第5話 心の〇〇〇〇 その1
「ちんちん、ちんちん」
呟きながら、
周囲から微妙に距離を取られていることには、まったく気づかないまま。
おもむろに脚を止めてスマートフォンを取り出し、検索サイトに『ちんちん』と入力してタップ。
「……意外と色々出てくるな」
犬が前足を胸のところで折ったまま、後ろ脚だけで立って身体を支える仕草。
湯が湧きたって音を立てるさま。
ひっそりと静まっているさま。
嫉妬すること。
・
・
・
何もなければ絶対に調べなかったであろう単語(?)だ。
使い道がなさそうな知識が増えてしまったが、困惑は強まる一方だった。
「でもなぁ、『心のちんちん』だからなぁ。あの言い回しだと、やっぱり……」
衛の視線は、無意識のうちに自分の股間に向かっていた。
制服のズボンは透けて見えるわけではないが、中身を思い描くことは難しくない。
中身、すなわち脚と脚の間についているアレ。
ちんちん。
「これ、だよなぁ」
昼休みの屋上で
『ちんちん』という四文字もさることながら……一人称が『オレ』だったし、口調はぶっきらぼうだった。
怜悧な美貌とのギャップがはなはだしく、とてもではないが忘れられそうにない。
……にもかかわらず、彼女はどこから見ても『
違和感だらけなのに違和感がない。矛盾で脳がバグりそうだ。
あの後、教室に戻るなり
自分の中で上手く整理がついていなかっただけでなく、見聞きしたことをありのままに伝えたところで信じてもらえるとは思えなかったからだ。
大河は親友だ。
信頼もしている。
でも、それとこれとは話が違うというか……
――大河があんなことを口にしたら……問答無用で病院に連れて行くな、俺なら。
確信をもって断言できてしまう。
やはり、バカ正直に答えなくてよかったと思った。
なお、不審な表情を浮かべていた親友は、今、ここにはいない。
大河は部活(バスケ部)で忙しい。
昼休みすら返上して夏の大会に向けて体育館で練習に励む今の大河にわけのわからない悩みをシェアすることが妥当とは思えない。
結果として誰にも相談できなくて、衛がひとりで難題(?)を抱え込むことになってしまったわけだが……それはそれで仕方ないと割り切った。
「何がどうなってるんだ?」
首を何度となくかしげながらも、今日も無事に家に辿り着けた。
見慣れた自宅を目にするとホッとする。
そんな自分に軽い驚きを覚えた。
――これも
大した縁はなくとも顔見知りだと認識していたクラスメートが、得体の知れない存在に変貌したなどと言う非現実的シチュエーションに苛まれていた分、日常の象徴とも言える自宅の健在を目の当たりにして、安堵もひとしおであった。
ローンが残った庭付きの一軒家は豪邸と呼ぶほどではないものの、家族四人が住むには十分すぎるほどに余裕を残している。
ドアを開けて靴を脱いで自室に向かう途中で、リビングから騒がしい声が聞こえてくる。
覗いてみれば……小さな人影がひとつ。
「
萌香。
『
衛の妹。
中学三年生。
クッションを抱きしめながらソファに寝そべってお菓子を食べている。
タブレットを弄っているところから、何かの動画でも見ているのだろうと思われた。
制服を脱いでくつろぎやすい部屋着を身に着けてはいるが……一応年頃の女性としての恥じらいとか、そのあたりを気にしてほしいと兄的には思う。
――せっかく見た目は可愛らしいのに、もったいない。
短めな黒髪のツインテール。
母親似のチャーミングな顔つき。
その母をして嫉妬させる瑞々しい肌。
最近とみに目立つようになった身体の曲線。
ちょっと吊り目な容姿と相まって――
「うるさい、兄貴うるさい」
帰宅した兄に対する第一声がコレ。
形だけであろうとも『お帰り』と言ってほしかった。
そのあたりを愚痴ると機嫌が急降下すること間違いなしなので(経験談)、別方向から攻めることにする。
「あとでお袋に怒られていいのか」
「お、おかーさんとか別に怖くないし」
「小遣い減らされるぞ」
「……兄貴が黙っててくれれば問題なくない?」
「体重計」
「ウザ。兄貴ウザ」
母親の目を欺こうとも、財布の重みを確保できても、体重計はごまかせない。
夕食前にお菓子を食べながらも体重を気にしているあたり、ギリギリ乙女としての自覚はあるらしい。
身内が炭水化物と油脂まみれでブクブクに太ったり、身体測定の直前に絶叫したり絶望に涙する姿は見たくない。
自分が悪者になるくらいで悲惨な未来が回避できるのなら本望だった。
「だいたい兄貴は、いつもいつも……」
それはそれとして、口うるさいと罵られるのは嬉しくない。
いつもなら盛大にため息を吐くところなのだが……不平不満をぶちまけてくる妹を前に、衛の脳裏に閃くものがあった。
――おお!
