9 おまじない
「大丈夫?」
さっきとは逆に、レネがエメリに手を差しだす。
その手には小さな傷ができて、血が流れていた。レネはごめんやっぱり自分で起きて、と軽く笑って手を引っ込める。
慌ててエメリは、彼の全身をくまなく確認した。幸い大きな傷はないように見える。
「す、すぐ、手当、するね」
「大げさだな。大丈夫だよ」
「わた、わたしが、大丈夫じゃない、から」
レネはそれ以上は固辞せずに、微かに笑った。
「レネ、強いん、だね。びっくりした」
「ヘクターには王子らしくないと言われるんだけどね。まあ剣も扱えるんだけど、こっちのほうが性に合ってる」
レネはどこか罰が悪そうに目を逸らして言った。
たしかに、体術というか喧嘩が得意な王子さまというのはあまり聞いたことがない。とはいえ、レネは幼い頃に殺されかけた身だ。武器を取り上げられても戦える力を身につけたいと思うのは、当然かもしれない。
「それよりもきみの友だちに助けられたよ」
水を向けられたソルはまだ城の外を見渡していたが、慌てて振り向くとハンマーを虚空に掻き消して、手乗りサイズの大きさまでちいさくなった。
「や、やーん。ちょっとばかりカッときちゃったわ。あたしって、いつもはあんなんじゃないの。もっと可憐でおしとやかでつつましい、美少女石精なのよ」
ソルは恥じらうようにうつむいて、乱れたドレスを何度も直している。
「きみは戦う姿も魅力的だったよ」
こんなときでも甘い言葉を忘れないレネは、賢明にもソルの暴言についてはなにひとつ言及しなかった。
ソルの顔がぱっと華やぐ。
「さすが、王子さまはそこらの男とは格がちがうわ!」
猫かぶりとおべっかというよりもおそらく本音寄りの、実感のこもった言葉がソルから漏れる。
だけどエメリも、ソルを褒められて悪い気はしなかった。
彼女は、いつもはそのあり余る力をペリドットの核に封じている。けれどひとたび必要が生じれば、こうして戦いに身を投じる。
可憐と言われがちな成りをしながら、誰よりも強靭でたくましく戦場で舞うソルは、幼い頃からエメリの憧れだった。
「ソルは、怪我はない?」
「へっちゃらよ。あんな生意気な雑魚——こほん、野蛮な侵入者に後れを取るあたしじゃないの」
もちろんエメリは、ソルの強さをよく知っている。でも、今回は相手も相当の使い手だった。注意深くソルの身体を見回して、その小指の先に罅割れを見とめる。
ソルはエメリの視線に気づくと、思わずといった様子でその手を後ろ手に隠した。
「——ソル」
「やぁね。あんたって大げさなのよ。核持ってたエメリが傷ついてないのに、あたしがひどい怪我負うわけないじゃない。ちゃんとひなたぼっこして大人しくしとけばいいんでしょ」
ソルが拗ねた様子で部屋の隅のほうへと移動する。
石精は食事をとることも眠ることもできるが、本来はそのどちらも必要としない。食べても眠っても栄養はとれないし、身体が休まることもない。
ただ核が損傷していないかぎり、時の経過とともに傷は癒える。そして核となった石の性質によって、ある条件下で回復が早まることもある。
ペリドットの場合は、太陽の光を浴びるのがいちばんらしい。
「ほら、突っ立ってないで、あんたにできることをしなさいよ」
彼女の言うとおり、命がけで戦ってくれたソルに、エメリがしてあげられることはなにもない。
苦い思いを飲みくだして、エメリは立ち上がる。なにはともあれ、レネの手当てだ。
「すぐ、戻るね」
荒れ果てた作業場を後にし、エメリは廊下に足を踏みだす。
ソルの忠告を思いだして廊下を見渡すが、とくに誰もこの部屋を見張っている人はいなかった。侯爵も駆けつけてくる様子がないので、外出しているか藍玉宮に行っているのだろう。かなり派手な音がしたのに騒ぎになっていないのは変な感じがしたが、これももしかすると石精の力が関係しているのかもしれない。
寝室から水差しと清潔な布を持ちだす。すぐに作業場に舞い戻って、椅子に腰かけたレネのそばに膝をついた。
「少し、しみるよ」
エメリはそう宣言すると、水差しの水を布にふくませてレネの手のひらや手の甲にあてがっていく。
