第7話 逆巻くトライアングラー その1
見上げた青空をカラスが飛んでいた。
カーカーうるさい間抜けな鳴き声とともに。
嘲笑されているように聞こえて癇に障ったが……いくら屋上に腰を下ろしているとは言え、地上から石を投げても当たりはしない。そもそも手ごろな石など近くに落ちていない。
「は~、今日もいい天気で飯が美味い」
眉間に皺を寄せていると、能天気な鼻歌が隣から聞こえてきた。
目だけを動かして様子を窺ってみれば、ニッコニコな黒髪美少女が満面の笑みを湛えながら弁当を口に運んでいる。
『
つい先日の憔悴しきった姿とは似ても似つかない上機嫌ぶりで、チラ見するだけでハッキリわかるほどに全身から幸せオーラが滲み出ていた。
「
無遠慮な口振り。
獲物を狙う目つき。
漆黒の眼差しの先には、
『兄貴、大丈夫?』『どこか悪いんだったら、たまには学校休んだら?』などと気遣わしげな言葉とともに手渡された弁当は、今日もいい感じな出来栄えだ。
――
ため息が勝手に口から出てきた。
どうにも心がモヤモヤしっぱなしだ。
不調の原因は明白で、それは昨日の放課後の一連の出来事に他ならない。
入学以来一年以上抱え込んでいた恋心を
フラれる可能性は高いと思っていたし、それなりにショックを受けると思っていたのだが……
――あれを玉砕と呼んでいいのか?
『お断りよ』
『私に告白を断られても動揺しない。むしろホッとしてる』
ピシャリと拒絶されたことよりも、続く梓の言葉に込められた衝撃に全身を貫かれて、一晩経ってもまともに頭が働かない。
『奈月』
『私よりも奈月のことが好きになったから』
そう告げられて咄嗟に抑えた胸の奥で、梓に告白した時でさえ平静を保っていたはずの心臓が確かに揺れた。
揺れたなんて生易しい表現は適切ではなかった。
もはや激震とでも呼ぶべき凄まじいパワーが衛の脳を、心を容赦なくかき回してくれた。
その混乱は今なお尾を引いたまま。
――俺が……黒瀬を?
空を見上げるふりをしながら……もう一度、隣に腰を下ろしている奈月に目をやった。
当の本人は視線に気づいた様子もなく衛の弁当箱に箸を伸ばしてきて、その箸は唐揚げを摘まんでいて、唐揚げは大きく開かれた奈月の口の中に消えた。
一部始終をぼんやりと見つめていたら、目が合った。
「お前が食わないならオレが食ってやる。妹ちゃんの唐揚げ美味いな」
「そりゃどうも」
悪びれもせずニコニコ笑う奈月を叱る気にはなれなかった。
取っておいた唐揚げを奪われたことに対する腹立たしさよりも、唐揚げを頬張る奈月の幸せそうな顔からしか摂取できない栄養素の方がウェイトが大きかったからだ。
――何を考えているんだ、俺は?
誰に耳にも届かない声は、しかし、衛の心にはしっかりと届いた。
あまりにも自然にバカバカしいナレーションみたいな言葉を思い浮かべてしまったことに、驚きを覚える。
――バカバカしい、か。
『本当に?』と頭のどこかから嘲笑が聞こえる。
奥歯をギュッと噛み締めて、目蓋をギュッと閉じた。
耳を塞いでも逃れられない声が、衛に沈黙を強いてくる。
「……」
「岡野、何か変なもんでも食ったのか?」
「そんなことするか」
「だよなぁ」
自分で話を振っておきながら、フワフワした相づちを打つ奈月。
ゆっくり目蓋を開けて、その曇りない笑顔を見ていると……沸き立つ喜びの感情とじくじくと滲む苛立ちが複雑な模様を描きながら胸に広がっていく。
甘くて苦い味とともに。
つい昨日まで梓に想いを寄せていた間には、とんと味わった記憶のない感覚だった。
「……機嫌、良さそうだな」
「まぁな。昨日の夜さ、梓から電話があってさ」
「ほぅ」
「『話は岡野君から聞いたわ。勝手に誤解してごめんなさい』って」
「そりゃよかったな」
「そんで、今日の放課後デートってわけ」
「……デートか。そりゃ、よかったな」
ほとんど同じ言葉を繰り返すのに、一瞬の躊躇があった。
奈月の口から『梓とデート』と嬉しそうな響きが聞こえてきて、身体の奥がドクンと鳴った。
目蓋の裏に甦ったのは――すべての始まり。
放課後の旧校舎で奈月と梓がキスしていた一幕だった。
「……ッ」
胸に痛みを覚えて手を当てた。
自覚できるレベルの鼓動が止まらない。
呼吸が浅くなって、喉がカラカラに干上がった。
顔が熱を持って、視線を合わせることができなくなって。
すぐ隣に奈月がいて、衛は奈月と梓が交際していることを知っていて、衛と奈月はただの――
――ただの……何だ?
