断章 屑石の述懐

断章 屑石の述懐

 腕のなかで、小柄な少女がすやすやと健やかな寝息を立てている。

 半びらきになった唇と、リボンのとけかけた胸元。それに朝陽を浴びて琥珀みたいに光をまとった、あちらこちらを向いたやわらかな髪。どれもこれも無防備そのもので、安心して眠っていいと言ったのは自分なのに、わけもなく苛立ちが込み上げてくる。

 先ほど突き落とされかけたばかりなのに、いったいどういう危機管理意識をしているのか。まったくもって謎だ。

 吹き寄せてきたひやりとした風に、エメリが身じろぎをして、少し赤くなった鼻をむずむずとさせる。ここ数日ろくに眠れていなかったのか、伏せられた睫毛の下には青ぐろくくまができていた。

 早く暖かいベッドに連れて行ってやらなければと思うのに、余計なことを山ほど喋ったせいか、どうにも身体がだるくて一歩も動きたくない。

 レネは脱いだフロックコートをエメリにかぶせると、彼女の薄い身体を引き寄せてちいさく息をついた。


 星生みの職人のなかからエメリ・オルセンを選んだのは、単純に御しやすそうだったからだ。

 半年ほど前に偵察のために夜翠玉を訪れたとき、ショーウィンドウ越しに見た彼女が、一心不乱にうつくしい石を研磨していたのを覚えている。地味でおどおどして、まだ恋も強烈な悪意も知らないような、まっさらな少女。ごみ山時代に少年のうちから、魔性と呼ばれるような女たちをも手玉にとってきたレネにとっては、格好の獲物だ。

 これだけ凡庸な少女なら、嘘に嘘を塗り重ねて恋に溺れさせて、いくらでも意のままに操れる。彼女にしよう、と心に決めるのにさほど時間は掛からなかった。

 ヒックス商会の程度の低い小悪党が、折よく彼女を嵌めようとしていたのも幸いした。彼女を救いだして恩を着せ、そのあとでいくらでも恋に落とせばいい。なんなら、レネにはいつわりの恋を楽しむ気概さえあった。

 あまりに嘘が手近にある人生を送ってきたせいで、レネは本当と嘘の境界が曖昧で、もはや自分のなにが嘘でなにが本当なんだか仕分けるのも億劫だ。

 だから、彼女に恋をするのも愛をささやくのも、苦ではない。

 ごみ山でも、金持ちの女やときには男を相手にそうしてきた。レネにとっては、必要があればそうするだけの手段にすぎない。二、三の嘘を繰り返すうちに、すぐに自分は彼女に本気で恋をしていると錯覚することができるだろう。


 ――それくらい、レネが生きるということは、嘘という嘘によってできている。


 レネの目算どおり、エメリは救いようがないくらいのお人よしの世間知らずで、単純かつ純粋で、そのうえ呆れ返るくらいにうぶで、憐れみすら感じさせる甘ったるい娘だった。すぐにレネに陥落しない用心深さはあったが、少し押してやれば、きっとすぐにクラウンジュエルを捧げてくれるにちがいない。そう確信した。

 なのにそうはならず、悪党の本性を見せざるをえなくなった。そうして脅してすかせば、今度こそ内気で弱々しいところのある彼女は従わざるをえないと思っていたのに、なかなかどうして彼女は強情で、そればかりかなおもレネに、あるはずもないなにかあたたかなものを見いだそうとした。

 身の上話をすることで、彼女の同情心に訴えられたのは結果的によかったといえばそうだが、本当はここまで深入りさせたくはなかった。

 彼女でなくても、クラウンジュエルを修復してくれる職人でありさえすればよいのだ。エメリがレネを憎んで去っていったところで、追いかけるつもりは毛頭なかった。人から煙たがられている彼女が、街でなにかを言いふらしたところで相手にする人間がいるとも思えない。

 だからさっさとレネの前から消えてくれればよかったものを、わざわざ彼女はこんな牢獄じみた城の天辺まで探しにきた。

 あまりにわけが分からなくて、まったく呆れる。彼女ほど自分から遠い存在は、宝石郷にだっていないんじゃないかと思う。

 なにもかもが、彼女相手だと上手くいかない。それどころか、自分自身にすらよく分からなくなっている心のうちを、彼女には探りあてられているような心地になる。

 それがなにより、気に喰わない。


(ああ、だけど)


