第1部最終話 逆巻くトライアングラー その2

 見上げた空はどこまでも高く澄み渡っていて、優しい風が軽やかに頬を撫でてくる。

 ソースがたっぷりかかったとんかつを口に放り込んで、ひと噛み、ふた噛み。

 豚肉の良し悪しなんてわからなかったが、とんかつなんてよほどの失敗でもしない限りは美味いものだ。

 コップに注いだ麦茶を啜ると、口の中が爽やかに洗い流される。


「ふぅ」


「……美味そうだな」


 恨みがましい声が隣から聞こえた。

 今の今まで見ないふり気にしないふりを貫いていたが、これ以上誤魔化すのは無理そうだった。

 やむなく首を傾けると――そこには昨日と同じように奈月なつきが腰を下ろしていた。

 体育座りで、俯いて。

 目だけがまもるをじっとりと見つめている。

 ちょっと怪談っぽいと思った。薄暗いオンボロ日本家屋が嫌な意味で似合いそう。


――って、昨日と今日で落差が激しすぎるだろ!


 今日も今日とて部活に精を出す友人を見送った昼休み、衛はいつもと同じように屋上に足を運んで、妹の手作り弁当を食べていた。

 ガシャンとドアが音を立てたのでそちらを見やると、奈月が立っていた。

 虚ろな眼差しで。

 フラフラした足取りで。

 それは、衛たちが喫茶店でお茶しているところを梓に見られたあの日が思い出される佇まいで、あいさつする間もなく怨霊じみた動きで距離を詰めてきた奈月は……正直かなり怖かった。

 

――何かあったんだろうな……


 昨日の奈月は、控えめに言って浮かれていた。

 あずさと仲直りできたと喜んで、放課後はデートだと高らかに謳っていた。

 それが、ひと晩経ったらこの有り様である。

 わけがわからない。


「空気読め、岡野おかの


「……聞いていいのか」


 奈月が向けてくる眼差しと、纏っている雰囲気。

 それは見間違えようもなく『話を聞いてくれ』と物語っていて……でも、あまりに不吉極まりない様相は、迂闊に尋ねることをためらわせるには十分で。

 どうしたものかと悩みながら……結局、現実逃避気味に空を見上げて弁当を食べていたのだ。


「フラれた」


「?????」


 ぼそりと呟かれた奈月の言葉が理解できなかった。

 耳はちゃんと声を拾っていたのだが、脳が受付を拒否したようなエラー感があった。


「いや、違う。フラれてない」


「どっちなんだ」


『誰に?』とは問わなかった。

 ここ数日の話の流れを踏まえれば、梓にフラれた(?)ことは明白だ。

 だからこそ、わけがわからなかった。


『私よりも奈月のことが好きになったから』

『あなたは私のライバルだから』


 梓の声が耳に甦った。

 決めつけじみた彼女の言葉を否定できなくて、一方的にライバル宣言されて。

 そう、ライバル宣言。

 梓は衛をライバル認定している。

 何のライバルかというと、奈月を巡るライバルだ。

 つまり――梓は奈月のことが好きなままのはずなのだ。

 それが、どうしてフラれる云々なんて話になるのか。


「お前、何かやったのか?」


 言いながら頭の中に浮かんでいたのは、旧校舎裏の一幕だった。

 衛と奈月と梓、三人のトラブルの発端となったふたりのキスシーン。


――喧嘩して仲直りしたなら、そこから先に進もうとしたとか?


 見た目は超絶美少女なのに、中身は思春期男子そのものな奴なのだ。

 普段は猫を被っているものの、調子に乗って何かやらかしても驚かない。

 あの日の喫茶店では梓の剣幕にビビっていたが、ここぞというときには躊躇なくアクセルを踏むに違いない。


「何にもしてねーし。つーか何だよそれ、お前、オレのことどう思ってんの?」


「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」


「……ヤベ、めっちゃやらかしそう」


 自覚があるらしく、奈月は力のない笑みを浮かべている。

 なんとも味がある表情だったが、込められた感情を読み解くことはできない。

 

