10 クラウンジュエル

 彼につられてエメリもぼんやりしたくなったが、そういえばまだ傷の手当ては手だけしか終わっていない。

 エメリは彼の身体をそっと押し戻すと、レネに向きなおった。よくよく見てみれば彼の上着はところどころ穴が開いている。


「ぬ、脱げる?」


 躊躇いがちに尋ねたときにはもう、彼はいつものうるわしい王子然とした笑みを浮かべていた。

 先ほどのおかしな様子はまるで幻だったかのように消え失せている。


「きみってやっぱり、案外積極的だよね」

「冗談、言ってる場合、じゃない」


 こんな状況でまでろくでもないことを言っているレネに焦れて、エメリは彼がたらたらと服を脱ぎだすのを手伝ってやる。

 しかしその肌があらわになるにつれ、自分はひょっとするととんでもないことを言ってしまったんじゃないかという気になってきた。

 戦闘に特化した石精相手にあれだけの大立ち回りを演じただけあって、レネの身体は鍛え上げられていた。

 おそらく着やせするのだろう。腹筋はいくつも割れているし、大胸筋なんかはひょっとするとエメリの胸部よりも立派なのではないかという具合にたくましい。もちろんまじまじと見てはいないけれど、なんだかいけないことをしている気分になる。

 首から上はいつもの優雅な王子さまなのに、その下が直視にたえない。まだかろうじて腕に袖が引っかかっているけれど、そのことにほとんど意味などなかった。

 しゃがみ込んだまま後退りしようとすると、レネはエメリの腕を取った。ぐいと力をこめて手を引かれ、彼のほうに倒れこみそうになる。

 すんでのところでなんとか腕を差しこんだけれど、それで彼のすべてを遮断できたわけではなかった。

 香水の香りに混じって、ほんのりと汗のにおいがする。

 わけが分からなくて、たまらなく泣きだしたくなった。


「な、なん、なのっ!? わたしは、レネのこと、心配して――」

「なにって、最後のチャンスだからね」

「チャ、チャンスって、なん、の?」

「きみを、誘惑する」


 ゆうわく。

 ゆうわくとは、あの誘惑だろうか。


「ねえエメリ。僕はね、きみにはできればやさしくしたい。だから提案なんだけど、僕の恋人にならない?」

「こ――」


 次から次へと飛びだしてくる無茶苦茶な冗談にエメリは口をぱくぱくとさせる。

 レネの言っていることはさっきから全然まるで、意味が分からない。今は怪我の手当ての途中で、エメリとレネはただの職人とお客さまで、そういうことになる理由がないし、どう考えたって本気じゃない。

 石精との戦闘と怪我で疲れがどっと出て、頭がまともに働いてないのかもしれなかった。そんな悪ふざけに付き合うよりも、今は彼にこれ以上怪我がないのかどうか確めることのほうがずっと大事だ。

 なんとかレネの腕を振りきって、彼の身体に引っかかったシャツを上着ごと取り去る。

 瞬間、彼の背中が目に飛び込んでくる。エメリは絶句した。

 エメリの茫然とした表情に気づいた様子で、レネはどこか面倒そうに顔を背ける。

 レネの背中には、痛々しいほどの大きな古傷が残っていた。

 肩甲骨の下から腰の辺りまで、深く斬りつけられたような跡がある。それだけではない。よくよく見てみれば、小さな古傷はお腹や胸の辺りにも散らばっていた。


(七年前に、暗殺されかかったって言っていたときの……?)


 少なくとも、ここ一、二年でできた傷ではない。

 身体の傷は見せてもらえても、心の傷にまで触れていいか分からなくて、エメリはきゅっと唇を噛む。

 だが、彼の傷はそれだけではなかった。

 彼の身体には真新しい傷もあった。シャツの取り払われた肩には、大きくはないがガラス片が二、三突き刺さっている。先ほど負った怪我だろう。

 上着の色が濃くて分からなかったが、シャツは血染めになっていた。

 これで大げさだなんて、痩せ我慢もたいがいにしろと言いたい。

 エメリは仕事道具のなかから鑷子せっしと銀鋏を拾い上げると、その先端を火で炙ってから水差しの水で冷やし、清潔な布できれいに拭いた。


「へ、へんなお色気作戦、で、痛いの我慢するのも、だめ」


 エメリはレネを軽くにらんだ。もうどんな彼の搦め手が迫ってきても、一歩も引かないかまえだ。

 対するレネは、真顔になった。


「……お色気作戦」


 少し不機嫌そうな目つきをする。

 こんなにきれいな人が、ただの雇われ職人でしかないエメリにやたらとかまうことにどれほど深遠な理由があるのか分からない。だけど、その少し間抜けな感じがする字面は彼のお気に召さなかったらしい。

 エメリは訂正はぜったいしないぞと心に決めて、極力彼の身体を傷つけないように鑷子と銀鋏を動かす。

 自分が細かな細工を本分とする宝石細工師でよかった。レネに与える痛みを最小限に抑えて、彼の傷を処置することができる。

 エメリが手際よく患部からガラス片を取り除いていくのを、レネはふてくされた顔でじっと眺めていた。

 やがて、すべての処置が終わる。

 レネはしばらく黙りこくって、微動だにしなかった。けれどエメリが立ち上がるのを見てとると、静かに息を吐きだす。ひどくささやかなのに、やたらと重くその吐息は空気を揺らしたように感じられた。


