第5話 対決 その1

「それで、話って何かしら?」


 放課後の校舎裏。

 どこにでもある学校の何気ない日常風景。

 その片隅――様々な要因によって衆目の視界から巧妙に隠された領域で、『春日井 梓かすがい あずさ』と『岡野 衛おかの まもる』は正面から向かい合っていた。

 昏く激しい光を宿す碧い瞳が、衛を捉えていた。


「まずは、来てくれたことに礼を言う」


 衛は最初に頭を下げた。

 自分と梓を取り巻く状況は複雑怪奇な様相を呈していて、言葉を尽くさなければならないことは山ほどある。不要なことを口にする余裕などなかったけれど……それでも、彼女に感謝の意思を表したかった。


「別に、そこまで畏まらなくてもいいと思うわ」


「そう言ってもらえるとありがたいんだが……」


 言葉とは裏腹に、梓が纏う雰囲気は固い。

 丁寧な言葉づかいではあるものの、微妙に突き放すような口ぶり。

 あからさまな拒絶の気配は見られなくとも、衛がよく知る彼女と比べるとかなり攻撃的な印象を受ける。


――まぁ、無理もないか……


『岡野 衛』にとっての『春日井 梓』は初恋の少女だが、『春日井 梓』にとっての『岡野 衛』は、恋する『黒瀬 奈月くろせ なつき』と自分との間に割って入ってきたお邪魔虫に過ぎない。

 梓が衛に敵意を抱くのは、ある種の必然。

 心の底から『理不尽だ』と叫びたくなるところだが……俯瞰的であろうと努めれば、否応なく現実を受け入れざるを得ない。

 残念なことに。


「最初に春日井の誤解を解いておかなければならない」


「誤解?」


 刺々しい声で問い返されて、碧い瞳を見据えたまま頷いた。

 梓に怯む情けない自分の姿を見せたくなかった。


「この前の土曜日に春日井に見られた件なんだが」


「喫茶店で黒瀬さんとデートしていたわね」


『自分と奈月がキスしているところを見ておいて』

『黙っていてくれるって言ったくせに、自分はいけしゃあしゃあと』

 非難の声が聞こえてくる気がした。

 幻聴なのだが被害妄想のひと言では片づけられない。

 梓は必要以上に口を開くことはなかったが、碧い双眸は思いっきり激情を物語っていた。

 

「あれはその、デートじゃなくてな」


「ずいぶん仲がよさそうだったわ。あれがデートでなければ何なのかしら?」


 咎めるような口ぶり。

 あの日の冷たい輝きとは打って変わった熾烈な眼光。

 向かい合っているだけで『すみませんでした』とこうべを垂れたくなるプレッシャーを、衛は耐えた。


「あれはその、予行演習に付き合っていただけなんだ」


「予行演習?」


 梓が被っていた氷のマスクにひびが入り、今まで目にしたことがない表情が浮かび上がってくる。

『あなたはいったい何を言っているの?』と問いかけたそうに見えた。

 素直に疑問を投げてこないのは……衛の言葉を咀嚼しかねているのが半分、衛を信頼していないのが半分といったところか。


――俺が信頼されてないから、俺の言葉も信頼されないわけだ。


 悲しみに暮れかけて、歯を食いしばる。

『今はそれどころではない』と己を叱咤して説明を続けた。


「ああ。黒瀬が……春日井と見に行く前に下調べがしたいと言い出してな」


 自分の口から出た言葉に自分で『バカなこと言ってるんじゃない!』とツッコみたくなる内容だが、生憎これはウソでも何でもない。ただの厳然たる事実であった。


 奈月にまつわる誤解を解くにあたって、どこまで梓に真実を告げるか。

 それが最大の問題だった。

 すべてを偽りで固めてしまうと、梓は衛の言葉を頭から否定するに違いない。

『春日井 梓』は頭の回転が速く、機知に長けた人物だ。

 生徒会で様々な仕事を共にする過程で、衛はそれを嫌というほど思い知らされている。

 彼女に適当な報告を行った連中の末路とともに。

 ウソはつけない。

 しかし、すべてを詳らかにすることもできない。

 奈月には、梓が知らない真実がある。

 すなわち奈月の性自認――奈月が自らを男性と認識しているという事実が。

 どんな事情があろうとも、衛の口から伝えるべきではないと思った。

 奈月自身が梓に伝えなければならないことだと思った。

 衛が奈月のプライバシー、それも、もっともデリケートと思われる部分に踏み込むどころか誰かに喧伝することは人の道に外れ過ぎているし、奈月にしても梓と交際を続けるならば自らの意思で彼女に――


――伝えるべき、なんだろうか?