ほとんど毎日のように屋上で昼食を共にしたり、休日に一緒に映画を見に行っておいて今さらだったが……自分と奈月の関係をどのように定義すればよいのか、適切な言葉が思いつかなかった。
――まぁ、精々『友だち』ってところだろうが。
『友だち』
その言葉が脳裏に閃いた瞬間、衛は反射的に顔をしかめた。
友だちという間柄に、それほど強く感情を揺さぶられることなどないはずだった。
物心ついたころからの親友(腐れ縁とも言う)である『
男女を問わず。
ひとりひとりとの距離感は様々ではあるにしても。
その『友だち』枠に奈月をカテゴライズすることに、強烈な抵抗感を覚えている。
「ところで岡野」
「なんだ?」
感情を表に出さないようにするために、ひと方ならぬ努力を要した。
奈月は肝心なところが抜けている(ように見受けられる)人物だが、それは決して彼女が鈍いことを意味していない。
しかも、今の自分たちは互いに表情の微妙な差異すら見分けられるほどの至近距離。
これで緊張するなと言われる方が無理だった。
「梓に、その……どの辺まで話したんだ?」
おずおずと尋ねてくる態度は奈月らしくないと思った。
その裏では『それは確かに気になるだろうな』とも思った。
衛と奈月がいちゃついていた(梓視点)ところを目撃した時の彼女の表情は非常に言語化し難いものであった。
――いや、言語化そのものは簡単なんだ。
ズバリ『恐怖』だ。
衛だけでなく、奈月すらビビって声が出せなくなるほどの。
なまじ普段の彼女が温厚なだけに、落差も相まって威圧感が半端なかった。
そこまで拗らせ切っていた彼女が態度を翻して奈月に電話をかけて、仲直りをしようと言ってきてくれたのだ。
しかも、その原因が『岡野君から話は聞いた』ときた。
奈月としては、衛が梓に何を話したのか気にならないはずはない。
ただでさえ奈月は衛以外の人間に秘密にしていることがあるのだから。
「たいしたことは話していないが」
「前置きはいいから結論を言え」
「……
「それは聞いた」
「心配しなくても、お前が春日井の顔を特等席で観賞するつもりだったことは言ってない」
「それを言っていたら、オレはお前の口を封じて……いや、もう手遅れだから、お前を、お前を……」
壊れたアラームのように『お前を』を繰り返す奈月。
わなわなと震えている手に、彼女の本気度合いが垣間見えた。
『コイツ、アホだな』と笑い飛ばしたくなって……でも、できなかった。
「岡野、それ以上は本当に何も言ってないんだな?」
「何も言ってない」
ウソだった。
梓に告白して――フラれた。
そこから後に交わした言葉の方が重要な気がしなくもないが、その内容を奈月に告げることにためらいを覚えた。
「……じゃあ、いい。ま、オレの本気度合いを感じ取ってくれたから許してくれたってところか」
「どうだろうな」
素直に同意することはできなかった。
胸の奥に蟠っていた鉛に似た重い感情が――それはおそらく嫉妬と呼ばれる感情――衛の口を塞いでしまっていたから。
自分にそんな感情があることに本日何度目かの驚きを覚え、誰だって嫉妬ぐらいするだろうと呆れ、そして――梓の言葉の正しさを認めざるを得なくて、上機嫌な奈月の笑顔を見て『まぁ、いいか』と苦々しい思いを飲み下した。
全然良くなかった。
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