第4話 その手、その姿、その…… その2

 差し出された手と、奈月なつきの整った顔。

 その間を何度も何度も視線を往復させた。

 時が過ぎるごとに機嫌を損ねて言っているのは表情から察することができていたのだが、それでもなお動けなかった。

 頭が状況に追いつかないのだ。


「エスコート?」


 聞いたことはある。

 意味もわかっている……と思う。

 ただ、あまり身近でない単語だとも思った。


「おう。ま、デートの予行演習だとでも思いたまへ」


「予行演習?」


『デートのな』

 とてもとても気になる単語を意図的に飛ばしてオウム返ししたら、奈月がワザとらしげに嘯いた。

『この距離で聞き逃したとか言わせねーから』

 瞳が、口振りが、ニヤリと吊り上がった口元が言外にそう語っている。


「なんでまた、そんなことを」


「いや、オレの都合で土曜日に呼びつけちまって申し訳ないと思ってさ。何かお前にメリットがないとマズいなって考えたワケ。ほら、この前も世話になったし」


 悪びれもしない言い草からは申し訳なさなど微塵も感じられなかったが、それを指摘するほど野暮ではなかった。

 それよりも、今、奈月はとても気になることを口にした。


「この前? 世話?」


「何でそこで疑問形になるんだよ! あずさに釈明するとき、オレのこと庇ってくれただろ」


「あれは……別に恩に着せるつもりなんてなかったんだが」


「はいはい、お前はそういう奴だよな。でも、オレが恩って言うか借りを作ったと思っちまったの。んで、借りを作りっぱなしだと気持ちわりーんだよ」


「気持ち悪いって、お前……」


「ま、それはともかく。そういうことだから」


「そういうことって……うん? メリット? 俺に?」


 訝しげに問い返すと『おう』と自信満々な答えが投げつけられた。

 足を肩幅に開き、腰に手を当てて、胸を張りながら。

 そのポーズは奈月にやたらと似合っていたが……それよりも、差し出された手がいったん戻ってくれてホッとした。

 喉元に切っ先を突き付けられたようで落ち着けなかったから。


「ほら、お前って童貞だろ」


「唐突にディスるな」


「事実じゃん。だから、可愛い子見つけて誘っても、いきなりだと失敗するだろ」


「断定するな」


「……ほう、上手く行くと思ってる?」


「上手く行ってくれればいいと思っている」


「思ってるだけじゃダメだぜ。予行演習しとかないと」


「予行演習なぁ」


 腹立たしくはあったが、奈月の言い分は筋が通っている。

『上手く行ってくれればいい』なんてのはただの願望に過ぎない。

 最終的には神頼みするとしても人事は尽くすべきだし、経験はあって損をすることはない。

 これが普通の女子だったら予行演習の段階で緊張するし、そもそも失礼にあたる。

 今回の場合は奈月自身が提案してくれているのだから、この点は問題ない。

 考えれば考えるほどにメリットが大きいように思えてくる。

 ただ――


「お前……男だろ?」


 問いを口にするのに、一瞬のためらいを覚えた。

 奈月と自分の関係性、奈月との関わり方。

 そして、奈月がまもるに期待していること。

 待っている間に考えていたあれやこれやが脳裏に甦る。

 奈月もまた目を閉じて腕を組んで、わずかに悩む様子を見せた。

 固唾を飲んで見守る前で再び開かれた瞳は――先ほどと何も変わらなかった。


「それはそうなんだけどよ。その辺は……まぁ、今日は気にすんな。さっきも言ったとおり、お前に作っちまった借りを返す方が優先だ」


「優先って、そんなに借りを作るのが嫌なのか?」


「嫌だね」


 あっさりと。

 きっぱりと。

 奈月の声は寒々しさを纏っていて、衛の口は固まってしまった。


「んんっ。悪い、今のはナシだ」


「……あ、ああ」


 白々しい咳払いが続く。

 漆黒の瞳が『しくじった』と語っている。

 引っ掛かるところはあったが、衛も首を縦に振った。

 奈月の心に土足でずかずかと踏み込むほど無遠慮なつもりはなかったから。


「と、とにかくだな……これでも女のふりして十年以上は誰にもバレてねーし、そんじょそこらの女子よりは女子できてる自信がある」


「それは、そうなのか?」


「おう」


 しげしげと奈月を見やる。

 彼女(?)の言葉に偽りはない。

 たまたま耳にした奈月の失言がなければ、衛だって眼前の美少女が実は男だなんて考えもしなかっただろう。

 それは間違いない。

 間違いないのだが……どうにもしっくりこない。


「……そんなことをして、お前に何のメリットがあるんだ?」


 掴み切れない自分の胸中から目を逸らし、異なる方向から切り込んでみた。

『借りを返す』という部分を強調してはいるが、奈月が『自分の都合』と口にしたことを忘れてはいない。

