第5話 映画館にて その1

『それじゃ改めて……はい』


 再び差し出された手を、まもるはまじまじと見つめた。

 奈月なつきの手はこれまでにも何回か目にしたことはあるはずなのだが、ほとんど印象に残っていなかった。

 ただ漠然と『あまり日に焼けていない白い手』だとは思っていたが……


――これは、女の子の手だな。


 ……などと、当たり前のことを当たり前に考えた。

黒瀬 奈月くろせ』は自らを男と称しているが、身体はれっきとした女。

 それも衛と同じ十七歳の女子。

 思春期の、女子。

 女子の、手。

 至近距離からしげしげと観察してみると、改めて『きれいな手』だと感心させられる。


「ネイルとか、してないんだな」


「え? ええ、別にいらないかなって」


「まぁ、異論はない」


 余計な装飾など不要だろう。

 頷きかけて、首をかしげる。


――何だ?


 ひどい違和感があった。

 眉間に皺をよせ、記憶を手繰り――

 

「そんな顔しないで、岡野おかの君」


「あ、ああ……その、しゃべり方が……」


「変かな?」


 柔らかな笑顔で小さく首をかしげる奈月。

 セミロングの黒髪がさらさらと流れ、風に揺れる。

 率直に『変だ』と思ったが、それを口にする勇気はなかった。


――いやいやいやいや、変と言うか……変わり過ぎだろ!


『予行演習』

『女のふりをする』

 あらかじめ話を聞かされていて、なお驚きを隠せない。

 眼前の少女は――まぎれもなく『黒瀬 奈月』だった。

 これまで何度となく学校で目にしてきた姿よりも、さらに女子だった。

 猫を被るなんて生易しいレベルではなく、二重人格とか生き別れの双子とか言われたら信じてしまいそう。

 それほどに、違う。


「岡野君」


「あ、ああ」


 促されるままに、おっかなびっくり奈月の手を取ると――想像以上に柔らかくて滑らかで、そして暖かかった。

 自分や大河の手とは根本的に造りが異なっている。

 ひとつひとつのパーツが繊細かつ華奢で、おかしな風に力を入れると壊れてしまいそう。


「握ってるだけだとエスコートにはならないわよ」


「わかってる、わかってるんだが」


「初めて女の子の手に触れて、堪能したくなる気持ちはわかるけど」


「待て、それはニュアンスが違いすぎる」


「すりすりされながら言われても説得力ないかな」


「人聞きの悪いことを言うな。そんなことはしてない」


 口調は丁寧なのに、内容はさっきまでの奈月のまま。

 後から後から溢れ返ってくる違和感に溺れて頭がバグりそう。

 空いた方の手で口元を抑え、アスファルトを踏みしめる足の裏に力を込めた。

 ギュッと目を閉じて、深呼吸を一回、二回。

 そんな挙動不審な衛を、奈月はじっと見つめていた。


「ごめんなさい、からかい過ぎたわ。早く映画館に行きましょう」


『場所はデータ送ったとおりだから』

『そろそろ移動しないと、上映時間に間に合わないわ』

 言われてハッとした。

 もしくは正気に戻った。

 確かにスマートフォンには映画館のアドレスが添付されていたし、『ああ、あそこか』と理解していたはずなのに……今この瞬間、衛の頭の中は真っ白になっていて、頷くことはできていなかったし、ましてや脚を動かすことなどとてもとてもな有り様だ。

 何をすればいいか、何からすればいいか判断できない。

 もどかしくて歯がゆくて、情けなかった。


「しっかりしなさい、岡野君」


 優しい衝撃。

 背中を軽く叩かれた。

 鼻先をいい匂いが掠めた。

 香水の類にしては嫌味がない。

 ゆっくりと目蓋を上げると、奈月の整った顔があった。


――うおっ!?


 驚きのあまり心臓が止まった。

 口をパクパクさせても、空気は出入りしない。

 声が出なかったのは偶々と言うか、衛が反応できなかっただけ。

動揺する衛を見て苦笑する奈月、その艶めく唇から『落ち着いて』『もう一度深呼吸しなさい』とアドバイスが聞こえてくる。

 衛は自分の胸に手を当てて、息を吸って――吐いた。


 一回。

 二回。


 何度も何度も繰り返すと、段々気持ちが落ち着いてきた。

 少しずつ酸素を供給された脳みそが働き始めて、改めて状況を把握しようとして……すぐ隣に奈月がいて、やっぱり恐ろしく落ち着けない。

 何もかもが儘ならない。


「どう、岡野君。予行演習できてよかったでしょ?」


「あ、ああ」


 認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。

 ただ女子の手を取ろうとするだけで、ここまで動転してしまうなんて。

 これまで衛が築いてきた自身に対する自信とか、男女交際にまつわる妄想とか……とにかく、ありとあらゆるものが木っ端みじんに打ち砕かれたような錯覚すら覚えてしまう。


「初めて彼女できてそれだったら、微笑ましいを通り越して呆れられると思うわ」


『うんうん。私、いいことした』

 ひとり満足げな奈月の声が耳を掠めた。

 変わらない笑顔、変わらない声。

 衛の煩悶に気づいた様子はない。


「……ッ」


 胸の奥がチクリと痛みを訴えてくる。

 その痛みの正体に、心当たりはなかった。





「ふぅ」


 座席に腰を下ろして、衛の全身から力が抜けた。

 薄暗い館内、眼前には大きなスクリーン。

『ようやくひと息つける』

 それが偽らざる本音であった。

 

