第2章
第1話 新たなる日常? その1
「は~、こりゃ堪りませんわ」
捗る捗る。
五月の晴天には似つかわしくない下卑た声が横合いから聞こえてきて、箸を掴んでいた手が空中で止まった。
誰の手か?
――なんだかなぁ。
嫌々ながらに目だけをそちらに向けると――声の主が心の底から嬉しそうな顔でスマートフォンを弄っている。
いつもは涼しげな目元はだらしなく緩められ、口の端からよだれが垂れ落ちそう。
今日も今日とて妹が作ってくれた弁当をつつく衛の隣に腰を下ろした少女、すなわち『
「……何が、って聞いた方がいいか?」
あんまり聞きたくないんだが。
心の声を飲み込んで尋ねた。
先ほどからゲシゲシと肘を当ててくるのは、催促されているとしか考えられなかったから。
「よくぞ聞いてくれました、これを見るがいい」
満面の笑みとともに奈月が突き付けてきたスマートフォン、そのディスプレイに写っていたのは――水着姿の女性だった。
笑顔で巨乳。
シミひとつない白い肌。
露出度が高すぎるビキニの水着。
つまり――グラビアアイドルだった。
顔にも名前にも、そして肢体にも見覚えがある。
秘かに衛も推していた少女で、確か同い年だったと記憶していた。
「黒瀬、お前……」
おにぎりを飲み込んだ口から零れた声は、自分でもちょっとどうかと思うほどにゲンナリしていた。
胡乱げな衛の眼差しを物ともせずに、奈月は思いっきり胸を張った。
ひとつひとつの言動に遠慮会釈の類がまるで見て取れない。
「いや~、オレ、この子ずっとチェックしてたんだけどさ」
「だけど?」
「ここ最近は色気がヤベェのよ。これはもうレベルアップと言うよりクラスチェンジと言うべきだな。うん、コイツは……男を知ったな」
整いすぎた美貌の少女の口から出てくるのが、男同士の会話みたいなエロトーク。
落差が酷いこともさることながら、さっきから『この乳、ますます腕を上げたな。いや、胸を上げたな』とか『あ~、メチャクチャに揉みしだきてぇ』とか、飯を食ってる横でロクでもないことばかり並べ立てられ続けて、すっかり辟易させられっぱなしであった。
「男を……って、そんなの見てわかるのか?」
「むしろなぜわからんのか、それがわからん……って、そっか、お前童貞だもんな」
すまんすまん。
軽い口ぶりとヘラヘラした顔。
まるで誠意のない謝罪にイラっと来た。
「お前だって似たようなもんだろうが?」
「ま、そりゃそうなんだがよ」
ちんこないし。
しれっと付け加えられた言葉が耳は届いたが、脳を介する前に身体が反応した。
要するに――吹き出した。
ついでに鼻の奥に米粒が入った。
「ゴハッ!?」
「何むせてんの。お茶飲む?」
「……いただく」
奈月は脇に置いてあった水筒からコップに麦茶を注ぎ、衛に差し出した。
小さくせき込みながら手を伸ばすと――奈月はその手を躱わしてコップを自分の口に添えて傾けた。
こくりこくりと白い喉が前後する。
唇の脇から雫が垂れて、首筋に流れ落ちた。
「は~、ずっとしゃべりっぱなしだったから喉乾いてたんだわ」
「お前、お前な……」
水滴の行方をジーっと見つめてしまった気恥ずかしさを隠すために、顎と喉に力を込めて精一杯恨めしげな声を出した。
余計なことを考えなくとも、十分に苦々しい気持ちでいっぱいだったが。
「お? オレと間接キスするつもりだった?」
このスケベ。
心外すぎる罵倒に歯噛みせざるを得ない。
――どうしてこうなった!?