 そこは最後まで判断がつかなかった。

 梓は奈月を女性と認識したまま交際できているのに。

 だから、今の今までずっと迷って――ふたりで話し合えばいいことだと結論付けた。

 とりあえず現状では説明しないことに決めて、なおかつ梓が目にした致命的な状況について弁明しようと考えたなら……これはもう、ある程度までは奈月の残念な性格を明らかにしなければ収まりがつかない。

『俺が先に謝っておくから、お前もちゃんと謝れ』作戦だ。

 一時は奈月のアイデアを自分のものとして『梓とデートするために奈月で予行演習した』作戦も考えはしたのだが、これではつじつまが合わない。

 ふたりのキスシーンを目撃しておいて、ふたりの関係を秘密にすると誓っておいて、どうしてそんなことをするのか。

 どれだけ予行演習を行っても勝ち目がないことはハッキリしているのに。

 そうツッコまれると切り返せなくなって、説得は失敗すると思った。

 だから、奈月にも多少の泥をかぶってもらうことにしたのだ。

 一応本人にもメッセージは送ったし、了解は貰った。


「……奈月が、そんなことを?」


 梓は『奈月』と名前を読んだ。

 これまでは頑なに『黒瀬さん』呼びを徹底していたのに。

 

――動揺しているな。


 それは、衛の説明を『あり得ない』と一笑に付したいけれど、一笑に付せなかったからではないだろうか?

 何となく、そんな気がした。


――ここで直に聞くわけにもいかんが……実際のところ、どうなんだろうな?


 奈月に対して不信感はなくとも、不審に見える部分はあったのかもしれない。

 最初に目にしたキスシーンが衝撃的だったから、梓が奈月に完全に心を許しているように見えたから、ふたりの関係性の盤石さに疑いを抱いてこなかったが……ここへ来て、奈月が実は上手く本性を取り繕えていなかった疑惑が浮上してきた。


――アイツ、外面はいいのになぁ……


 迂闊というか残念というか。

『黒瀬 奈月』には、意外と抜けたところがある。

 その脇の甘さも彼女の魅力と言ってもいいのだろうが、本人に伝えると怒られそうだとも思った。

 閑話休題。


「私のために予行演習? 岡野君と?」


「他の女子と行くと春日井が嫉妬するからって言ってたぞ」


「それは……するわね」


『嫉妬なんかしないわ。バカにしないで!』と怒髪天を衝くのではないかとヒヤヒヤしていたが、予想外に梓はあっさり認めた。

 意外だなと思う反面、そこまで奈月に強い執着を抱いていることが見て取れて……羨ましいとも思った。


「黒瀬の恋愛対象は女子で、告白された春日井はそれを知っている。だから男の俺なら大丈夫とさ。ふたりの事情を知っているからというのもある」


「大丈夫なわけないでしょ」


「束縛強いな」


「何か言ったかしら?」


「すまない。何も言っていない」


 漏れた小声を拾われて反射的に首を横に振った。

 人気のない校舎裏は雑音が少ないから聞こえていないはずはないのだが、梓はそれ以上追及しては来なかった。


「奈月……」


 繊細な指を形のいい顎に当て、腕を組んで悩む姿すら美しい。

 ここまでくると何かの芸術品のようにさえ思えてくる。


「とにかく、黒瀬の件はそういうことだ。あとはふたりで話し合ってくれ」


「……そうね」


 梓は頷いた。

 不承不承といった体ではあったが。

 いつもどおりのメンタルにまでは回復していないようだが、最悪の状況から引っ張り上げることには成功した。


――さぁ、仕上げだ。


「春日井」


 呼吸を整え、思い切って声をかけた。

 梓は顔を上げ、衛を正面から見つめてくる。


「まだ何かあるの?」


「ある。いや、ここからが本題だ」


「本題?」


「ああ。今回の件を春日井にどう説明するか、すごく悩んだ。悩んでいるうちに『何で俺が黒瀬と付き合ってる』なんて話が出てくるのか疑問に思った」


「それは……あれを見て付き合ってないって言うのは説得力がないでしょう?」


「春日井からそう見られると言うのはわかる。でも、俺はわからなかった。なぜなら――」


 言葉を区切り、梓の目を正面から見つめ返した。

 軽く胸を張って、足に力を籠める。

 左右の拳をきゅっと握りしめた。


「なぜなら――春日井、俺が好きなのはお前だからだ。俺と付き合ってほしい」


「お断りよ」


 即答だった。

 一世一代の告白だったのに、一秒すら悩む素振りはなかった。

 何なら衛の声を遮るようでさえあった。

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