第2話 新たなる日常? その2

「『性自認』って言うんだな」


『性自認』すなわち自分の性別をどのように認識しているのか。

 奈月なつきの瑞々しい唇から出てきた耳慣れない単語に、まもるは眉を寄せた。


「『心の性』じゃダメなのか?」


「オレはそれでいいと思ってる。何かかしこまってるっつーか、カッコつけてる感じしねぇ?」


 当事者である(はずの)奈月が、鼻を鳴らしながら皮肉げに口を歪めた。

『言葉遊びみたいなものかもな』と嘯く姿は、心底興味なさげというか他人事みたいに考えてるっぽいような。

 傍で見ている衛の方がハラハラしてしまう。


黒瀬くろせ、お前……本当に大丈夫なのか?」


 自分を男と認識しているのに、身体は女。

 容易には想像できないシチュエーションだった。

 当然の帰結として、衛には奈月の心境を慮ることができていないと自覚している。

 そこへきて本人があまりにも投げやりっぽい態度を見せるものだから、一層不安が募ってくる。


――だからと言って、放っておけないだろ……


 どこまで踏み込んでいいのか判断できなくとも、見て見ぬ振りをすることもできない。

 熱意とは異なる感情に突き動かされて詰め寄る衛に向けられた漆黒の瞳は――しかし、思いっきりウンザリしていた。


「それなぁ……気を遣われるの、正直めんどいんだわ」


 その声からは衛に忖度する色合いは見えなかった。

 何よりも、気怠げな表情が奈月の本心を雄弁に物語っていた。


「いや、でも……」


 なおも食い下がろうとする衛の顔に滑らかで暖かいものが触れた。

 白くて小さいそれは――奈月の手のひらだった。


――なッ!?


 顔に押し当てられているものの正体に気づいて驚き、慌てて身を引く。

 動揺を隠し切れない衛を見つめる奈月の目が細められる。


「オレがいいって言ってんだからいいんだよ」


 からりと笑った。

 きれいな笑顔だと思った。

 丁寧に磨き上げられた宝石を彷彿とさせる顔は、それ以上の追及を拒絶しているようにも見えた。


「……先生たちは知っているのか?」


「知ってるだろ。全員かどうかはわかんねーけど」


 高校に進学するにあたって中学校から申し送りがあったはず。

 奈月は何気ない口ぶりで付け加えた。


「入学早々保健室に呼ばれて色々聞かれたしな」


 声に強い苦みが混じる。

 いつの間にか顔にも渋みが増していた。

『いや、お前のためを思ってのことだろ』と反射的にツッコみかけたが……本人が苦痛に感じていないことを何度も何度も確認されたりしたら、確かにめんどくさいと感じるかもしれない。


――待てよ、それは……


 ちょうど今自分がやっていることだと気付いて、口を抑えた。

 一部始終を間近で見ていた奈月の頬が、ほんのわずかに緩む。


「先生って言っても、所詮はただの人間だ。オレみたいな奴がいるって知識はあっても、どう扱っていいのかなんてわかんねぇってのが本音だろうな」


 だから、問題を起こさない限りは基本的に放置。

 奈月の側からヘルプサインを出さなければ何もしてこない。

 少なくとも、入学以来の一年はずっとそんな感じだったと奈月は笑った。


「だったら生徒は? 俺以外に知ってる奴はいるのか?」


 わずかな期待が勝手に混じったその問いに――奈月は首を横に振った。

 孤軍奮闘、あるいは孤立無援。

 そんな四文字熟語が衛の脳裏によぎる。


「言ってないし、普段は女子として振る舞ってるし。お前だってオレが口を滑らせなきゃ気付かなかっただろ?」


「ああ」


 思い返してみれば、ところどころに違和感はあった。

 例えば――すべての始まり。旧校舎での奈月と梓の一幕。

 マンガやドラマのワンシーンに似た光景を、なんとなく『変だ』と思った。

 一見しただけでは何が変なのか言語化できなかったが……奈月が男だと言われると、すとんと腑に落ちた。

 言われなければ、首を捻りつつも答えに辿り着くことはなかっただろう。

 

――不甲斐ないな。


 自嘲で口元が歪んだ。

 奈月に孤独を強いていた教師やほかの生徒を糾弾する資格なんて自分にはないと思い知らされ、そんな自分に向けられる奈月の眼差しに不満や失望の類が含まれていないことに安堵を覚えた。