 ずり落ちかけた彼女の頭を引き上げてから、そっと手をひらく。

 ガラス細工のイヤリングが、ころりと転がり出る。

 屑石だな、と素直に思う。

 表面は丁寧に研磨をされて、ダイヤモンドと見まがうようなカッティングがほどこされているが、内部の傷や気泡はどうしようもない。瑕疵をつくろうように底面に黒い塗料が塗られ、金属箔が敷かれているが、宝石細工に造詣の深くないレネが見ても、その価値の程度が知れるガラスだ。

 ――分かっている。

 自分が王の器にはほど遠い、決してダイヤモンドにはなれない屑石のような存在だということは。ごみ山の王にすらなれなかった人間が、一国を手中におさめるなど馬鹿げた夢想にもほどがある。

 だがもう、レネにはそれしかないのだ。贋の輝きを本物にするしか。

 そうでなければ、生きることも死ぬことも赦されるはずがない。誰にも顧みられることのなかった夥しい命の犠牲のうえに、レネは立っている。

 カノープスが罠に気づいていながら、どうして意見をひるがえしたかなんて見え透いている。

 すべては、レネを生かすためだ。

 弱くてまっとうでお人よしのカノープスは、レネが生きのびられるかもしれないわずかな可能性に賭けた。挙句、レネがその惨劇を直接目にしなくてもいいように、一度は振り上げた矛をおさめた。

 こんな醜悪な生を生きるくらいなら、レネはあの冷たく酷いにおいのする、ごみ山と嘲笑われたスラムで、血と臓物をぶちまけて死んでしまいたかったのに。

 だが、そんな思いとは裏腹に、残り火のようだったこの命は、しぶとくか細い火を燃やしつづけている。

 だから、レネはごみ山の王が王冠を戴く様を、彼らの手向けとすることに決めたのだ。この腐り果てた国には、ごみ山の王こそふさわしいと笑い飛ばして、死んでやると決めたのだ。


 朝陽を浴びて、ガラスが輝きをまとう。元は屑石のはずなのに、その輝きに目が眩む。

 きれいだな、と思った瞬間、目頭が熱くなった。

 レネは宝石細工を握りこんで、額に押し当てる。

 エメリは言った。贋物には、本物の金剛石とはちがう輝かせかたがあるのだと。その石には、その石だけの形があるのだと。

 ならばどうか、と願う。どうか、ほんの一瞬でもかまわないから、信じさせてほしい。

 汚濁にまみれ、醜く穢れたまがいもののこの身にも、クラウンジュエルに匹敵する輝きがあるのだと。

 だからレネは、この形が欲しかった。

 本当は屑石でしかない金剛石のまがいもののおのれには、喉から手が出るほど欲しい形だったのだ。


「——!」


 不意に自分ではないものの気配を感じて、顔を上げる。露台の際にエメリの相棒——ソルが浮遊していた。


「なんでこんなところに、って聞くのは野暮かな」

「あたしの核を握っているのが胸糞悪い下衆野郎から、エメリに移ったのを感じたからね」


 なるほど、石精というのは厄介な感知能力まで持っているようだ。

 もはや本性を隠す気が一切ないソルの口ぶりは、いっそすがすがしい。


「きみを見張っていた石精がいたはずだけど?」

「いくらあんたのお仲間だからって、同族殺しはしてないわよ。まあちょっと、ぶっ飛ばしはしたけどね」


 その答えに、レネは鼻白む。

 彼女の監視役として残した石精ふたりには、気の毒なことをした。

 こうなってはレネも殴り飛ばされて突き落とされても不思議ではないのに、彼女は規則正しい寝息を立てているエメリを覗きこんでいるだけで、なにも仕掛けてはこない。

 ソルはエメリを見つめたまま、レネの疑問に答えるように口をひらく。


「あたしはエメリの心の形に惹かれて、この国にやってきたわ。この子がなにを思っているか具体的には分からなくても、あんたを今ぶちのめしたほうがいいか、そうでないかは核を通して分かっているつもり」


