第6話 映画館にて その2

 スクリーンに映し出されているのは美しい恋愛劇のはずだった。

 ちゃんと正面を向いているのに断定できない理由は実に単純なもの。

 眼前の映像に集中できなくて、内容がちっとも頭に入ってこないからだ。


――し、集中なんてできるかッ!


 心の中で絶叫した。

 声に出さないよう、口元を抑えながら。

 まもるの意識は、そして視線は――すぐ隣にいる奈月なつきに捕まってしまっていた。


「……」


 その奈月の瞳はスクリーンに釘付けだった。

 普段は怜悧だったり茶化し気味な気配を漂わせていたり、あるいは崩れ気味だったりする美貌が、今は恍惚に色づいている。

 潤む瞳の奥に揺らめく光。

 かすかに朱が差した白い頬。

 意味ありげに艶めく桃色の唇。


――ミイラ取りがミイラになるって奴だな。


 先ほど『映画に夢中になっている梓を特等席で観賞するために予習する』などとアホなことをほざいていた人間と同一人物とは思えない。何なら奈月自身が恋愛映画に夢中な『恋する乙女』にしか見えない。

『そんなキャラかよ』と鼻で笑い飛ばせない雰囲気に、隣に座る衛は気が気でなかった。


――完全に映画に入り込んでしまっている……よな、コイツ。


 決して衛の一方的な思い込みなどではなかった。

 その証拠に……いくら周囲が真っ暗だからと言っても、至近距離からずっと見つめている衛の視線にすら気づいていない。

 これまでも時おり迂闊な姿を晒すことはあったが、今回はその手の隙とも異なっている。


「ん?」


 右手に柔らかい感触があった。

 滑らかな手触りで、軽いのに存在感がある。

 ほどよく冷房の効いた空気の中で、わずかな体温を感じた。


「……ッ」


 とっさに衛は声を我慢した。

 そんな自分を褒めてやりたくなった。

 感触の正体は――右側に座っている奈月の手。

 心臓がドクンと大きく鼓動を打ち、全身に熱を帯びた血液が駆け回る。

 意識を奈月から逸らすためにスクリーンに視線を送ると、そこでは主人公とヒロインが些細な行き違いから喧嘩して離別に向かおうとしていた。

 クライマックスに向かって盛り上がるシーンではあるのだが、あるはずなのだが……衛の心中はそれどころではなかった。

 奈月の手が気になって気になって仕方がない。


――落ち着け、落ち着け……隣に座っているのは黒瀬なんだぞ。


『これが春日井かすがいの手だったらなぁ』とため息を吐こうとして、できなかった。

黒瀬くろせの手なんて別にどうでも……』と笑おうとして、笑えなかった。

 今日まで奈月の手に触れたことはなかった。

 この映画館まで奈月をエスコートする際に、初めて触れたのではないかと思う。

 初めて触れる奈月の手は、衛から容易に言葉を奪っていった。

 ついでに平常心も奪っていった。


――どうする、どうする!?


 見るべきか。

 見ざるべきか。

 悩んだ末に奈月の様子を窺うと……先ほどまでと何も変わっていない。

 自分の手が横に座っている衛の手に重なっていることに気づいていないように見えた。


――コイツにとっては、どうでもいいことなのかもしれないな。


 学校での奈月は男女を問わず人気を集めるカリスマ的存在で、その立ち居振る舞いは毅然としているし、相手によって態度を変えることはない。学業の類はそれほど優れているわけでもなさそうだが、運動神経は抜群で体育の授業では大活躍しているし、クラスメート同士、あるいは先輩や教師が絡むトラブルを仲裁する姿を目にすることもある。

『頼りになる人』

 それが大半の人間が抱く『黒瀬 奈月』像であることは言を俟たない。

 ほとんど関わりがなかったとはいえ、衛の中にあったイメージも大差はなかった。

 だからだろうか。

 ひょんなことから奈月が『実は男性であると自らを認識している』と本人から告げられた時に『なるほどな』と奇妙に納得したことを覚えている。

 そして。

 ふたりきりの時の奈月は、また異なる姿を見せる。

 ……と言っても、こちらはまったくもってロクなものではない。

 本人は否定しそうだが、おそらく最も適切な表現は『バカな男友だち』だ。

 昼休みになるたびに、屋上でひとり弁当をつついている衛の傍に寄ってきて漫画雑誌(電子書籍)のグラビアアイドルを好き勝手に品評したり、他人(衛)の弁当に手を伸ばしたり。

