第3章

第1話 誘われた土曜日 その1

 岡野おかの家にとって、土曜日の朝は特別な時間である。

 圧倒的静寂。

 誰も起きてこない。

 平日は朝早くから夜遅くまで働いている両親は、溜まった疲れにやられてノックダウンしている。

 一家の料理番である萌香もえかも起きてこない。

 毎日三食料理をこしらえてくれる彼女をねぎらうために『土曜の朝は各自で用意すること』と家族会議で決められているからだ。

 もちろんまもるだって深い眠りに沈んでいることが多くて――


「……何だ、いったい」


 ゆらゆらと微睡んでいた衛の耳が『ブブブ』とか『ガタガタ』みたいな音に揺らされた。

 目蓋を空けても視界はぼんやりしたままで、枕元の定位置に置かれている眼鏡をかけて、音の出どころ――スマートフォンを手に取った。

 着信だ。

 相手は――奈月なつき


「チッ」


 手の中で振るえる端末を睨みつつ、聞えよがしな(誰も聞いていない)舌打ちをひとつ。

 重みを訴えてくる額に手を当てて、スマホを前にハッキリしない頭で考える。

 電源をオフにして、もう一度ベッドに倒れ込むか。

 それとも諦めて通話を始めるか。

 時刻表示は、午前七時。

 

「土曜の朝だぞ、まったく」


 忌々しげに吐き捨てて、衛はスマホに指を滑らせた。


『いよう、岡野。おっはよ~』


「……朝っぱらから何の用だ?」


 やたらとテンションが高い聞き慣れた声に、思わず顔をしかめた。

 奈月の声が不快なわけではなかったが、休日の朝に叩き起こされたのは不快だった。

 しょうもない理由だったらノータイムで切ると強く心に誓う。


『あれ、寝てた? ちょっと意外』


「せっかくの土曜なんだ。そんなに早起きする必要なんてないだろうが」


『ま、それはそうか。それより、岡野って今日暇だったりする?』


「忙しくはないがゆっくり休みたいから切るぞ」


『おいおい、つれないこと言うなよ』


「……用件を言え、用件を」


『おう。オレと一緒に映画でもどう?』


 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。

 むくりと上体を起こし、眼鏡を拭いてかけ直した。

 首を捻り、眉をしかめ、顎に手を添えて考えることしばし――


「すまん、もう一回言ってくれ」


『お前、頭大丈夫か?』


「大丈夫じゃないかもしれん。幻聴が聞こえた」


『幻聴はヤベーな。疲れ溜まってんの? 病院行く?』


「俺のことはいいから、さっさともう一回言え」


『だから一緒に映画見に行かねーかって』


「……幻聴じゃなかったのか」


『ひでー奴だな』


 くすくすと笑う声がスマホの向こうから聞こえてくる。

 心外だと言わんばかりのセリフだが、否定はしてこない。

 もともと『岡野 衛おかの まもる』と『黒瀬 奈月くろせ なつき』は、つい最近までそれほど仲が良かったわけではない。

 中学校は別々だったし、高校一年生の頃はクラスも違っていた。

 二年生になって同じクラスになってからも、あまり接触する機会はなかった。

 それでも、衛は一応彼女の名前ぐらいは知っていたが。

 何しろ奈月は校内でも評判の美少女だ。

 なお、奈月が衛を知っていたかどうかは知らない。

 聞いてみたい気はしなくもなかったが、『知らなかった』と言われるとショックで崩れ落ちる自分を容易に想像できてしまったから、聞く気にはなれなかった。


――いや、黒瀬が俺のことを知らなくったって、別に構わんのだがな。


 心の中で並べ立てた言葉は、自分で読み直してみても強がりに過ぎなかった。

 ゴホンと咳ばらいをひとつ。『風邪か?』と聞いてくる奈月に『何でもない』と返す。

 うっとうしいわけではないが、心配されると妙なこそばゆさで全身を掻きむしりたくなる。

 閑話休題。


「んんっ、話を戻すが……何で映画? 何で俺と?」


春日井かすがいじゃなくって?』

 そう付け加えると、『お前だよ、お前』と返ってきた。

 春日井――『春日井 梓かすがい あずさ』は、奈月の彼女(?)だ。彼女のはずだ。

 そして、衛と奈月の急接近の原因でもある。

 具体的には、奈月と梓のキスシーンを衛が目撃してしまったところから、すべてが始まったと言ってもいい。

 ふたりがどういう関係を育んでいるのか詳しく聞いたことはなかったが……まぁ、校内でキスするぐらいなのだから、それなりに進んでいるのだろう。かなり進んでいるのかもしれない。

 ……とにかく、重要な点は。

 高校の入学式当日に、親友の大河から『衛の好みにピッタリの美少女発見』と連れていかれた先で梓を目にした瞬間から片想いを続けていた衛が、この一件で失恋してしまったという点だ。

