第4話 壁ドン? その2

『昨日のこと……誰にも言っていないでしょうね?』


 奈月なつきの声からは殺気すら滲み出ていた。

『昨日のこと』が意味するところは明白で、それはまもるが旧校舎で目にした光景に他ならない。

 眼前に迫りくる『黒瀬 奈月くろせ なつき』と、初恋の少女である『春日井 梓かすがい あずさ』のキスシーン。

 目蓋に焼き付いて消えてくれない、失われた恋の記憶。


「当たり前だ。誰にも……言って、いない」


 唾を飲み込んでから、ひと言ずつゆっくりと口にする。

 言い間違いは許されない、そう思わせるほどに奈月の圧力は半端なかった。

 同じクラスになってからひと月と少々、彼女のことをどこにでもいる(とは言い難いが)美少女としか認識していなかったうえに、梓との一幕が醸し出していた甘やかな雰囲気から一変して、これ。

 あまりの温度差に心が風邪を引きそうになる。

 それほどの変貌を前にしているせいか、さっきから衛の脳内では警鐘が鳴りやまない。


「本当に? 大河内おおこうち君にも?」


大河たいがにも言っていない」


「へぇ」


 奈月が笑った。

 朗らかとは程遠い、意味ありげな笑み。

 至近距離から鋭すぎる眼光を浴びせられ、本能的に衛の背筋が震えた。


――何がどうなってる……これが、あの『黒瀬 奈月』なのか!?


『俺は誓ってウソはついてないぞ』と絶叫した。心の中で。

 衛と大河が親友であることは別に隠していないし、校内でも割と知られている。

 少なくともクラスメートで『岡野おかのと大河内? 初耳なんだが!?』などと驚く奴はいないはずだ。

 そして大河は男女を問わない人気者だから、『衛→大河→その他大勢』の線で噂を広められる可能性を奈月が懸念するのは必然と言えなくもない。

 

「どうして言わなかったの?」


「……言いふらしてほしかったのか?」


「まさか」


 ニヤリと口元を歪める奈月。

 真っ向から睨み合いながら、心のどこかで『カッコいいな、こいつ』と感心してしまった。

 これまで衛は奈月のことを『美少女』と認識していた。

 より適切に表現するならば『美人』だろうか。

『可愛い』よりも『きれい』が似合う。

 そう思っていたのに。


――カッコいいって、なんだ?


 我ながら奇妙な感想だと自分自身にツッコんだ。

『黒瀬 奈月』は校内の誰もが認める美少女だが、彼女を『カッコいい』と評する男子の声を耳にした記憶はない。

 ならば、なぜ?

 自分の感性に疑いを覚えてしまう。

 当の奈月はと言うと、こちらはこちらでさらに笑みを深めている。意味がわからなかった。


「でもまぁ、言いふらしてくれるのもアリと言えばアリだったのかも」


「なんだ、それは?」


「そうすれば私と梓の関係は既成事実になる。誰にも邪魔されなくなる。昨日みたいに人目を憚る必要もなくなる。岡野君ほどの人が情報源になってくれるなら信頼性は抜群だし、余計なことを囀る人もいなくなるでしょうし」


『コイツ、悪魔か』

 しれっと言ってのける奈月に恐怖を覚えた。

 同時に、言わなくてよかったと心の底から安堵した。

 昨日の段階で、もう他人が割って入る余地はなかったように見えたが……自分の手で自分の恋心にとどめの一撃を食らわせることになったとしたら、冗談抜きでメンタル崩壊待ったなしだ。


「ごめんなさい。そんな顔をしないで」


「そんな顔って、どんな顔だ」


「岡野君はそんなこと……誰かのプライバシーを言いふらしたりはしない人間だと思う。私は君のことを信用しているわ。うん、私は、あなたを、信用、して、いる、わ」


 これほどに胡散臭い『信用している』を聞いたのは、きっと生まれて初めてだった。

『信用』と言う美しい単語の裏に脅迫的な意味合いを感じ取らずにはいられない。

 おそらくそれは被害妄想の類ではなかった。奈月の目が、そう言っている。


――ッ!


 だから――歯を食いしばって睨み返した。

 いつまでも気圧されてばかりもいられない。

 脅迫に屈すると侮られることは気に食わないし、彼女が危惧するような節操のない人間だと思われるのも腹立たしい。


「……へぇ」


 二度目の『へぇ』は、一度目のそれとは温度が違っていた。

 少なくとも侮りや挑発的な感情は見受けられない。

 

――敬意……と解釈するのは調子が良すぎるよな。


 声には出さず、代わりに眉間に力を込めた。

 恐ろしく人目を惹く顔と強烈な魅力に溢れた表情、そして唇から出てきた言葉。

 三つの要素が複雑に絡み合い、どうしようもなくミスマッチを生み出している。

 同じクラスになって以来、あまり奈月と関わったことはなかったから彼女に詳しいと誇れるわけでもないのだが……どうにも違和感が拭い去れない。


――黒瀬って、こんな奴だったのか?


