第3話 壁ドン? その1
「はっ!?」
気が付けば教室にいた。
自分の席に座って、頬杖を突いていた。
教室全体を見渡すことができる一番窓際で一番後ろの特等席。
周りではクラスメートが思い思いに昼休みを過ごしていて、窓の外には青空が広がっていた。
――夢……だったのか?
心の中で独り言ちる。
頭は靄がかかったようで、まるで働かない。
全身は気だるいのに、耳から入ってくる音がやたらとうるさい。
放課後の旧校舎で、ふたりの女子生徒が口づけを交わすシーンに遭遇した。
ひとりはクラスメート。セミロングの黒髪と涼やかな目元が印象的な『
もうひとりは――
いずれも校内屈指の美貌の持ち主として広く知られている美少女たち。
そんなふたりが見つめ合っていて、その瞳には相手しか映っていない、そういう雰囲気だった。
あまりにも非現実的で、まるで夢のような光景。
――あの時は放課後だったから、つまりは夕方。
見上げた空は、高くて青い。
春は過ぎて、夏に至らない五月の青空。
放課後→昼。時間が巻き戻っているところから察するに、やはりあれは――
「……日付、変わってるな」
黒板の片隅に記載された日付は、記憶にあるそれより下一桁の数字がひとつ多かった。
念のために眼鏡のレンズを拭いて、もう一度黒板に目を向けた。
先ほどと……何も変わっていなかった。
――現実見ろ、俺。
時間は撒き戻ったのではなく、進んだだけ。
時の流れが記憶に残っていないだけ。
ショックが大きすぎたのだ。
想いを伝えることすらできていない初恋の少女『春日井 梓』のキスシーンが。
目を閉じて記憶を辿ろうとしても、ふたりが旧校舎から去ったあたりから何もかもが曖昧になっていた。
旧校舎の下見に来た解体業者と何か話した気はする。
覚束ない足取りで帰宅した気もする。
夕食を食べた気もするし、風呂に入った気もするし、ベッドに横たわった気もする。
目を覚まして、朝食を食べて、歯を磨いて、家を出て、学校に辿り着いた。
気もする。
気もする。
気もする。
何もかもが――気がするだけ。
現実を現実として受け入れることができていない。
ありとあらゆるものがフワフワした夢――どちらかというと悪夢の類のように感じられて……夢であるならば、さっさと覚めてほしかった。
できれば、昨日の放課後あたりから全部まるっと夢だったりするとありがたい。
「痛い」
念のために頬をつねってみたら、ちゃんと痛かった。
涙は出なかったが、ため息が出た。
夢じゃなかった。
「衛、何やってんの?」
視線を上げると、ひとりの男がいた。
見慣れた顔に心配そうな表情が浮かんでいる。
この男の名は『
幼稚園で出会って以来、小学校、中学校、そして高校までずっと同じクラス。
もっとも、ふたりは見た目も中身もあまり似ていない。
どちらかと言うまでもなくインドア派の衛とは違い、大河は運動神経抜群のアウトドア派。
背丈は高く、細身であるにもかかわらず身体は鍛え上げられており、野性味を残しつつも清潔感を失うことのない整った顔立ちは笑うと愛嬌がある。
当然と言うべきか女子から絶大な人気を誇るだけでなく、男子からも信頼の厚い男だった。
その割に浮いた話のひとつも聞かないあたり、つくづく世の中は摩訶不思議にできていると思わざるを得ない。
「夢を見ていたい、と思っていた」
「春日井にフラれたのか」
「フラれてない」
具体的なことは何も言っていないのに、返ってきたのはストレートかつクリティカルな一撃だった。
強めに反駁したら、親友の整った顔に『わかったわかった』と生暖かい苦笑が広がった。
――まったく……
衛と大河は物心ついたころからの長い付き合いで、なんとなく馬が合った。
一緒に遊ぶことも多かったし、お互いの家庭の事情や進路を始め、あれやこれやと相談しあったことも一度や二度では聞かない。
好きな食べ物。
好きな芸能人。
好きなマンガ。
好きなゲームなどなど、お互いの趣味嗜好はガッツリ把握し合っていた。
好みの女性のタイプもだ。
そんな大河に、高校に入学したその日に『衛が絶対に惚れる女子を見つけたわけだが』と引っ張られた先――舞い散る桜の木の下に立っていたのが梓だった。
もちろん即オチした。
――フラれたわけじゃないんだ……
心の中でため息ひとつ。
口を開こうとして――開けなかった。
大河のことは親友だと思っている。信頼もしている。
だが、昨日の旧校舎で目にしたあの光景について語るのはアリなのか?