 それでも、今の衛と奈月は友人と言っても差し支えのない間柄で、よくよく考えなくとも不思議と言う他なかったりする。


「わけがわからん。順序を追って説明してくれ」


『めんどくさいこと言うなよ。お前が『行く』って言えばいいだけだって』


「まさか、春日井も一緒とか」


『それはない』


「お、おう」


 思ったよりも強いノーが返ってきて面食らった。

 奈月は衛が梓に想いを寄せていることを知っているし、自分たちの関係――女同士のカップルが一般的な関係性でないことも十分理解している。

 それこそ他の連中よりも、ずっと。


――別に女友だちふたりで一緒に外出という態を装っても構わんと思うんだがなぁ。


 先日一緒に帰った梓の寂しげな顔が思い出される。

 こうして奈月と通話している自分に罪悪感を覚え、奈月の無神経さに苛立ちを覚えた。


『じゃあ……こないだ梓にオレのこと伏せといてくれただろ。そのお礼ってことでどーよ』


『この間のお礼』

 その言葉に衛の頬が引きつった。

 ギクシャクしかけた奈月と梓の間を取り持った件だ。

 原因は奈月にある。

 奈月が恋人である梓を放置して、昼休みのたびに衛のところへ足しげく通っていた件について詰問され、衛の方から『春日井が心配しているようなことは何もなかった』と告げた。

 奈月は梓に『岡野にこの前見られたことを口止めしようとしているが、なかなか首を縦に振らない』などと説明していたものだから、梓が怒るのは当然だ。

『この前見られたこと』とは放課後の旧校舎で奈月と梓がキスしていたところを衛が目撃してしまった件である。

 衛は最初から誰にも話すつもりはなかったし、それは何度も奈月には伝えたのだが、それでも奈月が何度となく衛のもとにやってきたのは異なる理由がある。

 その件については梓にも告げていない。


『それにしても、あの時はビビったビビった。いや~、梓でも嫉妬するんだな。人は見かけによらないって感じ』


「全部お前が悪いんだろうが」


『それを言われると……やっぱつれぇわ』


「……すまん、軽率だった」


『マジになるなよ。冗談だよ、冗談』


「わかりにくい冗談はやめろ」


 奈月が梓に隠している事実(正確には衛以外の人間に知らせていない事実)は、かなりデリケートな内容だから、シリアスなトーンで話されると反応に困る。

 今回も『冗談だ』と口にしているが、それが本音からのセリフなのか否か衛には判断できなかった。


『でもさ、あの状況から『オレって実は男だから、岡野のところで息抜きしてるんだ』って言っても逆に胡散臭くないか?』


「お前の日頃の行いのせいだな」


『それを言われると、照れるなぁ』


「褒めとらん」


 そっと胸を撫で下ろす。

『自業自得』と言いかけて、ストップ。

『黒瀬 奈月』は自らを男と認識している。

『身体は女性で心は男性』と本人は笑っていたが……衛が梓にすべての真実を告げることができないのは、奈月が彼女にそれを告げていないから。


――でも、自業自得と言うのは違う。


 奈月は男であることを自認しつつも女としての日々を謳歌しているように見える。

 でも、それでも……身体と性自認の乖離は奈月が望んだものではない。

 だから、自業自得には当たらない。


『話が逸れたな。映画のチケットは用意してあるんだ。金は使わせねーから』


「いや、金は払うが……なんで俺を?」


『来たら話してやるって』


 別に用事はなかった。

 ただで映画が見られると言う。

 しかも、超絶美人の奈月と一緒に。

 話が美味しすぎて――逆に首を縦に振ることをためらってしまう。

 奈月は校内でも男女の垣根を超えた人気を誇っている。休日に映画に誘うなら、別に衛である必要はない。

 ……にもかかわらず、彼女は衛に固執しているように聞こえた。

 他の生徒と衛の違いは――奈月の中身が男であることを知っているか否か、その一点に尽きる。

 だったら、答えはひとつしかない。


「わかった。何時ごろにどこに行けばいい?」


『お、助かる。えっと、データ送る』


「ああ。他に何か気を付けることはあるか?」


『ん~、別にない……と思う』


『なんかあったら連絡してくれ』

 その言葉を最後に、奈月からの通話が切れた。

 続いてメッセージに映画館の地図と上映予定表が添付される。


「映画なんて久しぶりだな」


 いつの間にか心が浮き立っている。

 なんだかんだ言って楽しみにしている現金な自分に苦笑せざるを得なかった……のだが、送信されてきたアドレスに指を這わせた次の瞬間、緩み切った頬が思いっきり引き攣った。


「アイツ、どういうつもりだ?」


 表示されたタイトルに聞き覚えはなかったものの、画像を見れば内容は一目瞭然。

 整った顔立ちの男と女が見つめ合っている。

 つまり――恋愛映画だった。

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