第7話『黒瀬 奈月』 その1

 視線を感じる。

 授業中に、休み時間に。

 心当たりはある。誰に睨まれているか見当はついている。

 でも、ぞわぞわと寒気を感じて教室を見回しても――の瞳が自分に向けられている決定的なタイミングを掴むことはできなかった。

 ただ圧力が半端なかった。


「ふぅ」


 四時間目の授業を終えて、まもるはそっと息を吐いた。

 いつもより肩が凝ったし、疲労を感じる。


「衛、なんか疲れてる? 勉強のし過ぎか?」


「……いや、何でもない」


「そうか? また面倒ごとに首を突っ込んでるんじゃないだろうな?」


 大河たいがの声にはからかいが多分に混じっていたが、本気の心配も混じっていた。

 どうやら自分は傍目に見てもわかるくらいやつれているらしい。

 それでも『また』の二文字は余計だと思ったが、過去――特に高校に入学して生徒会に所属して以来の記憶を掘り返してみると、残念ながら親友の懸念は的を射ていると認めざるを得なかった。


「……衛?」


「何でもない。それより、昼飯どうする?」


「あ、わり。部活ある」


「……少しぐらい食べた方がよくないか?」


 申し訳なさそうに手刀を切る親友に、口の端から愚痴めいた言葉が漏れてしまった。


「食ってからだと動けなくなるだろ?」


「それもそうだが……くれぐれも無理するなよ」


「はは、今の衛に言われたくねぇ」


 バスケットボール部に所属する大河は、近日中に試合を控えている。

 学校の体育館は決して広くはないし、バレーボール部やバドミントン部とシェアしているため、本番直前ともなると昼休みを返上して練習に励んでいる。

 体育館の使用時間配分にまつわるトラブルは生徒会でも問題視されているが、これがなかなか難しい。

 親友が所属しているという理由だけでバスケ部を優遇するわけにもいかない。

 衛と大河の間柄は校内にかなり広く知れ渡っているので、迂闊なことを口にすると依怙贔屓ととられかねない。


――歯がゆいな。


 そんな衛の立場を慮ってか、大河はこの件についてはことさらに軽く振るまう。

 教室を去るその背中を見つめ、窓の外を見上げてひとり呟く。

 五月の空は、今日も青くて高くて広かった。


「外で食うか」





 屋上は決して広くはないが、人口密度は低かった。

 基本的に施錠されているので、教師か生徒会のメンバーぐらいしか訪れる者がいないからだ。

 ちなみに今(昼休み)は衛ひとりである。人口密度、低いどころかゼロだった。


「ここでバスケは……無理だな」


 せっかく空いているのだから、誰か使えばいいのに。

 中空にゴールを用意する必要があるバスケ部はともかく、他の部活ならいけるのではないかと思うものの、『万が一の確率であっても生徒が落ちてしまう可能性があるから』と反論されるとゴリ押しはできない。コートの中でシャトルやらボールやらを真剣に追いかけている部員の姿を見ると、そんなことあるわけないとは断言できない。

 狭い体育館を奪い合う運動部員と、広い屋上を独り占めする自分。

 その格差に多少の申し訳なさを覚えながら、フェンスを背中に腰を下ろした。

 ガシャンと耳障りな音が響き――衛の意に反して忌まわしい昨日の記憶が勝手に甦る。


「いや、あの件はもう片付いただろうに」


 口元が苦々しげに歪んだ。

 昨日の記憶。

 怜悧な美貌で迫られて、偶然目にした旧校舎での一幕について口を閉ざすよう釘を刺された件だ。

 旧校舎での一幕とは、すなわち黒髪の美少女『黒瀬 奈月くろせ なつき』と亜麻色の髪の美少女『春日井 梓かすがい あずさ』のキスシーンに他ならない。


――はぁ……言われなくたって誰かに言うつもりなんてない。


 目蓋の裏に焼き付いた光景がまざまざと再生されて、また凹んだ。

 心に秘めた憧れの存在だった梓の唇が、自分以外の人間に奪われていた。

 それはもちろんショックだったが……日頃は理知的な眼差しが印象的な彼女が、その表情を恍惚に蕩けさせていたことの方が、よほどショックを受けた。

 自分が割って入る隙など指の先ほどもないことは明らかだったから。

 そして――そんな梓に向けられた奈月の眼光が、腹立たしいことにカッコよくて似合っていて……


「……まぁ、それはいい」


 ことさらに口に出して首を横に振った。

 この話はこれで終わり。胸に秘めて蓋をする。

 胸の蓋を占めながら弁当箱の蓋を開けながら、独り言ちる。


「何がいいの?」


「なにって、別に黒瀬と……」


 その名を口にする際、胸の奥に僅かな痛みを覚えた。

 同時に、『あれ?』と首をかしげた。眉もひそめた。

 自分しかいないはずの屋上で、どうして問いを投げかけられているのか?

