第3話 表と裏と その1

 長距離走なんて概念、消えてしまえばいい。

 きっと世の多くの学生が賛同してくれるに違いない悲鳴を上げる余裕もなく、まもるは脚を止めてフェンスに寄り掛かった。

 ガクガクと震える膝に力が入らない。

 後から後から噴き出てくる汗が気持ち悪い。

 肺は過剰なまでに騒ぎ立てているのに、喉が仕事をしなくて酸素が足りない。

 

「ぜぇ……はぁ……ちょ、ちょっと休憩」


 頭を締め付けてくる痛みは、とっくの昔に我慢の限界を超えていた。

 男のプライドとか体面なんて取り繕う余裕もなく蹲る衛。

 その視界の端を――躍動する少女が掠めた。

 体育館。

 季節外れな夏日にひたすら走らされている男子とは異なり、女子は屋根に日光を遮られた体育館でバスケットボールの試合中だった。


「キャー、黒瀬くろせさん素敵!」


 セミロングの黒髪を後ろでひとまとめにした奈月なつきがディフェンスを躱しながらシュートを決めると、休憩中の女子たちから黄色い声援が飛び交った。

 奈月はさわやかな笑顔で手を振ってクラスメートに応えている。

 飛び散る汗すら爽やかにきらめく青春の一ページのはずなのに、衛はその光景を見て口元を引きつらせた。


――男なんだよなぁ……アイツ。


 羊の群れに狼を放り込んだようなものだ。

 ネットを挟んでコートが分割されているバレーボールやバドミントンならともかく、バスケットボールはひとつのコートで敵と味方が入り乱れる。

 あくまで自己申告(疑うわけではないが)では奈月は男で、試合中に女子と接触する機会が多いわけだ。

 ラフプレイに走っているわけではないが積極的ではある。

 何も知らなければ果敢なプレイに見える。

 なお現実は――


「黒瀬さん、いい動きしてるな」


 振り向くと大河たいがが衛の背後から体育館を覗いていた。

 衛と大河は同じクラス、当然体育の授業も一緒。

 彼もまた炎天下で走らされて汗を流してはいるものの、常日頃から部活で鍛えているだけあって息を切らせたりはしていない。


「バスケ部のお前から見ても、黒瀬は上手いのか?」


「ああ。経験者なんじゃないかな、彼女」


「そうなのか? 確か部活には……」


「入ってないな。もったいない」


 大河は心底残念がっていた。

 奈月を見つめる顔に含むところはなく、『単純だな』と皮肉のひとつも言ってやりたくなったが……どう考えても通じないだろうし、事によっては余計な詮索を招きかねない。

 親友に隠しごとをしていることに罪悪感を覚える。

 同時に、奈月のプライバシーを吹聴する自分を想像すると嫌悪感に吐き気を覚える。

 どちらが嫌かと問われれば――


――すまんな、大河。


 心の中で謝った。

 少しずつ呼吸は整ってきたものの、声に出すことは困難だった。

 大河にしても唐突に謝罪されたところで困惑するに違いない。

 ほんの一瞬だけ大河に視線を向けると目が合ってしまった。

 いつもと変わらない親友の眼差しが衛の心に突き刺さる。


「どうかしたか、衛?」


「なんでもない」


「そっか、ならいい」


「ああ」


 そうだな。

 そう続けようとしたところに、大河の声が被さった。


「そういえば、最近の衛は黒瀬さんのことをよく見てるような」


 親友は暢気な顔で『春日井かすがいさんから乗り換えたのか?』などとトンデモナイことを口走った。

 頭を不意打ち気味にぶん殴られたような衝撃に、回復しかけていた身体から力が抜ける。

 前のめりに倒れ込みそうになるところを堪え、意志の力を総動員して首を横に振った。

 冗談だとわかっていても、そこまで節操なしだとからかわれるのは愉快ではない。


「き、気のせいだ」


 声が震えた。

 ついでに裏返った。

 断固としてノーを突き付けようとしたにもかかわらず。

 長距離走の疲労のせいだと解釈されたらしく、大河の顔に疑念の類は見られなかった。

 その代わりに――


「そうか? でも、黒瀬さんは衛のことをよく見てるみたいだぜ」


「は?」


 大河が指さした先には奈月がいて、衛の方を見ながら手を振っていた。

 爽やかスマイルとセットで。

 率直に言って胡散臭かったが、そのように受け取ったのは衛だけらしかった。

 衛と奈月の間に陣取っていた女子が、ひと際大きい歓声を上げる。

 自分に向けられたファンサービスと勘違いした模様。

 大河は奈月の視線が衛に向けられていることには気づいたものの、その真意を察することはできていない。


――真意、か……


 声には出さず、首をかしげた。

 自分だって、彼女(?)の胸中を正確に理解できているとは言えないのに。


「あれは、大河に向けてるんじゃないのか?」


「ないわ。それぐらいわかる」


