していることも確かだった。
芸能人などのプライベートを見たがる人間の気持ちが少しだけ理解できた。
教室では――教室に限らず、入学以来ついぞ目にしたことのない表情を向けられて、
――なんだ、この……なんだ?
湧きあがってくる得体の知れない感情に戸惑い、呼吸が乱れる。
加速する心臓の鼓動とともに、身体の奥に奇妙な熱を感じた。
『動揺してるな』と混乱気味な頭の片隅から囁きが聞こえた。
――しっかりしろ、俺!
深呼吸して眼鏡を外し、ポケットからハンカチを取り出してレンズを拭いた。
レンズは別に汚れてはいなかったが、一拍置くことで気持ちを落ち着けることはできた。
眼鏡をかけ直すと、クリアになった視界に奈月が写りこんだ。覗き込んでくる顔との距離は想像以上に近くて、思わず上半身をのけぞらせてしまう。
「どうかしたか?」
「いや、ど、どうもしないが……それより、
ツレが昼休み返上で部活に精を出している衛はともかく、昼飯は仲の良い者同士で食べた方がいいのではないかと思ったし、奈月が仲良くすべき相手は自分ではなく
……あまり認めたくはなかったが。
「ああ、それは大丈夫」
「ずいぶんと自信ありげじゃないか」
「だって、梓にはお前の口止めに時間がかかってるって言ってあるし」
「……なん、だと?」
しれっとトンデモナイことを言われた気がする。
聞き間違いかと思ったが……首を急旋回させて奈月の顔を凝視してみても、彼女は先ほどの言葉を否定しなかった。
わけがわからなかった。
最初に奈月に詰め寄られた際に、他言無用の件については了承したはずなのに。
――いや、それどころか……
悪い予感がどんどん膨らんでいく。
口から出てきた声は、自分のものとは思えないほどに震えていた。
実際には、声だけでなく頭のてっぺんから足のつま先まで総じて震えていたが……残念なことに衛が自身の変調に気づく余裕はなかった。
「黒瀬、それはつまり、もったいぶってると言うか、俺がお前を脅してる……みたいな話になってないか?」
「そこまでは言ってないけど、そういう解釈もある、かも?」
「今すぐ撤回して来い」
「やだ。メンドクサイ」
「俺と春日井は生徒会で顔を合わせるんだが!?」
「あ、そう言えばそうだっけ。やっぱ気まずかったりする?」
「する。メチャクチャするわ!」
「それだけか~?」
「……他に何があるんだ?」
問い返すのに、一瞬の間を要した。
衛と梓が生徒会に所属しているのは事実だし、ここ数日どうにも梓から注がれる視線に冷たさを感じていたのも気のせいではなかった。
ただ……衛の焦りは、それだけが原因というわけでもない。
「ま、惚れた女に悪人と思われてたらダメージでかいか」
「な、何の話だ?」
「誤魔化さんでいいって。岡野って梓のこと好きなんだろ」
「そそそそそんなことひとことも言ってないが」
「動揺しすぎだ。見てるこっちが心配になってくるわ」
クリティカルなところを直撃されて、取り繕う余裕は一瞬で消し飛んだ。
まさか自分が梓に片想いしていることが奈月にバレているとは。
よりにもよって梓と両想いなコイツに。
想像しうる最悪の展開だった。
――いや、ちょっと待て。これは……アレだ。カマをかけられて……
『カマをかけられているだけ』と思いたかったが、奈月から注がれる眼差しはそのようには見えなかった。
からかわれているようにも見えない。
割とマジに気を遣われているようにしか見えなくて、衛は酷く居た堪れない気持ちになったが……よくよく考えてみれば、諸悪の根源は目の前の女もとい男だった。
「な、何を根拠にそんな根も葉もないことを」
「わかるよ。見ればわかる」
あっさり切り返されて言葉を失った。
口は勝手にパクパクと開閉していたが、肝心の音が出ない。
面白いものを見る目つきを向けてくる奈月との間に、しばしの沈黙が降りた。
ややあって――
「見れば、わかる?」
「ああ。割とハッキリ」
「それは……春日井も?」
「さあ? 本人に聞いてみろよ?」
あからさまな挑発にカチンときた。
腰が浮いて、カラの弁当箱が脇に落ちる。
ニヤニヤと笑う奈月にアイアンクローをしかけようとする右手を――必死に抑えた。
ことさら紳士を気取るつもりはないが、女性に手を挙げる自分を許せそうになかったからだ。
――ん? 女性?