 借りを返したいだけなら、ほかの手段だってあるはずだ。

 奈月が自分と一緒に映画を見る、その理由は今なお不明のまま。

 普通に誘ってくれるなら、それはそれで構わないのだが……どうにも胡散臭さが拭えない。


「映画を見るだけなら、それこそ春日井と行けばいいだろうに」


 春日井かすがい

春日井 梓かすがい あずさ

 奈月の恋人にして、衛の想い人。

 ふたりのキスシーンを目撃したところから、衛と奈月のおかしな関係も始まった。


――まさか、ここまでおかしなことになるとは想像できなかったがな。


 つくづく世の中は儘ならない。

 人生の不可思議に思いを馳せる衛の問いに、奈月はあっさり頷いた。


「ああ、それな。そのうち梓とも行くよ」


「だから、何で今回行かないんだと聞いているのだが?」


「それは……オレも予行演習なんだよ」


「予行演習?」


 きまり悪げに視線を外した奈月へ、さらに問いを重ねた。

 家族以外の異性と休日に出かけた経験のない衛ならば『予行演習』という名目は当てはまるが、すでに交際しているはずの奈月と梓には必要ないのではないか。


「予行演習って、何で?」


「お前さ……はぁ、まぁいいわ」


 大げさに肩を竦めた奈月が、指を突き付けてくる。

 聞き分けのない子どもに教え諭すみたいな態度が、ビックリするほど似合っていない。


「梓はな、映画が好きなんだ」


「ほう」


「中でも恋愛ものが大好きで、見始めたらスクリーンに目が釘付けになってな」


「なるほど」


「そんな梓は最高に可愛いわけ」


「は?」


「だから、そんな可愛い梓を特等席で見たいって思うだろって話」


「いや、え、見たいと言えば見たいな?」


「オレは見たい。でもさ……映画を見終わったら、後で感想を話したりするじゃん」


 喫茶店とかで。

 奈月は当たり前のように言ってくれるが、衛は素直に頷けない。

 カップルで映画を見に行った経験がないからだ。


――まぁ、そうなるのか。


 彼女はいないが、妹や大河たいがとなら映画を見たことはある。

 映画館を後にして、飯を食いながら感想を語り合ったりはする。

 たぶん似たり寄ったりの状況になるのだろうと想像はついた。想像は。

 なお現実(以下略


「で、その時に『ずっとキミの顔を見ていた』って言ったら……まぁ、ちょっと攻め過ぎかなって。今のところは普通に感想会やった方がいいと思うわけよ」


「つまり……上映中は春日井の顔をずっと見ていたい、終わったらちゃんと感想会がやりたいと言うか真面目に映画を見てなかったことがバレたくない。だから、あらかじめ予習するってことか」


「そう。さすが岡野おかの、物分かりがいいな」


 最高にアホなことを最高の笑顔で口にする奈月。

 褒められてゲンナリするなんて生まれて初めてのことかもしれないが、どこまでも己の欲望に正直な発想力には感歎せざるを得ない。


「しかし、それなら別に俺を誘う必要はないのでは?」


「だって、他に適任者がいないだろ」


「適任者?」


「他の奴と行ったら勘違いされそうだし」


 不貞腐れ気味な言葉には同意できる。

 中身はともかく外見だけなら奈月は文句のつけようがない美少女だし、女子だけでなく男子の支持も熱い。

 下手な男と一緒に映画なんて、それも奈月から誘うなんて……それは大いなる誤解を招きかねない。


「女子と行ってもダメなのか?」


「ダメに決まってるだろ。余計にダメだ。他の女子と映画見に行ったなんて話になったら」


「なったら」


「それは浮気だ」


 ひと呼吸おいた奈月の口から出てきたのは、想像以上に重いひと言だった。

 忌々しい響きに、奈月だけでなく衛も顔をしかめてしまう。


「浮気って……それは相手が男でも浮気にならないか?」


「ならない。梓の中ではオレの恋愛対象は女。何と言ってもオレから梓に告ったからな」


『だからお前ってわけ』

 他の男と行っても勘違いされそうだし。

 そう嘯く奈月の顔は自信に満ちている。過信でないのが厄介だ。

『黒瀬 奈月』は校内有数の美少女だし、こうしている今も時おり周囲から熱のこもった眼差しが向けられている。

 もちろん本人も気づいているだろう。

 表情に現れないのは、単に慣れているだけといったところか。


「だったら、ひとりで行けばよくないか?」


 一番安全なのは、それじゃないのか。

 そう思ったのだが……


「ひとりで映画って……岡野、お前、そんな寂しいこと言うなよ」


 憐みを滲ませた眼差しと声が、衛の心に突き刺さった。

 心の底から余計なお世話だった。

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