 断定口調な大河の声には聞き覚えのない音色が混ざっていた。

 二の句を告げない衛の視線の先で、奈月がシュートを放つ。

 ボールは勢いよくボードに当たって、大きく跳ね返った。





「薄情者」


 昼休みの屋上。

 胡坐をかいた膝の上に置いた弁当箱と向かい合っていた衛にかけられた第一声がこれだった。

 眼鏡のレンズの脇から横に目をやると――今日も今日とて隣に座っている奈月が頬を膨らませていた。

 コミカルな表情が意外と似合っていた。

 凛々しさはなくとも愛嬌がある。


「何の話だ?」


「体育の授業。手を振ってやったのに無視しやがって」


「あれは……」


「あれは?」


 大河がすぐ傍にいたから。

『大河が傍にいたらなぜダメなのか?』と自分に問いかけてみたが……いまだあずさへの好意を捨てきれていない自分が、他の女子に鼻の下を伸ばしていると思われるのは心外だった。

 そもそも大河は奈月と梓の関係を知らないから、衛がフラれたもとい勝ち目がないことを知らない。『好意を捨てきれない』ではなく『好意を抱いたまま』扱いだ。

 二股とか浮気とか、そんな風に見られたくない。

 ……という一連の説明を奈月にするのは気が乗らなかった。


「あれは……体力が終わってたときだったからなぁ」


「あ~、まぁ、このクソ暑い日に長距離とかご愁傷様って感じだよな」


「それな。誰かが倒れてからだと遅い」


 生徒会から体育教師どもに申し入れでもしてやろうか。

 愚痴っぽく続けると奈月は軽く目を見開いた。

 不機嫌が吹っ飛んだ、意外な表情だった。


「……なんだ?」


岡野おかのもそういう冗談言うんだなって」


「冗談のつもりはないが」


「え、マジなの?」


「マジだな」


 むしろなぜ冗談と思ったのか。

 奈月の反応こそが心外だった。


「いや、岡野って真面目だからさ。先生に喧嘩売ったりしないと思ってた」


「別に喧嘩を売ってるわけじゃない。意見するだけだ」


「それを喧嘩売ってるって言うんだよ」


「……そうなるのか?」


「そうじゃね?」


「ふむ……」


 よくわからんな。

 首をかしげると、奈月の目つきが変わった。

 理解不能な存在に向けられる眼差しだった。妖怪とかそっち系。


――コイツ……


 愚痴めいた声を飲み込んだ。

 できるだけ『普通』を装っている自分がバカみたいに思えてくる。

 だからと言って、あからさまに態度を変えるつもりはなかったが。


「それより、そっちはずいぶん楽しそうだったな」


「ああ。バスケは最高だな」


「ゴホッ」


 むせた。

 反応が予想できて――なお、むせた。

 スポーツ漫画の主人公みたいなセリフを締まりのない笑顔で口にする奈月が何を考えているのか一目瞭然過ぎて呆れてしまう。


「はいはいおじいちゃん、お茶ですよ」


「誰がじじいだ、誰が」


 差し出されたコップを引っ掴んで、麦茶を喉に流し込んだ。

 ふ~っと息を吐いて、手元に視線を落とす。

 自分のコップではなかった。

 つまり――


「……」


 横からからかいの気配を感じた。

 ここで何か口にすると、奈月に付け込む隙を与えてしまう。

 深呼吸もダメだと思った。動揺する姿を見せるだけでも、次の展開が予想できる。

 

――話題を変えよう。


 目を閉じて、頭の中を探る。

 何かこう、いい感じのネタはないか。

 ほんの一瞬にも満たない思考の果てに、口が動いた。


「大河が言っていたが、黒瀬はバスケの経験者なのか?」


「ん~、中学の頃はやってた」


「高校ではやらないのか」


「やらねぇ」


「いい線行ってるらしいのに?」


 もったいなくないか?

 そう付け加えると、奈月はスッと目を細めた。

 何度目かになる美人の威嚇、その半端ない圧力に息を呑まされる。


「お前、なんかつまんねーこと考えてないか?」


「……すまん、考えてる」


「バカ正直か」


 素直に答えると奈月の表情が緩んだ。

 自らを男と称する奈月が、他の女子に遠慮したのではないか。

 本人から直々に『普通に接してくれ』と念を押されたにもかかわらず、頭をよぎってしまった。

 意識を変えるのは、なかなかに難しい。


「他の奴ならウゼェって思うけど、岡野はウザくないな」


「褒められてるのか貶されてるのか」


「両方」


 奈月は笑った。

 影のない笑顔だった。


「心配すんな。そんなんじゃねーよ。単にガチすぎる高校の部活がメンドクサイだけだ」


「……そういう奴、いるな」


「だろ?」


 イチイチ気にしてんじゃねーよ。

 奈月の声に、含むところは感じられなかった。

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