ここにちょうど相談できそうな人間がいるではないか。
妹はれっきとした女だから、きっと大河よりも適任に違いない(はずだ)。
詳細を説明すると話がややこしくなるが、さりげなく最低限のことだけを尋ねるだけなら何の問題もない。
たぶん。
「なぁ、萌香」
「なに、まだ何かあるの?」
「お前……心にちんちんついてるか?」
要点だけを率直に問いかけた。
萌香は訝しげに眉を寄せ、口を閉ざした。
兄が発した言葉を脳内で慎重に咀嚼しているように見えた。
見た目とは裏腹に、萌香は真面目だし誠実だ。衛にとって自慢の妹だ。
そんな妹に無視されなくてよかったと心の中で胸を撫で下ろした次の瞬間、顔に強烈な衝撃を食らった。
視界が白一色に染まる。
何かをぶつけられたらしい。
衝撃はともかくとして、感触は軽くて柔らかかった。
ついさっきまで萌香が胸元に抱きかかえていたクッションだった。
支えを失ったクッションがボスっと落下し、衛は眼鏡を拭きながら口を開いた。
「クッションを投げるな」
「うるさい、バカ兄貴! デリカシーなさすぎ! 死ね!」
眼鏡をかけ直すと――レンズ越しの妹の顔は憤怒に歪んでいた。
顔を真っ赤に染めながらマシンガンよろしく猛烈な罵倒を飛ばしてくる。
普段は挑発的な姿を見せつけてきて心配させてくれる癖に純情な妹だと思う。
笑顔で脅迫してくるどこぞの誰かとは大違いだ。
「可愛らしいもんだ」
「死ね! 百万回死ね!」
素直に賛辞したら、罵声がボリュームアップした。
これ以上はマズいと肩を竦めてリビングを後にする。
――確かプリンが残っていたな。
せっかくとっておいた自分の分(萌香は昨晩食べていた)だが、進呈しておこう。
妹の機嫌が悪いままだと、精神的にとてもつらい。
なおも止まらない罵声に背中を押されながら階段を登り、自室に辿り着く。
鞄を適当に放り投げ、眼鏡を机に置き、襟元を緩めてベッドに身体を投げ出した。
見慣れた天井をぼーっと眺めていると、口から勝手に言葉が零れた。
「でも、あれが……普通の反応だよなぁ」
怒髪天を衝く勢いで激怒していた妹の顔が思い出される。
『そうなるだろうな』と予想していたし、脳内イメージと寸分たがわぬリアクションに安心感すら覚えてしまった。
やはり妹の心にちんちんはついていないらしい。
ついていると言われたら、それはそれでショックだっただろうが。
「だったら……黒瀬のアレは何なんだ?」
『オレの心のちんちんがイライラする』
とっさに口をついて出てしまった感じだったように思う。
衛を混乱させたり動揺させたりと言った意図は感じられなかった。
つまり、あれは『黒瀬 奈月』の素の状態なのだろうと推測できるのだが……
――何がどうなってるんだ、いったい?
わからない。
わけがわからない。
頭の中がこんがらがって、何も考えられない。
次第に目蓋が重くなってきて、その重みに逆らうことはしなくて――衛は闇の中で意識を手放した。
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