11 過去

「僕が生まれたのは、ハイネブルグにある貧しい家だった」


 夜の静けさよりもなお静かな声が落ちる。

 仄かに白みはじめた空のもとで伸びた彼の影を見つめて、エメリは耳を澄ませた。


「六歳の頃、母に売られかけてね。必死で逃げだした先で辿りついたのが、かつてこの街でごみ山と呼ばれていた貧民街だった」


 エメリは息を呑む。


(そうだ、思いだした)


 前に侯爵が言っていた、‟ごみ山の王”という言葉。通称“ごみ山”とは今はなき貧民街のことだ。

 エメリが十かそこらの頃に、侯爵の主導のもと都市の整備が進み、ごみ山などと呼ばれた一角があったことは、今ではほとんど忘れられている。

 前に生い立ちを語ったとき、レネは十三のときに貧しい家から侯爵にさらわれてきたと言っていた。だが実際は、もっと壮絶だったようだ。


「そこには同じような年頃の子どもが、何人もいた。来る日も来る日もごみを漁ったり、悪徳宝石商や金持ちから物を盗んだり、詐欺を働いたり、身体を売ったりして、ねぐらをしょっちゅう変えてはその日暮らしをしている連中だよ。殺しだけはしなかったが、それ以外のことはなんでもやった。……きみには、想像もつかないかもしれないね」


 エメリも昔、そういう子らを見かけたことはある。

 父からは、決してひとりでその界隈をうろついてはいけない、と言い聞かされてきた。薄暗く、道々は汚れて酷いにおいがして、そこにいる子たちはなんだかあまり身なりがきれいじゃなくて、乱暴でこわくて、その近くを通るときはいつも父の手を握って目を伏せるばかりだった。ただぼんやりと、どうしてあの子たちにはお父さんとお母さんがいないんだろう、どうして悪いことばかりをしているんだろうと思ったのを覚えている。

 だからレネの言うとおり、エメリは彼らを知らない。彼らがどんな暮らしをして、どんなふうに世界を見つめてきたかを。

 それは、かがやける宝石領と讃えられるハイネブルグにたしかに存在する影だった。


「僕らの共通項はただひとつ、大人を信用しないということだけだった。力自慢のやつ、ずる賢いやつ、頼りになるやつ、ならないやつ、色々いたけど、なかには良家の子どももいた」

「貴族……ってこと?」

「そう。落ちぶれた、ね。暇さえあれば形見だというアクアマリンを眺めているような、ごみ山に似つかわしくない繊細なやつだった」

「アクアマリン……」


 エメリはそっとその石の名を繰り返す。

 アクアマリンといえば、ひそかにエメリがレネの眸の色だと思っている石だった。


「彼は身体が弱くよく熱を出したが、聡明でみんなの知らないことを何でも知っていた。僕に読み書きや人間らしい振る舞いを教えてくれたのも、彼だった。みんな病弱な彼のことを役立たずと煙たがっていたけど、大きな盗みをするときの司令塔はいつだって彼だった」

「頭のいい人、だったんだね。レネみたいに」

「……どうかな。彼はお人よしだったから」


 あげつらうようにそう言いながらも、レネの眸にやわらかな光がよぎる。

 言葉は少なかったけれど、それだけで彼がレネにとってどれほど大切な人だったかは理解できた。


「……その人たちが、レネの家族、だった?」

「そうかもしれない。僕は四つ上だった彼を――カノープスを兄のように慕っていた」

「聞いても、いいなら。あなたはそこで、なんて呼ばれていたの?」


 一度は跳ねのけられた問いを、エメリはもう一度口にする。

 以前は、もう忘れたと言っていた。

 だけどレネは、カノープスの名を覚えていた。ならば、と思ったのだ。


「……赤ん坊の頃につけられた名は、本当に忘れた。でも、カノープスが僕に新しい名をくれたから、それは覚えている」


 レネは秘密を打ち明けるように、ひそやかな声でささやいた。


「レグルス。カノープスは、古い言葉で『ちいさな王』という意味だと教えてくれた。いつかきっと、おまえはごみ山の子らを率いるようになるから、それにふさわしい名がいいと」