「岡野君、大丈夫?」


 隣から囁くような声がする。

 かなり心配されているように聞こえた。

 残念なことに気のせいではない。もちろん幻聴でもない。

 気だるげに横に目をやると、そこには奈月(女モード)が座っている。


「厳しすぎるだろ……」


 辛うじてそれだけ口にした。

 奈月の手を取って映画館に辿り着くまでの間、『女の子をデートに誘った場合に気を付けるべき点についてアドバイスしてあげる』などと上から目線で微笑む奈月を『はいはい』とあしらっていたら――猛烈なダメ出しが飛んできた。

 それも、一回や二回ではない。


 並んで歩くんだから歩幅の違いを考えなさい。

 人ごみを歩くなら、ちゃんと庇って。

 握ってる手に力が入り過ぎ。痛い。

 緊張がモロに伝わってくる。

 キョロキョロしないで。

 スマホ見るの禁止。

 ……などなど。


「はい」


 差し出されたストローに口をつけると、甘くて冷たくてしゅわしゅわした――コーラが喉を通る。

 美味かった。

 もともとコーラは嫌いではないが、こんなに美味いと思ったのは生まれて初めてかもしれない。


「喉乾いたでしょ。岡野君、ずっとしゃべりっぱなしだったから」


「黙ってると感じ悪いかと思ったんだ」


「う~ん、どっちかって言うと逆に鬱陶しかったかも」


「……そうなのか?」


 気を遣ったつもりが逆効果だったと指摘されて目眩がしてきた。

 ことさらにいいところを見せようと気張ったわけではないにしても、ここまで何もかも裏目に出るとは完全に想定外だった。

『デートの予行演習』

 最初に聞かされた時から『大げさすぎないか?』と心のどこかで考えていた自分の見通しの甘さに恥じ入るばかりだ。


「普段あんまりうるさくしないのに、どうしてあんなにって思ってたんだけど……あれ、ワザとだったのね」


「妹と出かけるとな、ひとりでむっつり黙ってると怒ってくるんだ」


「あ~、それはまぁ、相手次第じゃないかな」


 ずっと会話が続く方が喜ぶ人もいれば、用もないのに話を振られると煩わしさを感じる人もいる。

『デートだから』

『女の子だから』

 そんなテンプレートな対応ではなく、ちゃんを相手を見て適切な行動を選ばないとダメ。

 弟を叱る姉の口調に似ていると思った。

 大河の家がこんな感じなのだ。


「どうかした?」


「いや、なんでもない」


 おかしなことを考えている。

 奈月は同い年だから姉ではないし、そもそも――


――そもそも、なんだろうな?


『岡野 衛』と『黒瀬 奈月』は『友だち』だ……と思っている。

 そして――『黒瀬 奈月』は身体こそ女性のそれだが、男を自称している。

 人の心を測る術はないと奈月は嘯いていたが、今のところ衛は奈月を疑うつもりはない。


――だが……


 待ち合わせ場所から映画館に入って席に腰を降ろすまでの間、奈月はずっと女のふりをしていた。

 学校で、みんなの前で振る舞うように。

 否。

 普段が猫を被っているのなら、今日は虎を被っていた。ライオンかもしれない。

 それぐらい違う。

 ぜんぜん違う。

 ほとんど別人だった。

 でも――違和感を覚えたのは最初だけで、途中からは気にしていなかった。

 正確には、余計なことを考える余裕がなくなっていただけかもしれないが……


 奈月のことは『友だち』だと思っている。

 他の女子と比較しても、明らかに付き合いやすいし肩肘を張る必要を感じない。

 大河をはじめとする男子と何もかも同じとまでは行かないが、それでも友だちだと思っている。

 でも。

 女のふりをする今日の奈月に対しても、緊張はしたものの特段に気兼ねすることはなかった。

 つまり、『岡野 衛』にとっての『黒瀬 奈月』とは、『男のような友だち』であると同時に『女の友だち』でもあると言って差し支えない。


――それは、つまり……俺は、黒瀬のことを……どう考えているんだ?


「岡野君?」


「……」


「映画始まるわよ。ボーっとしてるのは……」


「あ、ああ」


 咎めるような口調と眼差し。

 慌てて姿勢を正して正面を見やる。

 館内の照明がスーッと消えて、誰もが口を閉ざす。

 映像が流れるスクリーンをぼんやり眺めながら――しかし、衛の脳裏を占めていたのは隣に座る奈月のことばかりだった。

 

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