 しかも、その問いは実に聞き覚えのある声だった。

 ゆっくり顔を上げると――クールな漆黒の眼差しがそこにある。


「く、黒瀬!?」


「私と……何?」


 セミロングの黒髪と涼やかな目元が印象的な美少女『黒瀬 奈月』がそこにいた。

 漆黒の瞳はまっすぐ衛に向けられていて、笑みを形作る眼差しの禍々しさに息を呑んだ。

 整いすぎた顔立ちは、夜空に浮かぶ赤い月を彷彿とさせるような不気味で不可思議なプレッシャーを放っている。

『飲み込まれる』と思った。

『負けられない』とも思った。

 こぶしを握って、顎に力を籠める。

 強張った口を無理やり動かして言葉を絞り出す。


「何でもない」


「何でもないって感じじゃなかったけど。ひとりきりで私の名前を呼ぶなんて……ひょっとして、私に惚れちゃってたりする?」


「それはない」


「ハッキリ言う」


 くすくすと笑いながら、奈月は衛の横に腰を下ろす。

 とたんに衛の全身に汗が滲み、動揺が加速して心臓の鼓動が収まらない。

 惚れるどころか恋敵のはずなのに……それでも奈月はれっきとした美少女なのだ。

 目と鼻の先、空気越しに体温を感じるほどの距離に整った美貌があると、ただそれだけで落ち着かない。

 我ながら節操がなさすぎると呆れはするが、どうしようもなかった。

『思春期の男子なんて、そんなもんだ』と開き直るほかない。


「あ、たこさんウィンナー」


 衛の弁当箱を覗き込んだ奈月が嬉しそうな声を上げた。

 そのまま指が伸びてきてウィンナーを掴み、自分の口に放り込んだ。

 止める間はなかったし、ぺろりと指を舐める奈月の舌がやたらと艶めかしい。

 気安い。

 気安過ぎる。

 何なら親友の大河よりも気安い。


――近い近い近い近い! なんなんだいきなり!?


 これまでにないリアクションが衛を混乱の坩堝に叩き込んだ。

 息継ぎしようとすると、髪からふわりと匂いが鼻を掠めた。

 距離感がバグっている。

 つい先日まで、同じクラスメートという以外に接点なんてなかったのに。


「これ、岡野おかのくんが作ったの? 可愛いね?」


「違う、俺じゃない。妹だ」


 覗き込んでくる瞳を躱しながら応えた。

 萌香は何かと小生意気なところはあるが、両親と兄のために(自分のついでと言いながら)毎日かいがいしく弁当を詰めてくれる優しい妹だ。

 ハートマークこそないものの、ちょっとかわいい系が多くて教室で誰かに見られると勘違いされそうなデコレーションをしているものだから、大河が傍にいないときは人目に触れない場所に移動して食べることが多い。

 ワザワザ場所を変えるのはメンドクサイが、文句を言うと萌香は猛烈に機嫌を悪くする。

 立場を逆にして考えてみると……眠い目を擦って用意した弁当にケチをつけられたら衛でも同じ反応をするだろうことは想像に難くないから、素直に感謝して『美味かった』と弁当をカラにするのが兄としての度量だと思っている。

 閑話休題。


――妹と言えば……


 思い出したことがあって、じっと隣のクラスメートを見つめた。

 奈月の脚は隙なく折り畳まれ、膝の上に弁当箱がある。

 ちらりと目をやると――中身は普通。

 自分のと取り換えるとちょうどいい……いや、妹謹製のキュート系な弁当はカッコいい系の奈月には微妙に似合わない気がした。


「ん、どうかした?」


「妹が」


「妹さんが?」


 口を開きかけて、奈月に問い返されて、怯んだ。

 言うべきか、言わざるべきか。

 迷った末に――前に進むことにした。

 胸の奥に蟠るモヤモヤを、このままにしておけなかった。


「昨日、妹に聞いたんだが」


「うん」


「心に、その、あれ……は、ついていないそうだ」


 ちんちん。

 その四文字をここで口にすることは憚られた。

 人前で――それこそ女子の前で口にするべき単語ではない。

 少なくとも、さして親しくも近しくもない女子の前では。

 あくまで衛の価値観においての話だが。


――さて、どうなる?


 目だけを横に動かして奈月の様子を窺うと、果たして反応は劇的で。

 奈月は硬直し、沈黙し、笑顔のままでギギギと油の切れたカラクリ細工のように首を曲げた。


「……聞こえてないって言ったくせに」


 来た甲斐があったわ。

 続く声には、いくつもの感情が複雑に入り混じっていた。

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