第2話 誘われた土曜日 その2
顔を洗って水を拭って歯を磨いて。
……と言うわけで、せっかくの土曜日の朝にいつもより早く目覚める(破目になった)
眼鏡をかけて鏡を見やれば、そこには生まれて以来十七年もの付き合いになる自分の顔が映っている。
『目つき悪いな』と嘆息しつつ、同時に『まぁ、いつもと変わらんよな』とも思った。
自分の顔に違和感を覚えない。
それは、あまりにも当たり前すぎること。
だから、イチイチ真面目に考えたことなどなかった。
「アイツは……どうなんだろうな?」
『
自らをして男と認識している――黒髪の美少女。
以前は『鏡に映った自分の美貌と肢体、そのすべてが思うがままにできるオレ最高!』などとえらく
――あれは本気だったのだろうか?
普段は女のふりをしているという奈月。
かつての衛を含め、彼女の本性を知る者はほとんどいない。
それは奈月が本心を隠ぺいする手管に長けていることを意味している。
ならば……日ごろの下ネタ満載の言動もまた、衛に不要な心配をかけまいとする心づかいの一部なのではないかと思えてくるのだ。
――考えすぎか?
相好を崩してグラビアに釘付けな姿が脳裏に甦る。
同時に、自分の傍でだけ気が抜けると笑っていた顔も思い出された。
たとえ正体がバレたからと言って、誰かに吹聴するような人間ではないと信頼されていることも。
「アイツに信頼される……悪い気分じゃないが、理由がわからんのは不気味だ」
『黒瀬 奈月』の心の内は杳として知れない。
高校に入って一年目はクラスが違ったから関わりはなかった。
二年生になって同じクラスになったものの、あちらは運動神経に優れる学校有数の美人で衛は生徒会に所属するインドア派。
旧校舎の一件がなければ近しくなることもなかっただろうし、彼女の信頼を勝ち得た(?)経緯がまるで見えてこない。
「まぁ、わからんのはそれだけでもないか?」
漏れた声は愚痴めいていた。
奈月は今日、なぜか衛を映画に誘った。
付き合っているはずの『
奈月の言動は本人の中では整合性が取れているのかもしれないが、傍から見ている分にはわけがわからない。
今後も彼女と関わっていくのであれば(衛か彼女のいずれかが意図的に距離を取らない限りはそうなるのだろうが)、彼女の思考やスタンスについて情報を共有しておいた方がいいような気がしてきた。
衛は奈月の正体を誰かに喋るつもりはない。
……つもりはないが、どこかで彼女の意思に反した行動をとって他者に要らぬ疑いを抱かせてしまう可能性を否定できない。
みんなの前では奈月を女性として扱う。
ふたりきりの時には奈月を男性として扱う。
このふたつが基本的なルールだと認識しているが、他にも注意すべき点があるのかもしれない。
それも、衛が普段あまり意識していない些細なポイントで。
どこに地雷が埋まっているか見えない原っぱを駆け抜けるような危険を冒すわけにはいかない。
奈月のためにも、そして衛自身のためにも。
ややこしいとか厄介だとか思ったりはするが、面倒を厭う気持ちはなかった。
「結局、俺はアイツのことが嫌いじゃないんだな」
たとえ自分が想いを寄せていた梓の唇を奪われようとも……それはそれ、これはこれ。
『
彼女が
「あれ、兄貴?」
「ん?」
振り向くと妹の
髪はボサボサで、大きな口を開けてあくびをひとつ。
中学三年生の女子としてセーフかアウトか、兄としては悩むところだ。
……あまり口うるさく説教すると機嫌を損ねそうで困る。
奈月に限らず梓に限らず、年頃な乙女の扱いは難しい。
「土曜の朝に珍しいね。どっか出かけるの?」
「ああ、ちょっと映画を見てくる」
「映画?
