第8話 帰宅 その2

『お前、マゾいな』


 スマートフォン越しに耳朶をくすぐる奈月なつきの声に、まもるは思いっきり顔をしかめた。

『人聞きの悪いことを言うな』『誰のせいだと思ってるんだ?』などなど。

 言いたいことは山ほどあるはずなのに、どれひとつとして形にならなかった。





 帰宅するなり自室のベッドに身を投げ出した衛は、いつの間にか眠っていた。

 目を開けると視界がぼんやりしていて、位置がずれた眼鏡のレンズが皮膚に触れて曇っているせいだと気付いて、身体を起こして眼鏡を拭いた。

 寝ぼけ眼で窓の外を見やると、とっくに日が暮れていた。

 眼鏡をかけ直してドアを開けると――トレイに乗った鍋がひとつ、コップに麦茶。

『疲れてるみたいだから寝かせといた』と紙片に見覚えのある丸文字が連ねられていて、デキた妹のありがたさと不甲斐ない兄としての申し訳なさが入り混じった気持ちとともに、冷めたおかゆを飲み下した。

 微妙に粘ついた米粒を麦茶で流し込んで、ホッとひと息。

 枕元に置きっ放しになっていたスマートフォンが震えたのは、そんな時だった。

 相手は――奈月。


「これが春日井かすがいだったらなぁ」


 愚痴が勝手に口をついて出る。

 同時に、あずさの連絡先を知らない(きっと梓も衛の連絡先など知らない)ことに改めて気づかされて口元を歪めた。


「……はぁ、マジで凹む」


 不意打ちを食らって気落ちさせられはしたものの、いつまでたっても震えが止まらないスマホを放置するわけにもいかない。

 頬を左右から軽く叩いて気持ちを入れ替え、タップして耳に当てる。


『全部梓から聞いた』


「お、おう」


 あいさつもなしに率直に切り込まれて面食らう。

 生徒会の会合の後、梓と和解して一緒に駅の近くまで帰った。

 その長くもなければ短くもないひと時は、彼女に想いを寄せるひとりの思春期男子にとってかけがえのないものだった。

 当初は吹雪に似た冷たさ(と痛み)を伴っていた梓の声も、衛の釈明を受け入れてからはわずかに緩められていたように感じられた。

 ……それでも雪解けと呼ぶには程遠い有様だったが。


『マジでヤバかったわ。いきなり梓から通話来て『岡野おかの君は黙っててくれるって言ってるけど』とかツッコまれてさ、いや~参った参った』


 梓と話すなら、こっちに根回ししといてくれよ。

 詰るような奈月の口ぶりから、彼女も苦労しているのだと察することができた。


「連絡したかったのはやまやまだが、春日井に監視されたままだったからな」


『あの場にお前もいたのかよ。オレの機転に感謝しろよ』


「お前のことを庇ってやったから差し引きゼロだ」


『チッ、ちゃっかりしてんなぁ』


 きっとスマホの向こうでは苦笑しているのだろうな。

 その顔が想像できてしまう程度には、自分と奈月が近しくなっていることを認めざるを得ない。

 梓の懸念はあながち的外れとまでは言えないと思った。


――まぁ、それでも的外れなんだがな。


 自分が好意を抱いているのは、あくまで『春日井 梓』なのだから。

 当の本人に気づかれなくて胸を撫で下ろしたくなるような悔しいような、複雑な感情が拭い去れない。

 今はもう穏やかな鼓動に戻っている胸に手を当てながら、直接想いを告げることができない自分に歯噛みする衛だった。





『それにしてもさぁ……せっかく一緒に帰ったのに、ずっとオレとの惚気話を聞かされてたとか……オレ、謝った方がいい?』


「構わん」


『悪気はなかったと思うわけ。梓にしても堂々と話ができる相手がいなくて悶々としてたんじゃないかなって。自慢したかったみたいな?』


「それで事情を知ってる俺が『何も言わない』と誓ったから気が緩んだ、と」


『そんな感じかね。アイツ、育ちのせいかずっと気を張ってるからさ』


「それは……大変だな」


『同感だ』


 それを言ったら、ずっと女のふりをしているお前はどうなのか。

 奈月にツッコみたいところだったが、どう考えても余計なことを口にする話の流れではない。


『ま、それはいいとして……梓に恋するお前に向かって『恋をした経験あるの?』って、いや、マジですまん』


「別に怒っていない」


 だいたい何についての謝罪なのか。

 梓を無神経と詰ることはできない。衛は彼女に気持ちを伝えたわけではないから。

 奈月を責めることもできない。『俺の方が先に好きになったのに』なんて、そんなバカバカしい理屈が通用すると考えるほどマヌケなつもりはない。

 奈月と梓はそれぞれ自由意思でお互いに恋し合い愛し合っている。

 そこに余人が横槍を入れる隙間はない。

 ましてや悪しざまに罵るなんて、ありえない。


『その声でそれはないわ』


「そうか? いや、俺もショックなことはショックだったぞ」


『うんうん。胸の奥に溜めといてもロクなことにならねーだろうから、オレでよければ聞いてやるよ』


「お前にだけは絶対に言わん」


『だよな~。オレがお前でも、オレにだけは絶対言わんわ』


 ハハハと笑う奈月。

 声に嫌味を感じないし、苛立ちを覚えることもなかった。


『でも、マゾいことはマゾいな。スカッと言ってやればよかったのに』

 

