第3話 その手、その姿、その…… その1
思う存分惰眠を貪りたかった土曜日の朝に叩き起こされたとはいえ、
だから、待ち合わせの場所には三十分前に到着した。
土曜日の午前。
駅前の繁華街。
心地よい晴天。
絶好の――絶好の――
――絶好の――何だろうな?
壁に寄り掛かりながら、首をかしげた。
『何だろうなって映画だろ。遊びに行くだけだろ』
単純な答えのはずなのに、納得できていない自分がいた。
親しくもない相手とどこかに出かける趣味はない、趣味はないが――
――何なんだろうな、オレとアイツの関係って。
『顔見知り』では遠すぎる。
『クラスメート』は事実を顕しているが素っ気ない。
そもそもの話、自分と奈月の関わりは同じクラスに所属している云々とは関係ない。
――だったら……『友だち』か?
『友だち』
その響きは妙にしっくりくる……ように思えた。
ただし、比較対象がいないせいで確信が持てないことも事実だった。
『
正確には異性を『友だち』と呼ぶことに違和感を覚える。
少なくとも男友だちと同じレベルの気安い距離感の女子に心当たりがない。
生徒会長とは先輩後輩の間柄だし、『
他の女子と仲が悪いわけではないが、特別親しくもない。
でも、奈月は違う。
どのパターンにも当てはまらない。
昼休みにふたりで過ごすときの彼女は、他の女子よりも付き合いやすい。
下ネタが多めなのは辟易させられるものの、会話のネタに困ることはないし変に肩肘を張ることもない。
ならば、奈月を男として扱う――例えば親友である『
「男と出かけるのに三十分前はないだろ」
たとえ男同士の付き合いであっても待ち合わせに遅れたりはしないように努めているが、待ち合わせ場所に辿り着くのは早めと言っても五分前がいいところ。
誰かが遅刻してきたらジュースをおごらせたりするのも日常茶飯事だが……今、奈月が遅れてきても、それを理由にたかろうとは考えない。
――なら、俺にとって、アイツは……何なんだ?
自らを男と称する彼女は、事情を知る衛からは男として扱われたがっている。
おそらく勘違いではないと思うのだが……本人に問いかけるわけにもいかないし、他人に尋ねるなんて論外だ。
だからと言って、自問自答したところで答えが出るはずもなく。
諸々の事情の結果として、ただひとり悶々としてため息を吐いた。
「よ、待たせたな……って、いきなりため息とかマイナスだわ」
軽やかな口振りと聞き慣れてしまった声。
顔を上げれば、そこには予想どおりの姿があって――
「……」
「どうした、岡野。間抜け面に磨きがかかってるぞ」
ニヤニヤと笑みを浮かべる黒髪の美少女、奈月。
彼女と待ち合わせしていたのだから、おかしいところは何もない。
……にもかかわらず間抜け面(奈月談)を晒してしまったのは、頭の中で思い描いていた彼女の姿と、目の前にいる彼女の姿が一致しなかったからだ。
「……いや、そう言えば私服を見るのは初めてだったなと思った」
「ああ、そりゃそうだろ。これまで学校の外で会う機会なんてなかったしよ」
「そうだ……そうだな」
奈月の言葉に頷いた。
眉間を指で揉んで深呼吸。
『冷静に、冷静に』と何度も口の中で繰り返した。
初めて目にする私服姿の奈月に、見惚れた。
上は薄い色合いのカーディガンとブラウス。
春と呼ぶには熱気が煩わしい頃合いにもかかわらず、防御力は高め。
スカートの丈も制服のそれよりもかなり長く、何かと自慢してくる美脚はほとんど隠されている。
手首には革ベルトの腕時計が巻かれていて、肩から下げたバッグも高級感があった。
総じて上品であり、相応に金がかかっていることが見て取れる。
平たく言えば『お嬢様』っぽいと思った。
「何? そんなに見惚れられると照れちまうわ」
「いや、その……スカートを履いてくるとは思わなかった」
まんざらでもなさげに微笑む奈月に異論はなかったが、意外だったのは事実だ。
学校はともかく休日はパンツルックなのではないかと勝手に思い込んでいた。
だが、今日の奈月のコーディネートは、どこからどう見ても女子のそれだ。
違和感が半端ない。
違和感がない。
矛盾した感想が並立して上手く言葉にならない。
「ん? 似合ってないか?」
「……似合っている。驚いた」
「何だよ、それ。素直に褒めれば楽になるぞ。だいたい学校でだってスカート履いてるだろ」