――言えん。
自問して、即座に自答した。答えはノー。
大河ならば言いふらしたりはしないと確信している。
それでも、言えない。
自分のことならともかく、あれは奈月と梓の問題だ。
ふたりのプライバシーにまつわるアレコレを衛が軽々しく口にすることは人の道に反する。
一方で、永年を共にしてきた親友に胸中を伝えられないことに少なからず罪悪感を覚えていることも間違いなくて。
葛藤があった。
じっと見つめられて、見つめ返した。
『それ以上聞いてくれるな』と言外に匂わせる他なかった。
大河は、軽く肩を竦めて『無理すんなよ。何かあったらすぐに言え』と口元を緩めた。
そして――
「よし、それじゃ景気づけに――」
なおも消沈したままの衛を見て思うところがあったのか、大河は何かを言いかけた。
何を言おうとしたのかは、わからなかった。
言葉を遮られたからだ。
「
クールな声で名前を呼ばれた。
ショボショボしていた眼がパチリと開き、猫背気味だった背筋がピンと伸びた。
大河と顔を見合わせて、ゆっくりと声がした方に視線を向けた。
聞き覚えはあるけど縁はない、そういう声だった。
涼やかな眼差し。
艶やかなセミロングの黒髪。
学校指定の制服を身に纏った、圧倒的な美少女。
「黒瀬……」
息を呑んだ。
絶句させられた。
秒で昨日の記憶が鮮明に甦り、頭に痛みが走り、続けるべき言葉が喉につっかえた。
黒瀬。
『黒瀬 奈月』
衛の初恋を跡形もなく粉砕した、何なら今一番顔を合わせたくない相手だった。
思わずこぶしを握り締め、奥歯を噛み締めてしまう。
臨戦態勢と言ってもいい。
「黒瀬さん、悪いけど後にしてくれないか。衛、調子が悪いみたいでさ」
きっぱりと奈月にノーを突き付ける大河を、素直に『凄い』と思った。
学校三大美少女に数えられる美貌、その迫力を真っ向から受けて怯みもせず恐縮もせず、それどころか無下に拒否れる男子は校内を隅から隅まで探し回ってもコイツしかいないんじゃなかろうか。
同じ男として惚れる――ではなく、尊敬してしまう。
「調子が悪い? だったら、私が保健室に連れて行こうか」
あっさりと切り返されて、大河が舌打ちした。
奈月が保健委員だったことを失念していたのだ。
調子が悪いと自分で口にしただけに、この申し出は跳ねのけづらい。
「そこまでしてもらうほどのことじゃない」
辛うじて声を絞り出したら、大河が目を丸く見開いた。
奈月は反対に目を細めた。笑っている。肉食獣のそれに似ていると感じた。
「そう邪険にしなくてもよくない? 人の厚意は素直に受け取った方がいいと思うけど」
言うなり奈月は衛の手を取った。
元々寝不足だっただけあって踏ん張る力は残ってなかったし、差し挟まれる大河の制止を聞き入れる奈月ではなかった。
周囲のどよめきを余所に、あれよあれよという間に教室から遠ざかって――
「……保健室は一階だろう?」
階段を登らされている最中に口が動いた。
奈月は――笑みを浮かべたまま何も言わなかった。
抗うこともできずに屋上に連れていかれ、軽く突き飛ばされる。
一連の狼藉(?)に文句を口にする暇もなく、背後から鍵をかける音が聞こえた。
「黒瀬、何を」
『するつもりだ?』と続けることはできなかった。
いきなり奈月が接近してきて、とにかく間合いをとろうと衛は下がった。
あっという間にフェンスまで追い詰められて、横に逃げようとしたところに腕が伸びてきた。
ガシャン
耳障りな音とともに逃げ場を失った。
目と鼻の先に迫力満点の美貌があった。
お互いの吐息が相手に触れるほどの至近距離。
他人事なら『羨ましい』と笑っていられたが、当事者となると戦慄しかない。
しかも、奈月の目つきがメチャクチャ鋭い。
昨日よりもさっきよりも鋭い。
もはや肉食獣ですらない。
生まれてこの方ついぞ目にしたことのない表情を浮かべた奈月が、おもむろに唇を開いた。
「昨日のこと……誰にも言っていないでしょうね?」
やたらとドスの利いた声だった。
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