第7話 そして…… その1

「で、これからどうするんだ?」


 まもるが尋ねると、奈月なつきはおとがいに指を添えて『ん~』と唸る。

 そのまま小首をかしげると、サラサラの黒髪が頭に合わせて流れ落ちた。

 答えを急かすことはしない。

 奈月の意向を無視することもしない。

 ふたりと一緒に映画を見ていた観客が吐き出されてくるロビーで、奈月は椅子に腰を下ろし、衛は隣で壁にもたれながら突っ立っていた。

 ……組んだ腕の下で、右手を何度も握ったり開いたりしながら。


――さっきの、なんだったんだ?


 バレないように奈月の様子を窺い、心の中で独り言ちる。

 さっき――映画がクライマックスを迎えた頃、奈月に手を握られた。

 スタッフロールが流れ、館内が明るくなって、ようやく状況を把握した奈月は『あはは』と笑って手を引っ込めた。

 軽く上擦っていた声から動揺していたことは明らかだった。

 いつもなら、ここぞとばかりにからかってやるチャンスだったのだが……衛は指一本動かすことができなかった。

 できたのは、自分の手と奈月の顔の間で何度も視線を往復させることだけ。


『どうかした?』と首を傾げられた。

『何でもない』と返し、無理やり立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。


 ふたりで並んでシアターを後にして――今に至る。

 衛も奈月も、暗闇の中でのアクシデントについてはひと言も触れなかった。

 なんとなくギクシャクしていることも、漂う空気の異変にも気づいていたが……どうすればいいのかわからなかった。

 沈黙が、重い。

 館内の客が時おり自分たちを見ているようで、居心地が悪い。


「……このままここにいても仕方ないし、喫茶店にでも行きましょうか」


「そうだな」


 口火を切った奈月に、衛はさり気なさを装いつつ乗っかった。

 奈月はスマートフォンを取り出して、再び『ん~』と唸る。

 近くによさそうな店がないか検索しているらしい。

 端末を這う白い指に、自然と目が引き寄せられる。


「……何?」


 見上げてくる奈月と目が合った。

 漆黒の瞳に映る自分の顔がハッキリ見えた。

 瞳の中で驚いている間抜けな男を叱りつけてやりたくなる。


「いや、何でもない」


「さっきからそればっかり」


 軽く唇を尖らせる奈月に、頷き返すことしかできなかった。

 何を言えばいいのか頭をひねっていると『うん、ここにしましょう』と奈月の声が聞こえた。

 時間切れだ。

 もともと突発的なアドリブの類は苦手としていることを今さらながら思い出し、軽く肩を落とす。


――さて、またこれから喫茶店まで緊張しっ放しか……


 声には出さず気合を入れる。

 心の中で頭を抱えながら。


――よし!


 スッと立ち上がった奈月に手を差し伸べる。スマートにできたつもりだった。

 しかし、衛の覚悟に反して当の本人はその手をじっと見つめているだけ。

 ふたりの間に蟠っていた空気が、奇妙な対流を描き始めた。

 衛は眉を寄せ、奈月は首をかしげた。


「何?」


「エスコート。予行練習、まだ終わってないんだろ」


「……ああ、そうそう。そうよね」


 はにかむような笑みを浮かべた奈月が手を伸ばしてくる。

 一方、衛の脳内では暗闇の中で握った華奢な感触が思い出されていた。

 映画館に訪れるまでにも握っていたはずの奈月の手が、いっそう触れてはならないもののように思えてきて……でも、触れなければエスコートはできなくて。

『これは練習だから。予行練習だから』

 何度も自分に言い聞かせ、緊張を必死で押し殺し(押し殺せてない)、ゴクリと唾を飲み込んで奈月の手を待っていたのだが……


黒瀬くろせ?」


「え、あ、ごめんなさい」


 いつまでたっても奈月の手が触れてこない。

 ……と言うか、目にもとまらぬ速さで手を引っ込められてしまった。

 眼鏡のレンズ越しに見る奈月は、素人目にもハッキリわかるほどに動揺している。

 衛とふたりでいるときは概ね豊かな感情表現を見せる彼女だったが、記憶にある限り焦っている姿を見た覚えがない。


――珍しいこともあるものだ。


 カラカラになった喉に唾を流し込みながら、そんなことを考えた。

 自分より緊張&動揺している人間を目にすると、少し気分が落ち着いてくる。

 同時に『そう言えば、コイツずっと女のふりしたままだな』とも思った。

 いつ頃からだったかと記憶を辿るも……イマイチ定かにならない。

 映画が終わった後はずっと女モードだった。

 待ち合わせの場所から映画館までの間も、ずっと女モードだった。

 

――ッ!