 レネは、苦々しい思いでエメリのちいさなつむじを見下ろした。また自分は、このかよわい女の子に図らずもすくわれていたらしい。

 ろくでもない悪党の頼みを素直に聞き入れるなんて、どうかしている。


「永遠のときを生きる石精が、百年足らずで死ぬ人間なんかのために、その先の未来を棒に振るなんて馬鹿げた話、僕には理解できないけれど」

「なんとでも言いなさいよ。あんたなんかに理解してもらわなくて結構。それにその答えを教えてあげるのは、あんたじゃなくてエメリって決めてるの」


 ソルは傲然と笑う。

 そういう振る舞いが絵になる少女だ。

 もっとも、彼女は少女というにはあまりに長いときを生きているにちがいないのだが、感情表現が素直で豊かなところは、エメリに似て少女めいている。


「エメリを早く休ませるわ。職人は身体が資本よ」

「……意外だな。きみは、無理やりにでもこの子を連れて城を出ると思ってた。きみには、その力がある」

「そうしたいのは、やまやまだけどね。クソ忌々しいことに、エメリはそれを望んじゃいないの。あたしとこの子の間には大きなへだたりがあるから、それだけはしちゃいけないのよ」

「……へだたり?」


 レネには、ソルはだいぶエメリに近しいように思える。

 あくどいところはどちらかといえば少々レネに似ているとも思うが、情が深いところもまっとうで正義感が強いところもエメリに似ている。

 そう思ってから、ソルが言わんとしていたことがそういうことではないことに気がついた。彼女は石精で、エメリは人間だ。おそらくソルは、そのことを言っている。


「あたしは石精の力、エメリは核を盾に取ること。ルールをやぶれば、あたしたちは友だちじゃいられなくなる」

「……ルールね」


 石精のくせに、ずいぶんと倫理的なことを言う。

 どちらかがどちらかを力で無理やり従えたとき、このふたりの関係は破綻するということだろう。

 レネには途方もないくらい、遠い言葉だ。脅迫か懐柔か誘惑、そうした方法以外で誰かと関係を築くという経験は久しくない。レネにソルの力があったら、今ごろ復讐相手に鉄槌を下して回っていることだろう。

 ルールなんて、糞喰らえ。王位を望むのは、脆弱で無力な人の身ですべてを踏みつぶす力を得るためだ。


「いい加減、風邪をひく。運ばないなら、エメリを返して。運ぶつもりがあるなら、あんたが運んで」

「きみが僕に運ばせる選択肢を与えるとはね」

「はあ? 言われなくても虫唾が走りそうよ。エメリがようやくぐっすり寝られたのに、起こしたくないってだけ。言っとくけど、不埒な真似でもしたら、今度こそその足を砕いてやるから」


 物騒な発言をする石精に両手を上げて降参をしめす代わりに、レネはエメリを横抱きにして立ち上がる。

 今までにも何度か抱きかかえる機会があったからそのたびに思ってきたが、驚くほどに軽い。いったいこの頼りない身体のどこに、あのうつくしく力を秘めた形をつくりあげる源泉があるのだか分からない。

 だから間違ってもそれを壊してしまわないよう、ゆらゆら揺れる彼女の頭を慎重に肩に凭せかけた。

 寒いのか、エメリはレネの体温を求めるように頬を寄せる。


「——ルールなんかやぶりっぱなしの、最低のクズのくせに」


 ソルは恨めしげな、羨望のにじんだような声音で言う。

 そのことになぜか、胸のすくような思いがする。

 戦闘に特化した石精である彼女には、力ではどうやっても敵わない。そんな相手の機嫌を損ねられたという優越感だろうか。


「驚いた。案外、鈍いのね」


 訝しく彼女を見やれば、ソルはレネを見下ろして、そのうつくしい面に笑みを刻んだ。


「……難儀な男」


 憐憫とも嘲りともつかない表情に、反発心を覚える。

 前言撤回だ。やはり見た目こそ少女に見える彼女もまた、ネレウスと同じ、人間とは別種の生きものらしい。なにもかもを見透かすような眼差しが、煩わしくて我慢ならない。

 すぐにでもその場を離れたかったが、急げばきっとエメリが目を覚ます。そうすれば自分で歩くと言いだして、レネの腕から飛ぶように逃げていくだろう。

 今はまだ、このぬくもりを離したくはない。

 十三の頃からずっと、つめたい夜の牢獄でありつづけた城には朝陽が射しこみ、穏やかな静寂に彩られている。レネは露台を後にすると、いっそ緩慢に思えるような足どりで、薄明るい城内を歩きはじめた。



<第1部 宝石細工師と硝子の願い 完>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宝石細工師といつわりの王子 エミテルレーシア石綺譚 雨谷結子 @amagai_y

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