傷口に触れたとき、レネが反射のように手を引いた。
レネはそれきり涼しい顔をしたが、痩せ我慢にちがいなかった。
彼の語った境遇が正確にしろ不正確にしろ、おそらくこの人はこれまで自分の弱みをひた隠しにして生きてきたのだと、それだけで分かった。
どこかソルに似ている。自分が戦うのが当たり前で、たとえ傷ついてもそのことに頓着しない。
だから、我慢して、と言おうとしていた口を閉じて、エメリは別の言葉を口にした。
「ごめん、なさい。痛い、よね」
レネは、虚をつかれたように目を瞠った。けれど、かろうじて優雅な微笑を引っ掛けて答える。
「僕はきみよりは、頑丈にできてるからね」
「うん。……だけど、痛かったら痛いって、教えて、ほしい」
たしかにレネもソルも、エメリよりもずっと強いし頼りになる。
でも、そのことに胡坐をかいて、その痛みを見ないふりはしたくない。男の人だから、石精だからと強くあることを強いたくはない。
彼はなにか言おうとしたが、結局口をつぐんで大人しくされるがままになった。
よく回る舌をどこかに置き忘れてきたかのように、彼はしゃべらない。
妙な沈黙に耐えきれず、エメリは話題を探す。
「あの石精の正体は、知ってる?」
「さあね。でも僕には敵が多い。ヘクターにも。女王の手の者だったら厄介だな」
レネは、確信を持てない様子で言う。
その答えにエメリは戸惑った。
「さっき、あなたはあの石精がなんなのか、正確に理解してる、みたいだった」
「そう? 勘ちがいじゃないかな」
レネは取りつくろおうともせずに、エメリの発言を流す。
エメリの疑念をたしかに感じとっている様子なのに、お得意の口八丁手八丁でごまかそうとも誠実に説明しようともしない。
まるで、どこか投げやりになったような。そのことにますます戸惑う。
「まあ、今に分かることだから、少し待ってよ」
くたびれた様子で言うと、レネは椅子から滑りおりて床に座りこんだ。そのまま、エメリの肩に頭をもたれる。
エメリは飛び上がりそうになったが、相手が怪我人だったことを思いだしてぐっとこらえた。
思わず助けを求めるように、部屋の隅に陣どったソルを見やる。
するとソルも先ほどまで拗ねていたのが嘘のように、すごい形相でエメリを見つめていた。その口が、音もなく「な・に・や・ら・せ・て・ん・の」と言っている。
そんなことを言われたって、エメリにもなにがなんだか分からない。
なんだかレネの様子がとてもおかしい。
極力レネのほうを見ないようにして現実を直視しないようにしているのだが、右肩に掛かった重みと熱がそれを許さない。
「あの、レ、レネ?」
「きみが言ったんだよ。痛いって言っていいって。だったらなぐさめてよ」
どこかふてくされたような口調に、幼さを感じる。二十歳の男の人にそんなふうに思うのはおかしいのかもしれないけれど、そう思ってしまったのだから仕方がない。
エメリはレネの髪にそっと指を差し入れて、二度三度と撫でてやる。
彼は少し身体をこわばらせたが、抵抗はしない。エメリはレネの好きにさせたまま彼の左手を取って、傷口に乾いた布を当てて留めてやった。
エメリはそのままレネの手を、そうっと自分の額に当てる。
「なにこれ」
レネは怪訝そうに言う。いつもより少し低いその声は愛想こそなかったが、不思議とこわくはなかった。
「痛みが半分こになる、おまじない」
「……おまじない? 聞いたことないな」
「あ……お父さんが、いつもやってくれたの。お父さんは昔、お母さんに、やってもらったんだって」
おそらく母の家にだけ伝わっているような、たわいもないものだったのだろう。でも、エメリにとってはこれがいちばん思い出深くあたたかな記憶だったので、思わずレネにもやってしまった。
しかしよくよく考えてみると、家族でもない赤の他人にこんな一風変わったおかしな儀式みたいなことをされて、ひょっとするとレネは気持ちが悪かったかもしれない。
エメリは慌てたが、レネはぼんやりとおまじないをかけられた左手をかかげて見つめている。
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