第2話 甘々な失恋 その2

 旧校舎の様子を見てきてほしいと教師に頼まれて脚を伸ばしてみれば、不法侵入した(としか考えられない)先客な女子がふたり、人目を憚るように口づけを交わしていた。

『なんだそりゃ!?』と叫びたかったが、そんな雰囲気ではなかった。

 ふたりの少女はどう見ても恋する乙女そのものだったし、そこに割って入ったまもるはどう考えても邪魔者でしかない。


『百合の間に挟まる男は死ね』


 ふいに妹の声が脳裏に響いた。

 昏い眼差しと、吐き捨てられた言葉とともに。

 なお、どんな文脈から出てきたのか詳細は思い出せなかった。


――あの時は適当に相づちを打ったが、さっきのを見てしまったら……わかるな。だが……


 お互いに身を寄せ合う女子を視界に入れたまま、声に出すことなく納得した。

 納得して――否。

 否だった。

 彼女たちの立ち入り難い雰囲気を認めはしたが、素直に受け入れられない光景であることも事実であった。


――女同士か……女子高だとそういうこともあると聞いたような気はするが……


 身近で実例に遭遇するとは、完全に想定外だった。

 まったく関係ない赤の他人なカップルなら『いいもの見させていただきました』と合掌したくなるところだが……あいにくどちらも顔見知りなうえに、関係ないとは言えない間柄だった。

 向こうがどう思っているかは、ともかくとして。


岡野おかのくん」


 凛とした声。

 大きくはなかったが、聞き漏らすことはなかった。

 何しろ旧校舎には人気が無く、音を発するものもない。

 ……今この場にいる三人を除いて、の話ではあるが。あるはずだが。


黒瀬くろせ、お前ここで……」


 先手を打って声をかけてきたのは、黒髪セミロングの女子こと『黒瀬 奈月くろせ なつき』だった。

 大人びた涼やかな眼差し(今は微かにけぶるように見えて、いつもより色っぽいと感じられた)が印象的なクラスメートで、その美貌は校内の誰もが認めるところ。

 美少女に名前を呼ばれて睨みつけられるなんて、ある種の嗜好の持ち主にとってはご褒美なのだろうが……幸か不幸か衛にはそっちの趣味がなかった。

 率直な感想を述べるならば、かなり怖かった。

 幽霊なんかより、ずっと。

 

「……」


 もう一方の――亜麻色の髪の少女は、奈月の背中に身を隠していた。

 さしずめ騎士に守られるお姫様といった風情だ。

 しかし、奈月の肩越しに向けられる視線は衛の胸を貫いていて、その穴からは不可視の血がしぶいていて、耐え難い痛みを発していて、衛は反射的に顔をしかめて――


――うおっ!?


 仰天した。

 よくよく目を凝らしてみれば……彼女の襟元は乱れていて、普段は絶対目にすることのできない(本当は目にすることを夢見ていた)透き通るような白い首筋(今は朱に染まっていた。理由は省略)が見えてしまいそうで、ひとたび気付いてしまったら気になって気になって仕方がない。

 本能的に吸い込まれそうになる視線を強引に逸らすために、衛は一方ならぬ努力を要した。


「……」


「……」


「……」


 三者ともに身じろぎひとつしない。

 次第に張りつめてゆく空気が、炸裂する瞬間を待っていた。

 誰かが迂闊な動きを見せれば、あとは決定的な破滅に向かって一直線に転がり落ちる。

 そんな気配を濃厚に漂わせていた。


――決定的な破滅って、いくら何でも大げさすぎる……ことはないか。


 もしも視線で人を殺すことができるなら、自分はすでに死んでいる。

 そう断言できてしまうほどに、奈月たちから向けられる眼光は鋭かった。

 だから――


「……さっさとここから出るんだ」


 一触即発の状況に一石を投じたのは――衛だった。

 無理矢理動かした口から、言葉とともに苦みが広がる。

 ぎゅっと握りしめた左右の拳からは、強烈な痛みを感じた。


「岡野……くん?」


 眉を寄せる奈月。

 その訝しげな眼差しに苛立ちを覚える。

 衛には退去を促す権限はないが、理由はあった。

 いっそのこと放っておいてやろうかと考えなくもなかったが、そこまで薄情にはなり切れなかった。

 たとえ殺気混じりの眼光に晒されようとも、だ。


「今日はこれから、ここに解体業者が来ることになっている。このままだと鉢合わせになるぞ」


「……解体、業者?」


「旧校舎の解体は、まだ先の話だって……先生が……」


「俺も詳しくは聞かされていないが……たぶん下見か何かだろう。業者が入るから、念のために忘れ物がないか見回りに来たんだ」


 それが、衛が教師から鍵を受け取った理由だった。

『そんなのアンタたちの仕事だろうが!』と突っぱねることもできたが、教師は教師で忙しいという話も聞く。現に鍵を渡してきた教師の目元にはハッキリとクマが浮かんでいた。

