第8話『黒瀬 奈月』 その2
『聞こえてないって言ったくせに』
何しろ距離が近かったし、屋上にふたりきりだったから声を遮るものは何もない。
呟きに含まれる感情は複雑怪奇極まりなくて、すべてを読み解くこと難しい(と言うか無理だった)が……とりあえず声の主である奈月が現在進行形で剣呑な雰囲気を纏っていることは間違いない。
凄味のある美貌から滲み出るプレッシャーをまともに浴びて、衛は本能的に身を竦ませた。
「な、何のことだ?」
声が震えた。
覚悟を決めて自分から話を振ったくせに。
握りしめたこぶしの内側が、汗でびっしょりと濡れていた。
「『何のことだ?』って白々しい。忘れちゃった?」
クックッと喉を震わせる奈月は、獲物を前にした肉食獣を思わせる笑みを浮かべていた。
獰猛な表情が無性に衛の記憶を刺激してくる。
――こ、この顔は……
すっかり干上がってしまった口から勝手に唾を飲み込もうと空振り気味にうねった喉が鈍い痛みを訴えてくる。
それどころではなかった。
いまや衛の脳は身体の制御を放棄して、混迷する思考の氾濫を押し留めるためにすべてのリソースを割いていたから。
「
頭の中で曖昧模糊としていたモノがカタチを顕そうとしていた。
あの日の旧校舎で梓に向けられていた表情とはまるで異なっているにもかかわらず、どこか似たような印象を押し付けてくる、目の前にある奈月の顔。
印象。
『黒瀬 奈月』の印象。
凛として、獰猛で、攻撃的で、迫力があって……などなど。
どれもこれも的外れとまでは言えないものの、どうにもしっくりこない。
同じ人間の同じ顔だから似ているどころの騒ぎではなく印象だって同じで当然……なんて理屈を飛び越えたナニカがある。
上手く言語化できないけれど、それは確かにそこにある。
己の語彙力のなさが、もどかしかった。
――何なんだ……こう、喉元まで出かかっている気がするんだが……
現段階では『得体が知れない』が一番近い気がした。
『黒瀬 奈月』は得体が知れない。正体不明。
バカバカしいと思った。
同い年で同じ学校に通うクラスメート。高校生。
衛も奈月も、住んでいるのは同じ日本――二十一世紀の日本なのだ。
そんな奈月のいったい何が正体不明なのか。
妹から借りたマンガの読み過ぎじゃないか。
心の中で自分にツッコんではみたものの……そのバカバカしさを笑い飛ばせない。
「ちんちん。心のちんちん」
耳元で囁かれた。
ちょっと低めのセクシーボイス。
艶めく唇からふーっと吹きかけられる声に、衛の背筋をゾクゾクする感覚が駆け上がった。
「うおっ!?」
裏返った声が意思とは無関係に吐き出され、ニヤリと笑う奈月と正面から向かい合う。
まるでギリシャ神話のメデューサに睨まれたかの如く、全身が動かなくなった。
「な、な、な……」
「そんなにビビらなくてもよくない?」
別に取って食おうってわけじゃないし。
そう続ける奈月に、違和感が増大する。
「黒瀬、お前……お……いや、猫を被っていたのか?」
「『お』って何よ。猫なら『ね』でしょ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい」
言いながら指を衛の顎に這わせてくる。
白くて細い、滑らかできれいな指だった。
官能的と表現して差し支えない感触に唾を飲み込み、くいっと顎を上げさせられると……奈月の漆黒の瞳があまりに近くて、呼吸すら忘れてしまいそう。
衛と奈月の身長はほとんど変わらないはずだが、身を乗り出している奈月の方が頭の位置が少し高かった。
至近距離に圧倒的な美貌。
クラクラして意識が飛びそうになる。
『こんなシーンを見たことがあったな』と頭のどこかで声がする。
すぐに思い出せた。
妹の持っていた漫画だ。
床に散らばっていたそれを片付ける際にペラペラとめくったページで、イケメンが主人公と思しき女の子に、こんな感じで迫っていた。
――そういえば、
旧校舎での奈月と
奈月→奈月
梓→衛
以前に思い出した時と異なり、衛の胸の奥に痛みはなかった。
否。
痛みがないどころか……全身が心臓そのものになったみたいに、激しすぎる鼓動しか感じられない。
いざ当事者として相対すると、余所に意識を割く余裕などなくなってしまう。
――しかし……言えと言われても、これは言ってもいいものか?