 スクリーンに首ったけだった奈月の顔が脳裏によぎった。

 憧れを多分に交えた恍惚とした表情と吐息。

 あれは女モードと言うよりは――


「岡野君」


「あ、ああ」


 いつの間にか奈月の手が衛の手に添えられていた。

 今度は引っ込められなかったことにわずかばかりの安堵を覚え、軽く握った手の華奢な感触に慄き、伝えられる体温に心臓が不規則な鼓動を刻む。

 ほんの一瞬だけ訪れた平穏は、あっという間にどこかに吹き飛んだ。

 それでも、奈月の手を放そうとは考えなかった。


「そ、それじゃ行くか」


「ええ」


 微笑む奈月の口元は、わずかに引きつっていた。





 奈月が見つけた喫茶店は、映画館からそれほど離れてはいなかった。

 時間は正午を少し回ったあたりで、天気は相変わらずの晴天。

 風は吹いておらず、熱気が身体に纏わりついてくる。


――暑いな。


 五月とは言え夏日と呼んで差し支えない気候のせいか、汗が煩わしい。

 こめかみとか、背中とか。

 奈月に触れている部分――右手に汗をかいていないか、気になって仕方がない。

 他方で添えられていた奈月の手は、少し汗ばんでいるように思えた。

 だからといって何がどうするわけでもないのだが……意外な思いは禁じえなかった。


「どうかした、岡野君?」


 歩調を合わせて隣に並んでいた奈月が軽く首をかしげる。

 風は吹いていないのにサラリと流れるセミロングの黒髪に涼しさを感じた。

 彼女が纏っている香りがわずかに鼻を掠めて、酷く落ち着かない気持ちにさせられる。

 より正確に表現するならば、待ち合わせの場所で顔を合わせて以来ずっと落ち着けてなどいないのだが……衛の動揺レベルは時間とともに更新を続ける一方だった。

 自覚できるほどの衝動が胸の奥から突き上げてきて喉を塞いでくる。

 口元に力を込めて、奥歯を噛み締めて、その感情を噛み殺した。

 

「いや、さっきからずいぶんとお嬢様っぽいなと思っていた」


 衛は女性との会話を苦手としているわけではないが、得意なわけでもない。

 それでも、この状況で『お前、汗かいてるな』と指摘するほどデリカシーが欠落しているわけではないし、投げかけられた質問を無視するほど礼を失しているわけでもなかった。

 だから、代わりに違和感を覚えていた件についてツッコんでみたのだが……奈月は大きく目を見開き、こほんと咳ばらいをひとつ。


「ん……わりぃ。何か映画を引きずってたわ」


 目蓋を伏せて、開く。

 ニヤリと笑って、軽口をたたく。

 その姿は、いつもの『黒瀬 奈月』だった。


――器用だな、コイツは。


 まるでスイッチのオンオフを切り替えたよう。

 ただ……一連の動作は、どことなく儀式めいて見えた。

 要するにワザとらしく思えたわけだが、指摘するのは気が咎めた。

 

「そうか、そういうものだな」


「ああ。お前だっていつもより畏まってるみたいに見えるぞ」


「……そうか」


 空いた手で襟元を直す。

 特に意味のない動作だ。


「……」


「……」


 会話が続かない。

 最初のエスコート中には『あまり無理してペラペラしゃべらなくていい。こっちも疲れる』などとダメ出しを貰っていたが、あの時とは状況がまるで異なっている。

 言葉を交わしたい気持ちはある。

 ただ、迂闊に口を開くとどんな言葉が飛び出してしまうか自分でもわからない。

『吐いた唾は飲み込めない』という当たり前の事実に恐怖を覚える。

 隣を歩く奈月は――視線を四方八方に彷徨わせていた。

 周囲の様子を探っているというよりは、単に落ち着きがないように見える。


――何なんだ、いったい?


 とことん歯車が噛み合わない。

 不快感はないのだが、違和感はある。

 では、どうすればいいのか。元に戻るのか。

 心の中で問いかけてみるも、答えは見つからない。

 

「岡野」


 耳元でささやかれ、そっと手を引かれた。

 驚いて奈月に向き直ると、思いっきりジト目だった。

 呆れとからかいと、ほんの少し心配がブレンドされた――いつもの奈月の声だった。


「着いたぞ。ボーっとしてんな」


 その声を、その顔を卑怯だと思う。

 そんな自分に戸惑いを覚えた。

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