第6話 心の〇〇〇〇 その2

『心のちんちんがイライラする』


 屋上で『黒瀬 奈月くろせ なつき』はそう言った。

 断じて聞き間違いではない。

 絶対に言った。


――黒瀬……どういうつもりだ?


 闇の中で独り言ちる。

 声を出そうとしたのだが、出なかった。

 おかげで、どうやら自分は夢を見ているらしいと気付かされた。

 指一本動かせないまもるの眼前(?)では、いつの間にか奈月とあずさが口づけを交わしていた。


 場所は旧校舎。

 時間帯は放課後。

 昨日の記憶だった。


【ん……んぅ】


【はぁ……はぁ……】


 ふたりの頬は朱に染まっていて。

 ふたりの吐息は熱を帯びていて。

 ふたりの瞳は興奮に潤んでいて。

 ふたりの唇が、舌が絡み合って。


 仲睦まじいという表現では足りない。

 声をかけることすら憚られる夢のような夢の光景(実際は声をかけた)を前に、衛はため息を吐いた。夢の中の心の中で。

 キスをして――なお心のちんちんがイライラする。

 奈月の言葉が意味するところは、すなわち彼女がその先を望んでいたということに他ならない。


――本気か……


 その先。

 想像が及ばない世界だった。

 思春期の男子的には、そこは憧れてやまない理想郷だった。

 結果的には衛が割って入って台無しになってしまったが、妨害がなければ彼女は本懐を遂げていたに違いない。

 あれはもう完全にゴール目指して一直線な雰囲気だった。

 ……ただし、解体業者に見られて大惨事な未来までがワンセットだっただろうが。

 梓に想いを寄せる衛としては――彼女の窮地を救うことができた喜びと、彼女が自分の手が届かないところに行ってしまったような喪失感と、奈月に対する嫉妬じみた絶望と、そして、梓と奈月のふたりが作り出す尊い世界が守られたことに対する安堵がマーブル模様のごとく入り混じって、胸の奥にずしりと重くのしかかる感覚に辟易させられてしんどい。


『……要するに、黒瀬は同性愛者だったってことか』


 梓から目を逸らしつつ、奈月の言動を分析する。

 明らかに現実逃避であり、自覚してさらに凹んだ。


――同性愛、か……


 同性愛。

 その言葉を耳にするのは初めてではない。

 口にするのは初めてかもしれない。今この瞬間、声は出せないが。

 これまでの人生においては縁のない言葉ではあったが……そういう愛のカタチが存在することは聞き知っていたし、ことさらに否定するつもりはなかった。

 衛自身が同性に恋愛感情を抱くかと問われれば否であったし、仮に誰かから『同性愛って一般的な嗜好か?』と尋ねられたら首を横に振るだろうが。


――だから、黒瀬は口止めに来たわけだ。


 腹立たしい気持ちはあった。

 自分がデリケートな噂を広める軽薄な人間と見做されていたことに。

 一方で、納得もする。

 奈月とはクラスメートであったが、取り立てて親しいわけではない。

 いくら『そんなことするか!』と声高に叫んでみたところで、あちらは『岡野 衛おかの まもる』という人間がどんな奴かなんて知っているわけもなく、衛の言葉を信じる根拠も持っていない。

 ひとつひとつ状況を積み上げていけば……彼女の懸念にも合理性があることを認めざるを得なかった。

 ただ――


『なんか釈然としないな』


 同性愛、それも女性の同性愛のことはよくわからない。

 まったくわからないと言った方が正確ではある。

 でも、なんとなく納得できていない。


――女の子が好きな女の子の心にはちんちんが生えているものなのか?


 バカバカしいことを考えていると思った。

 笑おうとしたが、笑えなかった。

 夢の中だから――ではない。

『ちんちん』という部位には男性的なイメージが伴う。

 妹が時おり買ってくるマンガで女性同士が愛し合うシーンを目にしたことはあるが……そこに男性の像は重ならない。

 もっときれいな描かれ方をしていたように記憶している。

 マンガだから、あるいはフィクションだから現実とは違うのだ。

 そう言われれば、そうかもしれないとは思う。

 思うのだが……やはり首をかしげてしまう自分がいた。


『あの時の黒瀬、なんか――』





萌香もえか、プリンいるか?」


「いる」


 夕食後に冷蔵庫からプリンを取り出しながら訪ねると、案の定と言うべきか萌香は瞳を輝かせた。


「あら衛、萌香と喧嘩したの?」


「してない」


「喧嘩ってゆーか、変なこと聞かれた」


「変なこと?」


 食卓には萌香だけでなく母親がいた。

 普段は朗らかだが、怒らせると怖い母親だった。

 母親の中では『妹にプリンを与える=機嫌を取る=喧嘩している』の公式が成立していて、それが的を射ているから始末が悪い。

『余計なことを言いやがって』と睨みつけても、小生意気な妹はどこ吹く風な態度を崩さない。


――プリン、やっぱり俺が食うか。

 