「……レグルス」


 エメリがたしかめるように繰り返した響きに、レネはむず痒そうな顔をした。


「みんなは、痩せっぽちのちびのくせにえらそうな名だと笑って、レジーと呼んだけどね」


 おどけたような声には、愛情と一抹の寂しさがにじんでいた。


「十一を数える頃には、カノープスの言うとおり僕は彼らのリーダー格になっていた。毎日のように犯罪を繰り返していたし、時には仲間を失うこともあったけど、それでも僕らは毎日面白おかしく生きていた。僕たちは誰よりも自由で、身ひとつで大人たちとも対等にやり合って生きていけるのだと信じていた」


 その信条は、おそらく砕かれることになったのだろう。

 ろくに世間を知らないエメリでさえ、この街で生きていくのがどれほど不自由であるかの一端は知っている。幼い頃から抱いてきたただ宝石細工が好きだという気持ちだけではままならないことが、この世界には山ほどあった。

 エメリのためらいがちなまなざしを受けとめて、レネは自嘲するように唇をゆがめた。


「呪いの石を売るという宝石商に手を出したあたりから、雲行きが怪しくなってきた。そいつは戦闘用の石精も商っていてね。石精が現れては、いくつかのアジトがつぶされた。命までは取られなかったが、いつの間にか僕たちのアジトは野戦病院のような様相を呈していた。怪我のせいでろくに食糧や金目のものを盗んでくることも、身売りもできなくなって、仲間たちは日に日に痩せていった。そんなときだ。ネレウスを連れた侯爵が僕たちの前に現れたのは」

「……それが、六年前のこと?」

「そう。侯爵は僕らの噂を聞きつけて、跡取りとして迎え入れたいと持ちかけてきた。他の子たちは孤児院に迎える用意があるから、なにも心配いらないと」


 侯爵は慈善事業にも力を入れていて、六、七年前に孤児院を設立していたはずだ。エメリも昔、あまり仲良くなれなかったが孤児院の子たちと遊んだことがある。だから、孤児院の話が出てくるのはおかしな話ではない。

 おかしいのは――。


「……跡取り」

「そう。いつもの僕らだったら、信用しない話だった。侯爵はたしかに嫡男を亡くしている。だからといって侯爵家の跡取りを、どうしてよりにもよって、ごみ山から選びだす?」


 その理由は、今となっては明白だ。

 侯爵は、街を騒がせるごみ山の子らを率いるリーダー格が、ちょうど失踪した第四王子レネと同じ銀髪青目で、見目うるわしく利発なちょうどよい年頃の少年だと知ったのだろう。

 侯爵は元からそういう少年を探していたのか、それとも思いがけない偶然だったのかはさだかではないが、少なくとも跡取りなどという話がでまかせなのはまちがいなかった。


「信じた、の?」

「おそらく誰も信じちゃいなかった。だけど、怪我人と病人だらけになった仲間たちはいつ来るともしれない石精の襲撃に脅えきっていて、腹を空かせていた。僕ももう――降りたくて仕方がなかった」

「降り、る?」


 エメリの問いに、レネはどこか凶暴な笑みをひらめかせた。


「彼らの王であることから。僕ではとても、守りきれない。それほどの器は、僕にはなかった。僕は、病気で痩せ細っていく年下の女の子をそばで看取ることすらできない、臆病な人間だった」


 エメリの脳裏に、ごみ山の片隅の藁を敷いた寝床に横たわる少女と、彼女を囲む子どもたち、そして彼らから離れた場所で、しゃがみ込んで膝を抱える幼い銀髪の少年の姿が像を結ぶ。

 陰鬱で色濃い死と悲嘆のにおいが、鼻先を掠めた気がした。


「それは……、臆病なんじゃなくて、あなたが――」


 エメリは彼に騙されていた頃にも告げたある言葉を言いかけたが、下手な慰めでは余計に彼を傷つける気がして口をつぐむ。代わりにレネの手に手を重ねて、事実を口にすることにした。