 だったらヒマな自分が……と引き受けた結果が、この有り様だ。

 奈月たちに睨まれる羽目になったのは不幸としか言いようがなかったものの、自分が訪れていなければ彼女たちに更なる悲劇が降りかかっていたと思えば……まぁ、我慢できなくもない。

 心の中で、そう自分に言い聞かせた。

 何度も何度も言い聞かせた。


「……ああ、そういえば生徒会って」


 奈月が納得いった風に呟いた。

 背後に庇う少女もわずかに身体を震わせた。

 一年生の頃から衛(と亜麻色の髪の少女)は生徒会に所属している。

 そして、生徒会室は元々この旧校舎にあったのだ。

 衛たちが慣れ親しんだ部屋を引き払ったのは、つい先日のこと。

 生徒会長にこき使われて全身筋肉痛に苛まれた記憶は、いまだに新しい。


「俺ひとりならどうとでも言い逃れできるだろうが、黒瀬と……その、春日井かすがいについてはどうにもならんと言うか、ああ……いや、えっと、そのまま人目に触れるのは良くないと思うんだが」


 物凄く気まずい雰囲気ではあったが、言わないわけにはいかなかった。

 亜麻色の髪の少女こと『春日井 梓かすがい あずさ』の衣服は現在進行形で乱れたままなのだ。

 今この状況に踏み込まれると色々とマズいことこの上ないが、中でも彼女はひときわマズい。

 状況を素早く飲み込んだ奈月が、再び鋭い声で問いかけてくる。

 殺気はなかったが、深刻さでは先ほどをはるかに上回っていた。

 

「時間の猶予は?」


「ない。逃げるなら正面は避けた方がいい」


「……わかったわ、ワザワザ教えてくれてありがとう」


 感謝の言葉とはまるで噛み合わない表情を浮かべながら、奈月は梓の服を整えていた。

 見てはいけないものを見ているようで、言いようのない居心地の悪さを覚えてしまう。


「……」


「……」


 奈月と目が合った。

 咎められている。

 そう思った。


「なんだ?」


「見ないで」


「……気が回らなくてすまんな」


 肩を落として回れ右した。

 念のために眼鏡を外して、目を手のひらで覆う。

 女子の身づくろいなんて、確かにじっと見つめるものではない。


――とは言え……見なきゃいいってものでもないな。


 背中越しに衣擦れの音が衛の耳朶を撫でまわしてきて、これがどうにも落ち着かない。

 じりじりと背中をあぶられるような焦燥感が込み上げてきて、どれくらい時間が経過したかわからないまま待つことしばし――


「もう大丈夫よ」


「そうか」


 振り向かずに答える。

 わずかな沈黙を経て、もう一度『ありがとう』と感謝の声が聞こえてきて――ふたりの足音が遠ざかっていった。

 奈月たちの気配が完全に消えたことを確認して振り返った。


「……よかった」


 予想どおり誰もいなくてホッとひと息。

 最悪の危機が去り、安堵のあまり全身から力が抜けた。

 打ち捨てられた椅子に腰を下ろして室内を見回していると、鼻先を甘い香りがくすぐってくるような気がした。


――さっきまで、ここでキスしてたんだよな……あのふたり。


 鮮明に思い出せてしまう。

 愛し合うふたりの姿を。


「何と言うか……生々しかったな」


 もしも自分がここに来なければ、あるいは止めなければ……彼女たちはいったいどこまで行くつもりだったのだろう?

 疑問はあまりにも下世話に過ぎて、自己嫌悪が止まらない。


「……そうじゃなくって、今は業者を足止めしないと」


 ふたりの少女が去った(であろう)廊下を見やり、独り言ちる。

 彼女たちの侵入経路は尋ねなかったが……人目に触れずに入れるならば、人目に触れずに脱出することもできるはずだ。


「……はぁ」


 重い身体を引きずって校舎の入り口に向かう。

 身体だけではなく、心も重ければ足取りも重かった。

 胸の奥には言語化し難い不快な感情がとぐろを巻いている。


「はぁ~」


 ため息が止まらない。

 それでも、衛は歩みを止めなかった。

 解体業者を押し留めることができるのは自分しかいないのだから。


「はぁ、なんで俺が……よりにもよって……」


 脚が――止まった。

 頭を掻きむしりながら、天を仰ぐ。

 目を閉じれば、ふたりのキスシーンが目蓋の裏に甦る。

 込み上げてくる言葉があった。抑えきれない激情が――口を通って溢れ出た。


「……こんな失恋、アリかよ!?」


 亜麻色の髪の美少女『春日井 梓』は――衛の初恋の女性だった。

 告白などはできていないし思いもよらない有様だったが、高校の入学式で初めて姿を目にしたときから、ずっと好きだった。

 なのに――あんな姿を、あんな表情を見せられては――


「ちくしょー!!」


 叫んだ。

 叫ぶことしかできなかった。

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