 手の中のプリンに視線を落とし――改めて首を横に振った。

 母親と向かい合う形でためらいがちに口をもごもごさせている萌香の機嫌を取るためには、このプリンが必要だ。


――お袋なぁ……俺たちを心配してくれるのはわかるんだがなぁ……


 両親は子どもとの時間をあまり確保できていないことを気に病んでいる節がある。

 だからこそ、ひとつひとつの機会を逃すことを酷く嫌う。

 衛や萌香が何かに悩んでいたり、あるいは揉めていたりすると、納得するまで離してくれない。

『まるでスッポンみたいだ』

 そう思ったが、口にしたことはない。

 家族の時間を蔑ろにされるよりは、よほどありがたいことなのだから。


「うん、兄貴が、その……私の心に……えっと……」


「えっと?」


――こっち見んな。


 母親に捕まって、『その言葉』を口にするのが恥ずかしくて、追及から逃れようと衛に目線を送ってくる萌香。その眼差しは真剣で、兄としては救いの手を差し伸べてやりたくなる。

 あくまで妹に言わせるべきか、それとも自分が言うべきか。

 少し考えて――衛は口を開いた。


「『お前の心にちんちん生えてるか?』って聞いた」


「衛、正座」


「はい」


 覚悟を決めてハッキリ答えたら、母親の表情が消えた。

 プリンを萌香の前に置いて、能面じみた顔の母親の前で膝を折った。

 板張りの床は固くて冷たくて、美味しそうにプリンを頬張る妹と、椅子に腰かけたまま怒気を滲ませる母親と自分の置かれている状況との落差に理不尽を覚えた。

 たとえ自分で蒔いた種であろうとも、理不尽なものは理不尽だった。


『アンタね、年頃の女の子にそんなこと聞いていいと思ってるの?』

『思ってない』

『じゃあ、なんで聞いたの?』

『それは……言えない』

『言えないようなことなの?』

『ごめん。言えない』


 キツイ詰問に対して、ひたすらに『思ってない』『言えない』を繰り返した。

 理由を説明するには奈月と梓のキスシーンから始まる一連のエピソードを話す必要があるのだが……親友の大河にすら言えなかったことを、母親(と萌香)に言えるわけがない。

 奈月たちのプライバシーを軽々と侵すわけにはいかない。

 たとえ相手が(親を含めて)誰であろうとも。

 実際に顔を合わせる機会がなかろうとも。


「……」


「……」


 親子でじっと向かい合うことしばし。

 母親はふーっと息を吐き出して、いからせていた肩を落とした。

 年齢に比して若く見られがちなその顔から、いつの間にか怒りの感情は消えていた。


「アンタのことを信用していないってわけじゃないの。そんなバカみたいなことを萌香に聞くのも、きっと何か理由があって、それはアンタにとってとても大切なことなんだって、わかってるつもり」


 母親の信頼が嬉しい。

 その信頼に応えられない自分が腹立たしい。

 それでも譲れないものがある。たとえ相手が母親であろうとも。

 いつになく頑なに口を閉ざす息子の態度に、何かしら思うところがあったらしい母親の声は、諭すような色合いを帯びていた。

 ……自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「ただ、まぁ、萌香に尋ねるくらいなら冗談で済むけど……外で他の人に言うのはやめておきなさい」


「言われなくても言わないって」


「そうよね。うん、ちょっとびっくりしただけ」


『なら、この話はこれで終わり』

 母親はそう言って立ち上がり、食器の後片付けを始めた。

『洗い物ぐらい俺がやる』と言ったら『たまにはやらせなさい』と返ってきた。

 その背中を見つめていたら、プリンを平らげて傍に寄ってきた萌香が耳元で囁いてくる。


「私には教えてよね、バカ兄貴」


 ニシシと笑う顔にイラっとしたので、脳天にチョップを落としてやった。

 プリンがもう一個必要になった。

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