頭の中には、ある閃きがあった。
ただ……それを女子に向かって口にするのは非常に失礼なのではないか、そんな懸念が払しょくできなくて、あと一歩が踏み出せない。
試しに頭の中で妹に投げかけてみると、思いっきり罵声が飛んでくるどころかクッションまでぶん投げられて、挙句の果てには夕食抜き。
プリンを山積みしても機嫌を直してもらえない確信があった。
ここ数日のアレコレに今この瞬間の対峙を経て思い至ったのは、そういう類のイメージだ。
「ほら、
「……それだと、ただのご褒美にしかならないのでは?」
「え? あ、そっか。そうよね。今のナシで」
いきなりわけのわからないことを言いだした奈月に素でツッコんでしまった。
当の本人は一瞬きょとんとした後で言葉を引っ込めたが、その脇の甘さが妙におかしくて――
「いや、黒瀬は何と言うか……男子みたいだな、と」
つい口走ってしまった。
小学生ならともかく、高校生になってそれはないだろうと思いながら。
梓とキスしている奈月の姿。
自分との急接近過ぎる距離感。
ひとつひとつは違和感ないのに、ふたつ揃えるとおかしく思えるのは……ひとえに奈月が女子だから。
男子だったら、どちらもおかしくない。
惚れた女に迫るのも、同性のクラスメートに気安いのも。
……もちろん『男子だったら』という前提が、この上なくおかしいわけだが。
――女子に対して『男みたい』って……小学校でもホームルームで吊るし上げを食らうよな。
慌てて口を塞ぐ(もう遅い)衛の目の前で、奈月の笑みがこれまでにないほどに深まった。
表情は攻撃的な意志を強烈に発しているのに、瞳の奥に宿る光は異なる色合いを見せていて、あまりのチグハグさに衛は眉を寄せた。
「『男子みたいだな』か……『みたい』はいらないのよね、これが」
「は?」
奇妙に重苦しい沈黙の中で、奈月の言葉を反芻する。
『男子みたいだな』から『みたい』を引く。
残るのは『男子だな』
すなわち――
「お前、男なのか?」
「オレのどこが男だってんだ?」
疑問形ではあったが、そこは問題ではなかった。
変わった。
目つき、表情、口調。何もかもが変わった。
そして――違和感が消えた。
衛はそっと視線を落とした。
涼やかな目元。
すーっと通った鼻梁。
艶やかな唇に形のいい顎。
肌はどこまでも白く、それでいて瑞々しく滑らかで。
首筋を経た先には、制服を内側から押し上げる豊かな双丘があって――
「……パッドなのか?」
「そんなわけねーだろ。天然ものだよ」
呆れ気味の声には、わずかばかりの怒りが含まれているように聞こえる。
戸惑いと申し訳なさをブレンドした眼差しで謝罪の意思を形作る衛の目の前で、奈月は左右の手のひらで自分の胸のふくらみを持ち上げた。
誇るように、見せつけるように。
「天然ものって、お前」
言葉が出ない。
わけがわからない。
『黒瀬 奈月』がわからない。
目の前の少女――否、少女なのか?
彼女の言葉を信じるならば……少年と呼ぶべきなのか?
後から後から湧き上がってくる疑問に溺れそう。思考回路はとっくにショートしている。
「身体は女で心は男。わかるか?」
厳かに告げられた言葉は、すべての謎にピタリとあてはまる答えだった。
旧校舎で梓とキスしていた姿、衛が抱いていた違和感。
何もかもに説明がつく。ついてしまう。
だが――
「……なんで、俺に言う?」
辛うじて絞り出した言葉に、奈月は意味ありげな笑みを返してきた。
校庭から響く生徒の声はすでになく、昼休みの終了あるいは五時間目の開始を知らせるチャイムが遠くに聞こえる。
それでも、衛も奈月も身じろぎひとつしなかった。
お互いに息が顔に触れる距離で見つめ合うことしか、できなかった。
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