喉元まで出かかった疑問は、しかし、声にはならなかった。
★
『
クラスメートではあるものの、特にこれと言って接点はなかった。
そんなふたりが急速に距離を縮めることになった切っ掛けは、衛が旧校舎の取り壊しを前に見回りに足を運んだ際の一幕から始まる。
人気のない薄暗い旧校舎での、少女たちの秘めやかな逢瀬。
片方は現在衛の隣でスマホを弄っている黒髪セミロングの美少女『黒瀬 奈月』
もう片方は生徒会に所属する亜麻色の髪と碧眼の美少女『
ふたりは互いに見つめ合い、そして口づけを交わしていた。
衛はその『尊い』とも称すべき光景を目の当たりにして――失恋した。
この学校に入学してからずっと、梓に片想いを募らせていたからだ。
翌日、昼休みに奈月に連れられて屋上を訪れた。
フェンスに追い込まれ、先日の光景について口止めされて、首を縦に振った。
失恋のショックも冷めやらぬ中ではあったが、個人のプライバシーを面白おかしく吹聴するような人間と思われていたのかと憤慨すらした。
しかし、去り際に奈月の口からトンデモナイ言葉が零れ出て、状況はさらなる混迷を迎えた。
『心のちんちんがイライラする』
衛の耳がキャッチした奈月の呟きである。
混乱した挙句、妹の
さらに翌日、ひとり屋上で飯を食らっていた衛(親友の『
『身体は女で心は男』
以来、昼休みになると奈月は屋上で弁当を食べる衛のもとにやってくる。
雑誌のグラビアやらエロ系の動画やら配信のアーカイブやらを見せられるのも、もはや日常茶飯事と化してしまっていた。
★
「黒瀬、お前はその……いわゆる『性同一性障害』という奴なのか?」
「ん~、違うんじゃね?」
心と身体の性別が違うと言われて真っ先に思いついた単語を口にすると、当の本人からあっさり否定された。
確認すべきか否か、ここ数日メチャクチャ悩んだのに。
眉をひそめる衛を前に、奈月はワザとらしく肩を竦めた。
「岡野、それ、ググった?」
「ウィキペディアなら目を通したが」
「ちゃんと見てねーだろ。もう一遍見てみ?」
促されて自分のスマホを操作して『性同一性障害』の項を調べると――
『自身の身体の性別を認識しながらも、自身の性同一性が一致しない人々もいる。その中で著しい苦痛を感じる状態(障害、disorder)を医学的に性同一性障害と呼ぶ』
そんな記載があった。
顔を上げて奈月を見やる。
なぜか上機嫌だった。わけがわからない。
「違うのか?」
「オレ、別に苦痛なんて感じてないぜ」
予想外の答えが返ってきて、思わず目をしばたたかせた。
心と身体の性別が異なる人間の存在は時おり耳にしていたが、これまで周囲にそういう人間がいなかったから対応の仕方がわからなくて……具体的なイメージは湧かなかったが、漠然と『大変そうだな』と感じた。
たとえ恋敵(?)であろうとも、自分ではどうにもできない悩みや苦しみを抱えているのなら、クラスメートとしてどうにか力になってやりたいと思っていたのだが――
「……そうなのか?」
「おう。だって、この身体サイコーじゃん」
「……最高って、具体的にどの辺が?」
衝撃が大きすぎて、考える前に口が動いた。
ずいぶん不躾なことを尋ねているような気がしなくもない。
眼前のドヤ顔を見る限り、あまり意識する必要はなさそうだったが。
「どの辺ときたか……そうだな、まず顔。良すぎるだろ?」
「否定はしないが」
「あと身体。見ただけじゃわからんだろうが……オレ、かなりスタイルがいい」
「それは見ればわかる」
『かなり』とはずいぶん謙遜しているなと思った。
『すごく』の間違いではないかとさえ思った。
ビジュアル面で奈月を上回る人間なんてほとんど見た覚えがない。
それこそ、先日彼女がキスしていた梓ぐらいのもの。
自分と関わりのない範囲まで対象を広げるなら……ちょうど今、奈月のスマホに表示されているグラビアアイドルをはじめとする芸能人(の中でもトップクラス)なら何とか対抗できなくもないと言ったところか。
服の上からでもわかるほどに豊かな胸元。
キュッとくびれたウェストから丸みを帯びた尻に向かう曲線は魅力に溢れている。
お尻の位置がかなり高く、身長に比して脚が長い。
そして、(本人が言うように)抜群に顔がいい。
「朝起きて鏡を見ると、すっげー美人と目が合うわけ。オレなんだけど」
「はぁ」
「んで、この身体ってオレのもんだから、オレの好きにしていいわけ」
「それはまぁ、そうだろうな」
「最高だろ?」
「そうなる……のか?」
「そうなるんだよ!」
わっかんねーかな?
物覚えの悪い子どもを諭すような声色に困惑しつつも、理不尽を覚える衛だった。
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