私のいびつなトライアングル

鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』

第1章

第1話 甘々な失恋 その1

 日が西に傾きつつある五月の放課後。

 薄暗くて埃っぽくて雑然とした木造の旧校舎。

 ひとり歩みを進めるたびにギシギシと鳴る廊下に辟易するまもるの耳を――聞き慣れない音色が掠めた。


「……なんだ?」


 足を止めて目を細めたが、眼鏡のレンズ越しに廊下の先を睨んでも動くものは見当たらない。

 使用されなくなった旧校舎には電気が通っておらず、そこかしこに見通せない闇が蟠っていた。

 役に立たない目を閉じて、先ほど音を拾った耳に意識を集中させる。

 余計なノイズが混ざらないよう、呼吸も止めた。

 さすがに心臓の鼓動は止められない。


「……んぅ」


「ん……はぁ、ちゅ」


「待……って。だ、だ……よ……こんなの」


「ダメ、待たない」


――聞こえる。間違いない。


 心の中で独り言ちた。

 音の正体は――人の声に聞こえた。

 人の声だと認識して、衛は思わず眉を寄せた。

 足元から背中へゾクリと冷たいものが駆け上がってくる。

 

「……誰か、いるのか?」


 問いかけても答えは返ってこない。

 あちら側の『誰か』には聞こえていないらしかった。

『聞こえていないから返事がない』であってほしいと切実に願った。

 返事の代わりに廊下の彼方から声(と思しきもの)が断続的に流れてくる。

 かすかな息遣いが混じった途切れ途切れな調べは人の――おそらく女性のそれだった。

 そこまでわかっていてなぜ訝しむかと問われれば(ついでにちょっとビビっているのかと問われれば)、今この旧校舎に自分以外の人間がいるはずがなかったからだ。

 日誌を提出するために寄った職員室で『岡野おかの、すまんが旧校舎の様子を見て来てくれないか? 今日はこれから――』と担任から鍵を渡されたのが、ついさっき。

 教師に媚びるつもりはなかったし、旧校舎の見回りをする義務もなかった。

 さりとて断る理由も思いつかず、『わかりました』と答えて鍵を受け取り、今に至っている。


 そう、鍵。

 旧校舎の鍵は衛が持っている。

 握りしめた手には固い感触があり、かすかな錆びの匂いが鼻についた。

 築ウン十年の古びた木造建築な旧校舎に、これ以外の鍵があるとは聞かされていない。


――ならば、これはいったい……


 咄嗟に思い浮かんだのは『幽霊』なる不吉な単語だった。

 昨晩、妹がテレビの心霊特集を見て悲鳴を上げていたからだ。

 ふたつ年下な妹のはしたない絶叫は、今なお脳にこびりついている。

 薄暗い旧校舎

 途切れ途切れな女の声。

『雰囲気あるなぁ。ピッタリじゃないか』と頭のどこかから感嘆交じりの声が聞こえて、慌てて首を横に振った。


「……バカバカしい」


 ひと言だけ吐き捨てた。

 衛は幽霊なんて信じていない。

 ただ――信じていなくとも怖いものは怖い。

 どれだけ理屈を並べ立てても、本能的な心の動きには抗えない。


「待てよ、もしも幽霊じゃなかったら不法侵入者だ。そっちの方がよっぽど怖いじゃないか」


 はっはっは。

 乾いた笑い声は――廊下の奥に吸い込まれた。


「……」


 やはり反応はなかった。

 しばらく奥を睨み、深呼吸をひとつ。

 目を閉じて、胸に手を当て、再び耳を澄ます。

 声は断続的に耳の縁を撫でつけてくる。

 風の音とか、猫の泣き声とか、その手の類の聞き間違いではない。


「……な、何か……誰かいることは確定……いや、本当に確定か?」


 口の端から零れ落ちた言葉尻は疑問形だったが、心の中では確信していた。

 奥に、誰かいる。

 否、確信したかった。

 誰かいてほしい。さもなければ……


――どうする?


 迷った。

 進むべきか退くべきか。

 退くなら職員室に直行なのだが……そこで何と言えばいい?

『何かいたんです。怖かったんです』とか?