 ゴロンと寝っ転がって大あくびをかましたり。

 時々よだれが垂れていたりもする。

 挙句の果てには『授業が始まるぞ』と諭すと『めんどくせぇ。サボるから代返よろしく』などと抜かす始末。

 さすがにスカートの中をおっぴろげたりはしないにしても、他の連中には決して見せ(られ)ない姿だ。

 本人曰く『岡野とふたりだけだと肩の力が抜けていい』とのことだが……いくらなんでも崩しすぎじゃないかと思うこともある。

 男同士で親友でもある『大河内 大河おおこうち たいが』ですら、もう少し取り繕うのに。

 そういう意味でも、やはり奈月が口にする『オレは男だ』というフレーズに納得がいってしまっていたのだが……


――違う。ぜんぜん違う。黒瀬は違うし、俺は勘違いしていた。


 述懐は苦々しくて、でも、ほんのひと匙の甘さを感じた。

 待ち合わせの場所に現れた奈月は、明らかに女性の恰好をしていた。

 本人はしばしば『女のふりをすることには慣れている』と嘯くが、どこからどう見ても『ふり』というレベルを超えていると思った。

 ひとつひとつの仕草が洗練されていて、今スクリーンに映されている女優と比較しても遜色ない。

 お世辞でもなく欲目でもなく『これが演技だと!?』と驚かざるを得ない。

 普段のぐ~たらな姿を知っているだけに、ギャップが凄まじい。

 そして。

 奈月の手は衛の知る手――男の手とは、あまりにも異なっていた。

 触れるだけで壊れてしまいそうな、それでいて無機質ではありえない感覚に心が震えた。

 違うのは手だけではなかった。

 一緒に歩いている間に微に入り細を穿つ猛烈なダメ出しを食らったが、そのいずれもが大河や妹の萌香もえかと行動を共にしている時には意識もしないことばかりで――根本的に視点が違うと感じられた。

 違う。

 奈月は違う。

 奈月は――


「うおっ」


 悶々としながら前を見て――思わず変な声が零れ出てしまった。

 口の端から辛うじて漏れた程度の小声だったから、隣の奈月はおろか周囲の誰ひとりとして気づかれることはなく、衛は慌てて空いている方の手で口を抑えた。

 正面のスクリーンではやたらと顔のいい男女が抱き合って熱烈なキスを交わしていた。

 

――なんだかなぁ……


 キス。

 その二文字から思い出されるのは、旧校舎裏での奈月とあずさのキスシーン。

 あの時の奈月と主演の男優が頭の中で重なった。目つきとか仕草とか。

 ただ……不思議なことに女優とも重なってしまって、どうにも反応に困る。


――黒瀬は、どちらに自分を重ねているのだろう?


 自分を男優に重ねて、梓を女優に重ねているのか。

 それとも……


「いや、ない。それは、ない」


 口の中で呟いた。

 奈月が自らを女優に重ねることはない。

 それは当たり前のこと。当たり前のことなのに、頭にこびりついた疑問が消えない。

 理由は簡単。

 映画に釘付けになっている奈月は――あまりにも女の顔をしているから。


――何なんだ、いったい。


 声には出さずに自問したが、答えは出なかった。

 自分にとって『黒瀬 奈月』とは何者か?

『友だち』認定に誤りはなかったか?

 奈月は男なのか、女なのか?

 そもそも答えはあるのか?

 わからない。

 何も、わからない。


「……はぁ」


 ふいに横合いから熱い吐息が漏れ聞こえた。

 食い入るように映画に熱中していた奈月の唇から無意識のうちに零れた音色には、これまでに耳にしたことがない色気が含まれていた。

 反射的に衛は身を強張らせてしまった。

 当然のごとく手を握ってしまう。

 重なっていた奈月の手の指が絡んだ。


 振り払われたりはしなかった。


 息が苦しい。

 汗が噴き出てくる。

 全身のそこかしこから訴えてくる異常が、頭をパニックに陥れてくる。


『~~~~~~♪』

 

 聞き覚えのある歌が流れる。

 スクリーンにスタッフロールが流れている。

 いつの間にか映画が終わっていた。緊張の時間が終わってくれた。

 身じろぎひとつできないままに館内が明るくなって、ゆっくりと横を向いて――


「はぁ……さすがによかった。評判になるだけのことはあるわ」


 視線の先で奈月が微笑む。漆黒の瞳が揺らめいている。

 ついぞお目にかかったことがない柔らかな笑みだった。

 握られたままの手は――やはり振り払われたりはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る