「エメリ。クラウンジュエルを見せてあげる。おいで」

「——え? い、いいの? その前に、身体を休めたほうが……」

「いいんだよ。じゃないと、このままずるずるとぬるま湯につかっていたくなるからね」


 ぬるま湯とはなんだろう。

 レネの返事はふくざつなたとえ話でもしているのか、要領を得ない。

 たしか昨日は、クラウンジュエルを見せるのは何日か先がいいと言っていた。おそらく事情が変わったのだ。

 十中八九、先ほどの襲撃が原因だろう。彼は黒の石精が現れたことを誤算だと言っていた。

 エメリはそっとソルを見やった。彼女はわだかまりなど忘れた様子でうなずいて飛んでくると、エメリの肩に乗る。


「クラウンジュエルは地下にあるんだ。行こう」


 ◇


 じめじめとして暗く黴くさい石積みの廊下には、昔ながらの燭台が一定の間隔で吊るされていた。

 レネがそのひとつひとつに火を灯すたびに、闇がわずかにその身を縮める。

 かつては囚人を幽閉するために使われていたのか、エメリの歩く両脇には鉄格子で区切られた部屋がいくつも並んでいた。なにかおそろしいものが暗やみから手を伸ばしでもしてきそうで、エメリはぶるりと身を震わす。


「気味が悪いわね」


 そう言いながらもまるで動じていないソルの声が頼もしい。

 城の地下は当代ではほとんど使われていないらしく、いくつかの木の扉は朽ちかけていた。鍵もかからなさそうなこんなところにクラウンジュエルを保管しておくだなんて不用心なんじゃないかと思ったが、レネが足を止めたのは地下の最奥にある、鉄の扉の前だった。

 レネは古めいた鍵を取りだすと、錆びた鍵穴に差しこむ。なにかを引っ掻くような人を不安にさせる嫌な音を立てて、扉がひらいた。


「段差があるから、気をつけて」


 レネの親切な忠告にうなずきつつ、おそるおそる足を踏み入れる。

 中はひんやりとしていたが、意外にも黴くささはましだった。代わりに埃っぽさにエメリはくしゃみをする。思ったより広い空間に、音は反響して聞こえた。

 礼拝堂に似ている気もするが、エメリの知るものとはだいぶちがう。

 何列かの会衆席のようなものが設けられていたが、それらはほとんどが朽ち果てていて、ただ奥の古びた聖壇の上に埃の積もっていない布が置いてあった。

 レネがその布を取り去ると、その下から木箱が出てくる。木箱にはこれまた鍵がかかっていて、鎖を巻いて聖壇や柱にくくりつけてあった。

 レネは大儀そうにそれらを取り去っていく。

 しばらくして、鍵が小気味よくひらく音がする。エメリは知らず唾を飲み込んだ。


 クラウンジュエル。

 この国で王家の血を引く男子が生誕とともに与えられる、玉座への足掛かりとなる宝石。

 エミテルレーシアのクラウンジュエルは、今までもこれからもダイヤモンドと決まっている。銀石ですら傷つけられぬことから、征服できないものとして石の頂点に君臨し続けてきた。

 それも、至高の石精の核であるクラウンジュエルだ。

 エメリはこわごわ箱のなかを覗きこむ。


(——なんて、きれい、なの)


 エメリはぼうっと目を奪われる。

 それはまるで、ティアラのように繊細な王冠だった。

 正面にはいくつもの切子面をほどこされたクラウンジュエルが燦然とかがやき、数千個の小さなダイヤモンドが、アイリスをはじめとする花々を模した踊るように軽やかな銀細工と調和している。

 王冠の内側に一般的に使用されるベルベットの帽子などはなく、カラーストーンもない。ただダイヤモンドと銀細工だけで構成されているその洗練された姿は、排他的なまでに潔癖でうつくしい。

 どこまでも純粋で、それゆえの危うさをもつ宝石細工だ。金剛石が散りばめられているのに、触れればもろく崩れ去る降りそめの白雪のように、どこかはかない。

 けれどその銀細工はところどころ歪み、ダイヤモンドもいくつか剥がれ落ちていた。レネの言っていたとおり、クラウンジュエルにも傷が見える。

 だが、間違いなく本物だ。これほどの透明度と質量を誇るダイヤモンドは、王家でもなければ手にできない。


(レネは本物の、第四王子殿下なんだ)


 緊張がほどけて、胸を撫でおろす。

 レネは、そっと王冠を手に取った。彼はどこか冷めた目をして、白銀のかがやきを見下ろす。

 エメリは呆けたように絵画のような光景を見やって、それから凍りつく。


「あ…………」


 後退りをしたエメリは、会衆席に足を取られて尻もちをつく。

 レネはぞんざいに王冠を手でもてあそびながら、ゆったりとエメリを振りかえった。


「——気づいた? まあきみなら気づくかなあと思っていたんだけど」


 藍玉の眸が、手燭の炎を映した昏い輝きを宿してなお、愉しげにかがやく。

 エメリはほとんど喘ぐように、息も絶え絶えに宣告した。


「あ……あなた、は――本物の、レネ・リュークストンじゃ、ない」

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