「それはそうなんだが……」
「今日はたまたまスカートなだけで、パンツの日もあるって。オレは自分に似合う服を選んでるだけだし」
あと、その日の気分。
奈月の言葉は本心から出ているように見えた。
男っぽいとか女らしいとか、そういう話の前に、似合うか似合わないかが重要だと笑っている。
「
「どっちでもいいとか、それも減点な」
『ちゃんと褒めろ』と唇を尖らせてくるので『似合っている』と念を押した。
奈月は目を細めて頷いてくれた。
実は『メンドクサイな、こいつ』とも思ったのだが、さすがにその言葉は飲み込んだ。
「オレよりも岡野の方が意外だわ。まともな服じゃねーか」
「意外とは余計だ」
奈月の漆黒の瞳が衛の頭のてっぺんから足のつま先までを何度も往復する。
感心半分からかい半分な声に、衛は語気を強めて不満を表明した。
……もっとも、その程度で奈月が怯むわけもないのだが。
「お前こそ、なんかイメージと違うな」
「俺のイメージって、どんなのを想像していた?」
「休みの日でも制服っつーか、お前が服を買う姿とか想像できない」
「……まぁ、そこまで的外れでもないな。服は妹と大河に選んでもらうことが多い」
正確には『兄貴はダサいから私と大河さんに任せなって』などとほざく妹と大河に引きずられるようにいくつもの店を回り、可愛らしくもない着せ替え人形よろしく弄ばれた末に『まぁ、これなら何とか』と押し付けられるのが常なわけだが。
「妹さんはわかんねーけど、大河内なら外れはないか」
うんうんと頷かれて――衛は不満を覚えた。
自分にファッションセンスがないことは自覚しているが、『大河なら』と奈月に納得されることに心の奥で鈍い痛みを感じた。
それは事実であると自分でも認めているにもかかわらず、奈月に指摘されたことに強い不快感が込み上げてくる。
――落ち着け。
口を開かないように、奥歯をぐっと噛み締める。
余計な言葉を吐き出すことだけは、絶対に我慢しなければ。
そう焦る自分に『なぜ?』と問いかけはしたものの、答えは見つからなかった。
「ま、いいや。一緒に歩くならダサい奴よりイケてる奴の方がいいし」
衛の煩悶に気づいていない(気づかれていないようで助かった)奈月はふわりと笑って、そっと手を差し出してくる。
小さくて白い手。
繊細に造形された芸術品めいた指。
爪は――形こそ整えられているが色は普通だった。
時おり教室で女子が見せびらかしているような派手なカラーリングではないことに安堵を覚える。
――きれいな手だな。
率直にそう思った。
ことさら着目したことはなかったが、脳内イメージよりもずっと華奢で迂闊に触れたら壊れてしまいそうな雰囲気すらあった。
「ん」
「……ん?」
そんな手を前に、衛は――軽く眉を寄せた。
何を求められているのか、即座に反応できなかったからだ。
――『お手』……じゃないよな。
「……」
「……」
沈黙。
周囲の喧騒とのギャップが肌に突き刺さる。
ふたりは互いに見つめ合い――時を置かずして奈月のこめかみがプルプルと震え出した。
ここ最近あまり見なくなった、強烈なプレッシャーが滲み出る笑顔。
屋上でフェンスに追い込まれたときよりも酷かった。
つまり――
――怒ってるな。
奈月の勘気に触れたことは瞬時に理解できた。
問題は……なぜ怒っているのか、その理由に思い当たるところがないことだ。
――これはアレだ。『察しろ』って奴だ。
そう思ったのは、妹が似たような態度をとることがあったから。
『俺はエスパーじゃないんだから、ちゃんと言葉にしろ』などと抗弁すると罵倒が飛んでくる奴だ。
妹ならばスイーツを献上すれば解決するけれど、奈月にその手が通用するか。
……できるできない以前に、試す気にならなかった。
――ブチ切れさせてから機嫌を取るより、今ここで考えた方がいい。
眼鏡を外してレンズを拭いてかけ直す。
腕を組んでしげしげと手を観察する。
『奈月が期待しているのは何か?』
ヒントは、おそらく眼前に差し出された手。
この手をどうにかすればいい。そこまではわかるのだが――
「エスコートしろ」
耳朶を弾く声につられて視線を上げた。
リップで彩られた奈月の唇から零れた声は――震えていた。
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