「何もしてないのにフラれたのか? 仲直りしたんじゃないのか?」


「フラれてねーし、仲直りしたし」


「だったら、いったい何があったんだ?」


 辛うじて成立していた会話が途切れた。

 急かしたい気持ちはあった。午後の授業開始までの時間に余裕はない。

 それでも、我慢して奈月が自分から口を開くのを待った。

 よくよく考えてみれば、授業より奈月の変貌の方がはるかに重要だった。


「……友だち」


「友だち?」


「そ。『私たち、友だちからやり直しましょう』だって」


「それは……フラれたのとは違うのか?」


「違うし!」


 恋人から友だちへ。

 妹の部屋に散らかっていた漫画で似たようなセリフを読んだ気がする。

 シンプルに考えればフラれたと解釈するべき話の流れに思えたが、奈月は猛烈な勢いで反駁してきた。


「『奈月のことが好き。でも、雰囲気に流されていた部分もあると思う』」


「はぁ」


「『あなたのことは本当に掛け替えのない人だと思ってる。だから、ちゃんとしたいの』……って、なんだよそれ!? オレたち、ちゃんとしてるじゃん!?」


 俯いていた奈月が顔を上げ、空に吠えた。

 きれいな黒髪を振り乱しながら。


春日井かすがいの言うこともわからなくはないな」


「え……わかるの、お前?」


 狂乱していた奈月がぐるりと首を回して見つめてくる。

 ホラー映画みたいで怖かったが、勇気を振り絞って頷き返した。


「いや、初めて見たアレな。学校でああいうことをするのは、ちょっと進み過ぎじゃないのかとは思っていたんだが」


「お前、いつの時代の人間だよ。オレたち高校生だぜ。キスぐらい普通だって」


「お前がそう思っていても、春日井はそう思ってなかったってことだろ」


 キスを普通と言われて秘かにショックを受けながらも、真っ向から向かい合った。

 お互いの瞳が相手の顔を映して、そして――


「マジか~」


 奈月は頭を抱えて俯いてしまった。

 しおれた植物、空気が抜けた風船を思わせる姿が同情を誘う。


「ま、まぁ……『友だちから』とか『ちゃんとしたい』とか言ってくれているんだから、それだけ春日井もお前のことを本気で考えてくれてるってことじゃないか?」


「……そう思う?」


 間近で見上げてくる瞳が不安げに揺らめいている。

『その表情は卑怯だろ!』と叫びたくなるところを堪えたが、眉間に皺が寄るのは止められない。

 白々しい言葉とともに口の中に広がる苦みが煩わしかったし、何よりも奈月が反則的に可愛かった。あざとすぎるほどに。


――春日井……俺に気を遣ったのか?


 歯噛みしながら、ふと、そんなことを考えた。

 ライバル宣言をしておいて、自分の圧倒的優位を捨てる。

 矛盾しているようにも思えるが、いかにも梓らしいとも思えた。


『奈月だって……奈月だって、私と一緒にいるときにはあんな顔を見せてくれたこと、一度だってないッ!』


 つい先日相対した際に突き付けられた激情が思い出された。

 自分には向けてくれないくつろいだ顔を衛にだけは見せる奈月。

 そんな状況のまま交際を続けることに耐えられないといったところか。


――つまり、春日井は……


 気を遣ったわけではない。

 完膚なきまでに衛を打ち負かしたいのだ。

 だからこそスタート地点に戻した。衛から奈月のすべてを奪うために。


――そこまでしても、俺に勝てる自信があるんだろうな。


 煩悶する奈月を見つめながら、頭の中では冷静に状況を分析していた。

あくまで『黒瀬 奈月』と『春日井 梓』は両想いなのだ。

 今までは奈月が前のめり過ぎたから梓が一歩引いただけで、お互いに向けられる矢印の方向が変わったわけではないし、遮られたわけでもない。

 一方で『岡野 衛』は『黒瀬 奈月』に恋している。


 認めた。


 梓に指摘されて一晩考えてみて、その時間の大半が奈月と過ごした日々の記憶に埋め尽くされていることを自覚した瞬間、すとんと腑に落ちた。

 

『やれるものなら、やってみなさい』


 梓の声が聞こえた気がした。

 衛は奈月に見られないように拳を握り締めた。

 全身を巡る血潮を感じる。闘争心の昂ぶりを感じる。身体の震えは武者震いだ。


――やってやろうじゃないか。


 勝ち目がないから諦めるとか……そんな言い訳は必要ない。

 奈月と梓が両想いだから身を引くなんて殊勝な気持ちはひとかけらもない。

 かつて梓に抱いていた恋心に偽りはない。

 だが……生まれてこの方まるで身に覚えのないこの感情に比べれば、それは淡くて甘い夢に似た幻想の産物に過ぎなかった。


――断言できる。この感情は、まったくの別物だ。


 なぜ断言できるのかと問われれば――奈月が梓の唇を奪っている場面に居合わせた衛が味わった絶望的なまでの敗北感を、今はまったく感じていないから。

 そう、奈月から梓を奪い取ろうなんて考えたことは一度もなかった。

 完敗したと認めていたからこそ、奈月に敵意を抱かなかったのだろう。

 今はどうか?

 違う。ぜんぜん違う。

 奈月に好かれている梓のことが――心の底から妬ましい!

 胸の奥に灯った炎は、熱くて苦しくて苦々しくて……それでも甘くて、どこまでも魅惑的だった。


「岡野、どうかしたか?」


「……別にどうもしない」


 返事をする前に、大きな深呼吸を要した。

 滾る激情を奈月にぶつけることにはためらいがあった。

 梓が正々堂々の勝負を挑んできたのだから、自分も正々堂々と迎え撃ちたいとも思った。


『あなたは私のライバルだもの』

 梓の声が再び耳に甦る。

 皮肉だった。

 フラれて、奈月を巡るライバルとして認めあって向かいあって――初めて衛は梓と心を通わせることができたのだ。

 残念だとは思わなかった。

 後悔することもなかった。


「岡野?」


「だから、なんでもない」


「何でもないって、説得力ないわ」


「そうか?」


「ああ。だってお前――笑ってるぜ?」


 訝しげな眼差しを向けてくる奈月の頭に、手刀を落とした。

 頭を抱えて恨みがましげに睨みつけてくる奈月を無視して――最後に残しておいたとんかつを口に放り込んだ。


――誰のせいだと思ってるんだ!


 笑った。

 自分のせいだ。

 

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私のいびつなトライアングル 鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』 @hid

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