「『お前のことが好きだ』と?」


『ああ。フラれるとわかってても言わねーとどうにもなんねーぞ』


「しかし……春日井の負担になるだろう、それは」


『別にいいんじゃね。梓なら煩わしいと思えばハッキリ拒否ってくれるだろうし』


 悶々と想いを抱えながらジーっと見つめられる方が梓にとっても感じが悪い。

 たいして広くもない生徒会室で頭を突き合わせて仕事をする仲だし、次代の生徒会では会長と副会長の最有力候補同士でもある。


『あと、たぶん気持ち悪い』


 奈月が付け加えたひと言に、衛は盛大に顔をしかめた。

 同時に『それはそうかもしれない』と認めざるを得なかった。

 すぐ傍からずっと秋波を浴びていたら梓だっていずれ気づくだろうし、気付いたうえで何も言われなかったら……いっそのこと『さっさと言ってくれ』と頭を抱えたくなりそうだ。

 自意識過剰のそしりを受けかねないから、梓の側から直接その言葉を告げることは難しかろう。

 そこまで想像が及んでも、なお一歩が踏み出せない。

 思い切って告白できていたら、ここまで苦労はしていない。


「春日井にフラれた方が、仕事に影響あると思うんだが」


『じゃあ、生徒会やめればよくね? 強制でも何でもないんだし』


「それは、そうなんだが……こんな理由で勝手にやめるのは、人としてちょっと」


『こんな理由って、お前……恋だの愛だのはお前が思ってるよりもずっと大切なものだと声を大にして言いたい』


「声はもう十分すぎるほど大きいぞ」


 ツッコミを入れながら、頭の中で奈月の言葉を反芻する。

 これまで衛は生徒会という公的(?)な組織のアレコレは恋愛という私的な事情よりも優先度が高いと考えていた。

 しかし、奈月は逆だと言う。

 恋愛は生徒会に優先される、と。


――そうなのか?


 もともと衛が生徒会に入った理由は――ズバリ梓がいたからに他ならない。

 少しでも彼女との接点を求めて生徒会室に足を運び、そのまま……そんな流れだった。

 これは衛に限った話ではない。

 梓が生徒会に所属すると公表された時点で少なくない男子が同じ道をたどっている。

 ただ、衛以外は誰も残らなかっただけで。

 ならば、なおさら梓にフラれて気まずいまま生徒会に残る理由はないように思える反面、彼女目当てで生徒会にすり寄ったほかの連中と自分とは違うのだと梓に見せつけたい気持ちもウソではない。


「忠告は感謝しておくが、やはり辞めるという選択肢はないな」


『そっか。ま、お前が自分で選んだ道ならオレがどうこう言う筋合いもないけど』


「すまんな」


『気にすんなって。じゃあ、オレ、風呂入ってくるから』

 

 そう言って奈月は通話を切った。

『風呂』という単語が耳に触れた瞬間、クラクラするような映像が脳裏に浮かんだ。

 痛みを訴えてくる額を押さえ、ベッドに寝っ転がってギュッと目を閉じた。


――黒瀬くろせ……


 豊かな膨らみを見せる自分の胸を持ち上げながら迫ってくる奈月の姿。

 朝起きて自分の顔を見て満足する奈月の寝ぼけた顔(想像)。

 シャワーを浴びる、一糸まとわぬ奈月の肢体(想像)。


「落ち着け」


 あえて口に出した。

 奈月のそういう姿を妄想することは、酷く罪悪感を刺激される。

 梓で同じようなことを考えたときよりも、いっそう酷い。

 ふたりを(表現規制)した状況を比較して愕然とした。


「兄貴、晩御飯食べた?」


 ドアを挟んだ廊下から聞こえた声に、ハッと我に返った。

 耳によく馴染んだ妹の小生意気な響きだった。

 慌てて脳内妄想を振り払って、喉から声を絞り出す。


「ああ、もう食べた。おかゆ、ありがとうな」


「お礼は別にいいけど……兄貴、彼女でもできたの?」


 その声に、衛の全身が硬直する。

 粘着質な汗が噴き出してくる不快感とともに。

 

「い、いや、できてない」


「そう? 大河たいがさんと電話してる感じじゃなかったってゆーか、相手が男子じゃなかったっぽいってゆーか」


 なんかそんな感じがしたんだけど。

 じわじわと詰め寄ってくる妹に『何でもない。ただのクラスメートだ』と答えながらも、奇妙な引っ掛かりを覚えていた。

 耳の奥から、梓の声が聞こえた気がした。

 何を言われたのかは、思い出せなかった。

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