 奈月から視線を外して空を見上げた。

 どこまでも広がる空は、高くて青くて遠かった。


「つーか、バレたら困るんだよな」


「……それはまぁ、そうだろうな」


「女子の生着替えが見られなくなる」


「待て」


 想像していたのと全然違う答えが出てきて、重苦しい空気が一瞬でどこかに吹き飛んだ。

 話が前後で繋がっていないと抗議するべく横に顔を向けたら……当の奈月はスマートフォンとにらめっこしていた。

 衛に目もくれず、お気に入りのグラビアアイドルの水着姿をガン見している。

 こういう仕草を目の当たりにすると、つくづくコイツは男なのだと思わされる。


あずさと体育が別れてるのが辛いわ~」


「いや、その理屈はおかしいだろう」


「何で? 思春期の女子の生着替えだぜ? ちょっと背伸びをしてる子とか、あえて素っ気ない下着を身に着けてる子とか……それぞれに風情があるんだぜ? ワクワクしねぇ?」


「そうじゃなくって、それはただの覗きだろ!」


 衛の怒声に一歩も引かない奈月。

 美貌にはニヤニヤと笑みが浮かんでいる。

 心配するのが馬鹿らしくなるほどの太々しさだった。


「言いたいことはわからなくもないが、オレって見た目は女子だし?」


「中身は男だとも言ったよな!?」


 男と言ったり女と言ったり。

 奈月は自分に都合のいいように性別を使い分けているように思えた。

 そんなことをする人間に出会ったことがなかったが……奈月がやっていることは、ほとんど犯罪だ。


「でもよ……人の中身とか、どうやって証明すんだよ?」


「それは、お前が……」


「自白は有効な証拠にはならんよな~」


「ぐぬぬ……」


「ゲームじゃあるまいし、『ステータスオープン』とかできんし」


「心理テストとかでわかったりしないのか?」


「心って数値化できるもんなのかね? ま、できたとしても……自分が人間だと認識していれば、その手のテストなんて簡単に誤魔化せるだろ?」


 マンガで見た。

 奈月はしれっと付け加えた。

 まったく悪びれていない。


「マンガって……」


 マンガと現実は違うだろう。

 そう反論したかったが……奈月の言葉にも一理あることは認めざるを得ない。

 

――人の中身だの心だのなんて、そうそう簡単に判別できるものなのか?


「ま、お前が黙っててくれれば済むわけだ」


「お前の覗きを黙認しろと?」


「誰も困ってないじゃん」


「……」


 自信満々に言われてしまえば、そんな気もしてくる。


――ん?


 不意に閃くものがあった。

 話題の転換や温度差が急激に過ぎる。

 微妙に芯を外した返答ばかりを並べ立てるところが、特に引っかかる。

 

「なぁ黒瀬、本当に辛くないのか?」


 嫌がられることがわかったうえで、あえて話を戻した。

『黒瀬 奈月』の本性はいまだに見えてこないが……バカでエロい言動の数々は、きっと彼女のすべてを顕してはいない。

 難しくないことと楽であることはイコールではない。

 演じるのが楽でないのなら――


「しつこい。辛くなんかない……って言いたいところだけど、肩がこるのは事実だ」


「猫を被ってるからか?」


「おいおい、お前どこに目ぇ付けてんの?」


 スマホを置いて自分の胸を下から掬い上げる奈月。

 制服の上からでもわかるボリュームを要するふたつの膨らみが、視覚的に重量感を訴えてくる。


「これ、結構重いんだぜ?」


「そんな話はしてないが」


 奈月のペースに巻き込まれまいと眼鏡のレンズ越しに睨みつける。

 飄々とした軽口で誤魔化されてなんかやらないと、確固たる意志を持って。


「……肩がこるっつーか、息がつまるってのはある」


「本当に何ともないのか?」


 ウザがられても問わずにはいられなかった。

 これまで奈月のような人間に会ったことがなかったから。

 これからどう関わっていけばいいか、考えてもわからなかったから。

 奈月は苦笑を浮かべつつ肩を竦めた。『頑固だな』と唇が動いて、そして――


「だから、こうしてお前のところで気を抜いてんのよ」


「オレが、誰かに言いふらすとは考えないのか?」


岡野おかのは、そういうことをする奴じゃないだろ」


 漆黒の瞳が正面から見つめてくる。

 眼差しは衛の胸の奥にスッと入り込んできた。

 率直に『応えたい』と思った。理由なんて必要ない。


「当たり前だ。個人のプライバシーは尊重する」


「だよな。バレたのが岡野でよかったよかった」


 ずっと女のふりをしてるのも疲れるから、たまには休憩させてくれ。

 そう頼まれると……どうにも首を横に振れない衛だった。

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