奈月は男なのか、女なのか。
さっきも似たようなことを考えていた気がする。
本人は男を自称しているが、衛の目に映っているのはれっきとした少女だ。
事情を聞いて、ふたりきりのときは男として扱ってほしいと言われて『はい、わかりました』と素直に頷いてしまったが……それは本当に正しい選択だったのだろうか?
今さらながらに疑問が脳裏をかすめ――奈月はワザと男友達的な振る舞いを意識しているのではないかと――
「お、中二病か。『沈まれ、俺の右腕ッ!』って」
「誰のせいだと思ってるッ!?」
ワキワキと宙を掴む衛の右手を見ながら、奈月は思わせぶりに口の端を吊り上げた。
質の悪いジョークを食らって、衛の頭からデリケートな感情はすっ飛んだ。
ひとまず目の前の奈月を黙らせなければならない。
使命感に似た情熱が燃え上がった。
「ちょっと待て、オレを襲う気か」
「人聞きの悪いことを言うな。ただ握りつぶしたい衝動を必死にこらえているだけだ」
「握りつぶすって、オレの……乳を?」
「顔だッ!」
身体を抱きしめるように両腕で胸を隠して後ずさる奈月に苛立ちを覚えて、つい思いっきり叫んでしまったが……ほんの一瞬、奈月の胸元に視線が行ってしまった。
たとえようもない羞恥に頭がカーッと熱を帯びる。
奈月に感づかれていないか気が気でない。
――なんでだ? 何でこんなに……
先ほどとは似て非なる疑問が頭をかすめた。
梓はともかく他の女子に対して、そこまで性的な視線を向けることはない。
チラッと見てしまうことはあるにしても、即座に理性が働いて胸やら尻から目を逸らすようにしてきた……つもりだ。
ましてや奈月は男を自称しているし、衛は異性愛者だ。
なおさらに性的な感情なんて抱くはずはないだろうし、奈月は奈月で下ネタを自ら口にするほどにはエロい話題に耐性がある。
何なら鏡を見るたびに自分の肢体に感動するような奴だ。
この点に関して遠慮する必要はないように思えてきて――
――ん?
考えれば考えるほど混乱が深まる一方だった。
矛盾、あるいは論理破綻を起こしている気がしてならない。
ただ、その理性と感情のもつれを丁寧にひも解いていられる状況ではなかった。
「どうどう、落ち着け」
「お前……お前なッ」
「でもまぁ、よかったじゃねーの」
「よかったって、何が?」
「梓がお前のことに気づいていようがいまいが、オレがいる限りチャンスないし」
本人に聞かなくても結果は変わらないじゃん?
そう付け加えられて、衛の頭は真っ白になって――思いっきり肩を落とした。
言われなくても薄々わかっていたことだが、改めて言葉にされるとショックが大きい。
梓の気持ちについて奈月に怒りをぶつけたところでどうにもならないし、何なら奈月の不躾な理屈に一定の正しさすら認めてしまう自分が悲しかった。
「あ、悪い。弄り方がよくわかんねぇって言うかさ、ほら、オレって男同士で友だちって久しぶりだから距離感とかが上手く掴めなくって……その……大丈夫? 乳揉む?」
「揉むかッ!」
「なんだよ、せっかく心配してやってるのに。男なんて乳揉んでたら何とかなるだろ」
「お前と一緒にするな。俺はそこまで雑じゃない」
「お、紳士ぶってんな」
でも、ちょっと元気出たみたいでよかった。
ふわりと微笑む奈月の顔を正面から見てしまって、衛の心の中で爆発寸前だった炎が――きれいに溶けてなくなっていった。
「でもよ、本当に揉まなくていい? 自分で言うのもアレだが……オレ、割と自信あるぞ」
「い・ら・ん!」
やはり一時の気の迷いだ。
そう結論付けて、衛は叫んだ。
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