「あなたも……子ども、だった」


 子どもが、子どもの命を背負わなければいけない世界はおかしいと思う。

 彼はエメリを見ない。その言葉を拒絶するように、手を引き抜かれる。それが事実だとしても、彼がそう思えないのでは、意味がなかった。


「そんな状態だったから、侯爵の申し出を僥倖だとも思ったよ。だけどカノープスが反対した。なにかの罠にちがいないと。でも、カノープスはどういうわけかすぐに意見をひるがえした。『やっぱりそうしよう。こんな世界にも、信じられるものはある。それに僕も、そろそろあたたかい蚤のいないベッドで寝られるものなら寝たいからね』と。それで僕たちは再会を約束して別れた。カノープスの翻意のわけは、城に行ってすぐに分かったよ」


 淡々とした口調なのに、どこか不穏さを増してくるレネの語り口に、エメリの喉がいやな音を立てて唾を飲みこむ。

 エメリはつとめて感情をおさえて、レネを見つめた。


「翻意の、わけって?」

「城には、僕たちのアジトを襲っていた石精が……紅玉の石精——イシュムがいた」

「どういう、こと……?」

「すべては仕組まれていたことだった。宝石商のものだと思っていた石精は、侯爵のものだった」


 エメリは言葉を失った。

 それでは侯爵はわざわざレネたちを追いつめて、そのうえで慈悲を与えるような真似をしたということだろうか。


(どうして、そんな回りくどい真似を)


 侯爵の思惑が分からない。第四王子に容貌が似ていたレネが欲しいだけなら、レネひとりに交渉すればよいことだ。

 とはいえ、ごみ山の子らの生活が上手く回っていた頃であれば反発されることが目に見えている。レネを穏当にハイネブルグ城に招くために彼らを弱体化しておきたかったのかもしれないが、それで暴力沙汰まで起こして他の子どもを巻き込む意味があるだろうか。

 かつて家をもたぬならず者で溢れかえっていた貧民街は、侯爵が罪人を捕え、浮浪児や罪人の子らは孤児院に保護されてずいぶんと治安がよくなった。家なしの子らが完全にいなくなったわけではないが、ごみ山という不名誉な名も今や過去のものだ。

 ならば石精をけしかけなどせず、はじめから彼らを保護してやれば、レネはともかく他の子たちまで傷つかずに済んだ。


「侯爵は唖然とする僕に向かって言った。お前はフィガルテではなく、この国の至高の名を継ぐのだと。当然僕は、反抗した。聞いていた話とちがう。お前を信用することはできない。仲間の元に帰せと」


 それはそうだ。自分たちを苦しめていたのが侯爵だと知って、さらにわけの分からない要求までされたら、従う義理はない。

 いずれ露見することにちがいなかったが、侯爵はどうして甘い嘘で騙すのではなく、わざわざレネを反発させるような発言をしたのだろうか。


「カノープスはきっと、侯爵の申し出を受けようが断ろうがこうなることを薄々察していた」

「こうなる、こと?」

「侯爵は言った。帰る場所などもうないと」


 エメリの背を、ぞわりとしたものが駆け抜けた。


「間もなく、血まみれのイシュムが執務室に入ってきた。彼は、一抱えもある襤褸切れを床に放った。ずたずたに切り裂かれたその服は変色して変わり果てていたけれど、全部見覚えのあるものだった。なかには、カノープスが大事にしていたアクアマリンもあった」


 白みはじめた空は大地をあたためつつあったが、そのことに意味はなかった。

 エメリは震える手指を何度も擦りあわせる。

 そんなむごいことが、あっていいはずがない。そんなむごいことがどうしてできるのか、理解ができなかった。


「すべてお前が選んだ結果だと、侯爵は言った」

「ちがう!」


 エメリは叫んだが、ぼろぼろと涙がこぼれてしまって様にはならなかった。

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