 こんな奴ってどんな奴?

 そう問われると返答に窮するわけだが。

 それでも問いかけずにはいられなかった。ただし――心の中で、自分に対して。


「保健室、行こうか?」


「は?」


「だから、保健室。もともと調子の悪い岡野君を休ませるって話だったでしょう?」


 先ほどまでとは打って変わって、気遣わしげな表情を形作る奈月。

 一周回って不気味ですらあったものの、向けられる眼差しに嘘はないように見えた。

 あえて言うならば……これまで衛が思い描いてきた『黒瀬 奈月』という少女のイメージそのまんまの顔だった。


『黒瀬 奈月』は校内三大美少女のひとりとして数えられる。

 ピンと伸ばした背筋と涼やかな目元が印象的で、セミロングの黒髪が似合う。

『凛とした』と評するのが一番近いと衛は考えていたし、おそらく他の連中に聞いても似たり寄ったりの答えが返ってくると思われる。

 外見といい言動といい、男性人気だけでなく女性人気も半端ない……と言うか、圧倒的に女性の支持が強い。時おり彼女に向けられる女子の熱っぽい眼差しはかなりガチめだ。

 これもまた、衛の思い込みではなく校内の一般的な見解だった。


――そう考えれば、別におかしなことはないのか……ないのか?

 

 昨日のキスシーンには驚かされた。

 初恋の相手である梓が唇を奪われていることに驚き、そのあまりの美しさ(もはや神々しさと表現すべきかもしれない)に息を呑みはしたが……女子と女子がキスしているという点に疑問を覚えることはなかった。

 疑問どころか、妙な納得感すらあった。

 なぜなら、その一方が奈月だったからだ。


――もう片方が春日井でさえなかったらなぁ……


 思い出して、ひとり勝手に凹んだ。

 それだけが、ただひたすらに悔しかった。

 健全な高校生男子として、衛だって色恋沙汰に興味はある。

 誰と誰がくっついたとか別れたとか、その手の話題には相応に関心を持っている。

 下世話なデマを広めたいとは思わないが、今回の件は自分の目で確かめた真実だ。

 いつもの自分なら親友である大河に話を振るのが自然な流れだし、周りからそう見られていてもおかしくはない。

 ましてや大河は衛が梓に好意を持っていることを知っている。

 その梓がらみのネタなのだから秘密にする方が変な気がしてきた。

 笑い話どころか真剣に相談するのが筋ではないか。親友なのだから。


――でも……大河に話そうとは思わなかったな……


 その事実に、小さくない驚きを覚えた。

 眼前の得体の知れない少女――『黒瀬 奈月』の存在を、一瞬とは言え失念してしまうほどに。


「岡野君?」


「……何でもない。少しここで休んでいけば問題ない」


「そう? ずいぶんと顔色が悪いようだけど……」


――誰のせいだと思ってるんだ!?


 叫びを飲み込んだら、なぜか奈月の顔に苛立ちが浮かんだ。

 正確には、さっきからずっと奈月は苛立っているように見えた。

 これも珍しいことだ。記憶を遡ってみても彼女がここまでネガティブな感情を露わにしている姿を目にしたことはない。

 じっと見つめていると、舌打ちまで聞こえてきた。

 そして――


「……まったく何なんだ、いったい。昨日からこっち、オレの心の――がイライラしっ放しなんだが」


「は?」


「何でもない」


 トンデモナイナニカが衛の耳朶を掠めた。

 声、口調、単語。何から何までメチャクチャだった。

 聞き間違いかと思ったが、至近距離だから間違えようがない。

 眉をひそめて聞き返すと、いっそう不機嫌になった奈月が顔を背ける。

 そのままフェンスに背中を預けっぱなしの衛から離れ、すたすたと歩いてから振り向いた。


「岡野君。あなたは今、何も聞かなかった。いいわね?」


「……」


「返事は?」


「……あ、ああ。俺は何も聞いていない」


「うん、いい返事」


 奈月は笑みを浮かべたものの、目元は険しいままだった。

『器用な表情を作るなぁ』と変な感心をしているうちに、当の本人は黒髪を靡かせて姿を消した。

 じっとりした時間が流れていく。

 遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っていたが……屋上は今なお重苦しい空気に支配され続けている。

 衛は――ずりずりとフェンスにもたれかかって尻もちをついた。

 大きく息を吐き出すとともに、胸の奥からせり上がってきた言葉を吐き出した。


「何なんだ、いったい。心の――ちんちんって」


 自分の口から出てきた言葉に、自分で首を捻る他なかった。

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