「……」
衛と大河は幼い頃からの腐れ縁で、当然のごとく萌香も大河とは親しい。
兄が誰かと映画を見に行くというのであれば相手は大河に違いないと萌香が考えるのは自然なことであり、その問いに深い意味など含まれていなかったはずなのだが……衛はとっさに首を縦に振ることができなかった。
嘘をつくのは昔から苦手なのだ。
洗面所に沈黙が降りた。
「え、違うの? まさか……彼女ができたとか!?」
静寂を打ち破る萌香の声(震え気味)。
驚愕に見開かれた眼差しが心に刺さって痛かった。
『そんなこと、ないよね?』と言外に語り掛けてられて……正直、ちょっと腹が立った。
「言っておくが俺の友だちは大河だけじゃないぞ」
「休みの日に一緒に出掛けるほど仲いい人、他にいなくない?」
「高校生ともなると、人付き合いにもいろいろあるんだ」
「……去年は何もなかったと思うんだけど」
「お前、細かいなぁ」
ウンザリして肩を竦めると、萌香が近づいてきて覗き込んでくる。
あまりの早業に逃げを打つ暇がなかった。
「話をはぐらかそうとしているところから見て、女子」
「どうしてそうなる」
「え? だって男子だったら誤魔化す必要ないじゃん」
それはそうだな。
頷きかけて、思いっきり顔をしかめた。
萌香はいかにもイマドキな感じの見た目とは裏腹に論理や合理を好む。
至近距離まで詰め寄ってきた妹の瞳は好奇心でキラキラと輝いていて、相対する衛のこめかみから一筋の汗が流れ落ちた。
猛烈に嫌な予感がする。
「兄貴、彼女できたんだ。今晩はお赤飯炊くね」
「いらん。あと、彼女じゃない」
「女子なのは否定しない、と」
「……」
しれっと踏み込まれて言葉を失った。
兄の欲目を差し引いて考えても、萌香は頭の回転が速い方だと思う。
要領の悪さゆえに地道な努力を積み重ねることしかできない自分とは正反対の性質を有しており、つまり隠しごとが通用する相手ではなかった。
「ね、どんな人?」
「クラスメートだ」
「写真とかないの。あるよね? 見せて!」
「ない。ほら、待ち合わせがあるから、邪魔するな」
「む~、邪険にする。でも、せっかく兄貴が女の人とお出かけするんだから邪魔するのも悪いし」
「昼は外で食べてくるからいらないぞ」
できるだけさり気なさを装って告げた。
たとえウザかろうとも、食べる当てのない昼食の用意をさせるのは心苦しい。
それは岡野家に置いて常識的な思考であったし、あらかじめ伝えておかないと妹の怒りが天を衝きかねない。
しかして萌香から返ってきた問いは簡潔にして深淵を極めていた。
「夜は?」
「夜?」
眉を寄せて繰り返すと、妹も『うん。夜、どうするの?』と同じように繰り返す。
視線を外して少し考えて、衛は再び口を開いた。
「……たぶん帰ってくる」
「たぶんって……帰ってこない状況、どんなのなワケ?」
「どんなのって……」
夕食を外で食べてくることは十分にあり得ると予想できる。
奈月が指定してきた時間は午前中だったので、映画を見て昼飯を食べたとしても午後はかなり余裕があるはずだから。
――アイツなら『映画だけ見て解散なんて味気ねぇ』とか言いそうだな。
なし崩し的にどこかに繰り出す可能性は高いと思った。
それでも……追加で何かしたとしても、日が暮れるまでには帰宅できる。
そう言おうとした衛は、正面に立つ妹の瞳に怪しげな光を垣間見た。
萌香が何を考えているのか即座に答えに思い至って、絶句する。
その妹の口が、目が、夜闇の三日月に似た禍々しい弧を描く。
「ゴム持った?」
「……中学生がそういうことを言うもんじゃない」
「急に大人ぶって反論を封じるの、ズルい! その時になったら困るのは兄貴なのに!」
「だ・ま・れ!」
ボサボサの頭を掻きまわしてやると、衛の腕の中で萌香が唸った。
叫び声を上げなかったのは、まだ眠っている両親を慮ってのことだろう。
――ない、絶対にない。
何の問題もなく断言できるはずの言葉は、声にならなかった。
ほんの一瞬、切なげな奈月の顔が脳裏によぎったから。
あの日、旧校舎で見た表情だった。
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