 口元を歪めて首を横に振った。

 ダサすぎる。


「せめて正体ぐらいは確認しておかないと、な」


 おっかなびっくり接近を試みる。

 念のために靴を脱いで、足音を消した。

 ゴクリと唾を飲み込んで、抜き足、差し足、忍び足。

 古めかしい板張りの廊下が音を鳴らさぬよう、頑丈そうな端に身を寄せた。


「……はぁ、はぁ」


 声は、少しずつ大きくなってくる。

 つまり、何者かがいる場所に近づいている。

 ひりつくような接近の過程でわかったこと、それは声の主が複数であること。

 ケンカとかイジメのような緊急性の高い案件ではなさそうであること。

 聞いた感じでは、いずれも若い声。

 衛と同年代、すなわち生徒。

 数は多くない。ひとりかふたり。


 女子。

 複数。


 指折り数えて、首をかしげた。

 いったいこんなところで何をやっているのか、実に不思議だった。

 衛の脳内で『複数の女子』と『放課後』を掛け合わせると……だいたい明るい雰囲気のカフェとかカラオケボックスといったイメージが浮かび上がってくるのだが。

 率直に言ってオンボロ旧校舎はお呼びでない。

 しかして現実は、ご覧の有様である。

 わけがわからない。


――ここだな。


 奥まった教室のドアの前で立ち止まった。

 間違いない。

 声だけでなく気配がする。

 とりあえず幽霊ではなさそうでホッとした。

 代わりに不法侵入者の可能性が高まったわけだが、相手が女子生徒らしいと判明して少し心に余裕が生まれていた。

 見上げると――プレートには掠れた文字で『1年2組』と表記されている。

 埃にコーティングされた磨りガラスのせいで中を覗くことはできない。


――ふむ……


 ここに来て、少し頭が冷えてきた。

 前言を翻すようで、それはそれでとてもカッコ悪いわけだが……よくよく考えてみれば、別に自分が中を確認する必要はないような気がしてきた。

 何なら『即座に職員室に駆け込んでも良かったのでは?』とさえ思えてきた。

『怖い』と言わなければ何の問題もないのだから。

 それでも、恐怖を押し殺してここまでやってきた。

 今さら撤退する気にはなれない。純粋に興味もあった。

 そっと、そっとドアを開けて室内の様子を窺って――心臓が止まった。





 人影はひとつしかないように見えたが、違った。

 確かに人はふたりいた。

 遠目にはひとりに見えた。

 要するに……ふたりの距離はほとんどゼロに近かった。

 お互いに相手の背中に手を回している。しっかりと抱き合っている。


 どちらも学校指定の制服を身に纏っていた。

 やはり女子生徒。

 ふたり。

 セミロングの黒髪と腰まで届く亜麻色の髪が目を惹いた。

 黒髪の女子は瞳も黒かった。

 亜麻色の髪の女子は、碧色の瞳をしていた。

 

「んっ」


 至近距離で見つめ合うふたりの唇が、自然と相手の唇に吸い寄せられていく。

 お互いの顔しか視界に入っていないような、冒し難い雰囲気があった。


「……ふぅ」


「ん……はぁ」


 くぐもった声。

 やたらと耳につく水音。

 キスしているのだと、少し遅れて理解した。


 永遠にも一瞬にも感じられる、ふたりきりの時間がそこにあった。

 互いを慈しみ合うように、求め合うように。

 啄むように、貪るように。

 長い長いキスが終わると、ふたりの唇の間に透明な橋が架かった。





――なんだなんだ、なんなんだ!?


 声をかけることを憚られるどころか、この場に存在することにすら罪悪感を覚える。

 室内に広がっていたのは、そんな光景だった。

 耽美?

 背徳的?

 日常ではまず用いない形容が脳内に溢れ、冷静であろうとする思考がかき乱される。

 兎にも角にも現実味がなさすぎる世界の住人は……しかし、どちらも衛がよく知る人間だった。

 顔見知りであるがゆえに、いっそう破壊力が半端ない。

 足元が崩れ落ちるようなトンデモナイ衝撃に打ちのめされながらも、その場にへたり込むことだけは避けようと踏ん張って――ギシリと大きな音が響いた。

 マズいと思った時には、もう手遅れだった。


「誰!?」


「きゃっ」


 教室の中から飛んできた厳しい声。

 衛に向けられる二対の瞳。

 赤く染まった頬。


「岡野……くん?」


 黒髪の女子が衛の名を呼んだ。

 彼女の眉間には深い皺が刻まれている。

 いつもは涼やかな眼差しが、かすかに潤んで見えた。

 整った顔に浮かぶのは、明らか過ぎる非難の意思。見間違いの可能性はゼロだ。

 ちなみに、もうひとりの少女――亜麻色の髪の少女は視線を外し、そっと目を伏せている。

 どちらからも好意的な気配は感じられない。

 ハッキリ言えば敵意に満ち満ちていた。


――俺が悪いのか、これは!?


 ギリギリで声に出さずに済んだ叫びに応えてくれる者は、誰ひとり存在していなかった。

 代わりに遠くから気の抜けたカラスの鳴き声が聞こえてきた。

 何の慰めにもならなかった。

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